作品タイトル不明
第二十九話 公爵夫人の部屋
公開査問の三日後、エルミーヌ公爵夫人が冬鈴館を訪れた。
事前の手紙には、長い言い訳はなかった。
『息子の木札を持参します』
それだけだった。
私は応接室ではなく、温室の隣の小部屋を用意した。そこは子どもたちの会議が行われた場所だ。壁には、嫌なことと安心することの紙がまだ貼ってある。
エルミーヌ公爵夫人は、黒い箱を抱えていた。
彼女は部屋に入ると、壁の紙を見た。
「泣いても怒られないところ」
その一文を、小さく読み上げる。
「子どもは、こんなことまで部屋に求めるのですね」
「大人も求めているかもしれません」
彼女は答えなかった。
箱の中には、古い木札があった。
ルシアン。
幼い文字で書かれた名前は、少し薄くなっている。角は削られていない。小さな傷がいくつもあった。
「息子は、自分の部屋の扉にこれをかけていました」
エルミーヌ公爵夫人は木札を机に置いた。
「亡くなった後、私は札を外しました。見るのがつらかった。部屋も片づけました。玩具も、本も、服も。何も残さない方が、正しく弔えると思った」
彼女の声は静かだ。
でも、指は木札から離れなかった。
「その後、王立療養院の後援を始めました。個人の部屋に頼らない、母の判断に頼らない、誰でも同じに救われる施設を作りたかった」
「同じに救われる、ですか」
「ええ」
彼女は私を見た。
「でも、あなたの娘の札を見た時、分からなくなりました。私は息子の部屋を消したのに、他の子どもの部屋まで消そうとしていたのかもしれない」
私はすぐに慰めなかった。
慰めれば、彼女の罪も悲しみも簡単に薄めてしまう。
「公爵夫人。あなたの寄付で助かった子どももいます」
「それを理由に、番号で呼ばれた子を見ないふりはできませんわね」
「はい」
彼女は小さく笑った。
「残酷ね」
「必要な時だけです」
以前と同じ言葉を返すと、彼女は今度は少しだけ本当に笑った。
その時、扉が小さく叩かれた。
リュシーだった。
会うかどうかは娘に聞いた。彼女は短く「木札、みる」と言った。
リュシーは私の隣に立ち、ルシアンの札を見た。
「これ、だれ?」
エルミーヌ公爵夫人は膝をついた。
「私の息子です。ルシアンといいました」
「へや、なくなった?」
「私が、なくしました」
リュシーは眉を寄せた。
「かなしい?」
「ええ。とても」
娘は少し考えた。
「じゃあ、ここに、ちょっと、おく?」
私はリュシーを見た。
「リュシー?」
「なくならない、する。ずっとじゃない。ちょっと。いやなら、もってかえる」
エルミーヌ公爵夫人の目が揺れた。
「よろしいの?」
リュシーは壁の空いている場所を指した。
「かってにじゃない。きいてる」
その言葉に、公爵夫人は口元を押さえた。
彼女はしばらく黙り、やがて頷いた。
「では、少しだけ」
トマスが呼ばれ、ルシアンの札を傷つけないよう、柔らかい紐で壁にかけた。
子どもたちの会議札の隣に、古い札が一枚増えた。
それは冬鈴館の子どもの札ではない。
でも、失われた部屋を、完全に消さないための札だった。
帰り際、エルミーヌ公爵夫人は言った。
「私は特別委員会で、移管案を撤回します。ただし、標準化そのものは必要です」
「分かっています」
「名前を消さない標準を作りなさい。私も手伝います」
命令口調だった。
けれど、以前の冷たさとは違った。
「では、まず子どもの会議記録を読んでください」
「全部?」
「全部です」
彼女は少し嫌そうな顔をした。
「あなたもなかなか厳しい」
「必要な時だけです」
その日、壁にかかったルシアンの札を、リュシーはしばらく見ていた。
「おかあさま」
「なあに」
「なくなったへやも、なまえ、いる?」
「いると思うわ」
娘は頷いた。
守るべき部屋の中には、もう戻れない部屋もある。
だからこそ、今ある部屋を奪わせてはいけない。
エルミーヌ公爵夫人は、帰り際にもう一つ申し出た。
「後援会の過去の標準化事業について、再点検を行います。私の名で進めたものですから、私の名で見直すべきでしょう」
「公表しますか」
「ええ。都合の悪いものも」
その言葉には、痛みがあった。
彼女は自分の善意がすべて正しかったわけではないと、公に認めることになる。寄付した人々からも、助かった家族からも、反発されるかもしれない。
「それは苦しい作業になります」
「苦しいから避けると、また番号が増えますわ」
公爵夫人はルシアンの札を入れていた黒い箱を閉じた。
「息子の名前を戻すなら、他の子の名前も戻さなければ」
その日から、後援会の帳簿にも赤い線が入り始めた。
寄付の額ではなく、子どもの部屋に何が起きたかを見るための線だった。
ルシアンの札が公爵邸へ戻った後も、子ども会議室の壁には小さな空白が残った。
リュシーはその空白に、新しい紙を貼った。
『もどった』
ただそれだけの字だった。
エルミーヌ公爵夫人が次に来た時、その紙を見て長く黙っていた。
「戻った、ですか」
「はい。なくなった、ではなく」
私が答えると、彼女は少しだけ目を伏せた。
「その言葉を、息子の部屋にも貼りましょうか」
「公爵夫人が望むなら」
彼女は頷いた。
戻るという言葉は、生者だけのものではないのかもしれない。