作品タイトル不明
第十話 母親を疑う書類
リュシーが王宮冬室への移動を拒否した翌朝、王立医務局から正式な文書が届いた。
題名は、『未成年療養児に対する保護者影響調査の通知』。
紙を開いた瞬間、私はしばらく文字を読めなかった。
内容は整っていた。
リュシー・レーヴェルトは、母親であるノエリア・ランキエールの強い影響下にあり、本人の自由意思確認が困難である可能性がある。冬鈴館の運営権移管に対するノエリアの反対姿勢が、療養児本人の判断に不当な影響を与えていないか調査する。
調査期間中、王立相談員による定期面談を求める。
必要に応じて、一時的な中立施設での生活観察を提案する。
中立施設。
つまり、母から離す準備だ。
私は文書を机の上に置いた。
指先が冷たい。
以前、ギルベルトが私を「子どもを使って責めるな」と言った。公開調停では、私は「悪意ある母親」として訴えられた。
母親が子どもを守ろうとすると、時々その守る手そのものが疑われる。
もちろん、すべての親が正しいわけではない。親の愛が子どもを傷つけることもある。だから調査制度は必要だ。
けれど、制度が最初から母親を黙らせるために使われるなら、それは保護ではなく圧力だ。
アルノルトが静かに文書を読んだ。
「予想より早い」
「リュシーの嫌ですを、すぐに無効化したいのでしょう」
ミレーヌは写しを取りながら言った。
「反論書を出します。昨日の面談記録、菓子の提示、罪悪感を誘う発言、保護者同席の必要性。すべて記載しましょう」
「お願いします」
ハンナが茶を置いた。
「奥様、手が冷えています」
「大丈夫」
「大丈夫ではない時も、手は冷えます」
言われて、私は少しだけ息を吐いた。
リュシーには知らせるべきか迷った。隠せば、娘は大人の空気からもっと怖い想像をする。だが、書類の言葉をそのまま聞かせるには重すぎる。
昼食後、私はリュシーを温室へ誘った。
冬鈴草の白い花が、細く揺れている。
「リュシー。昨日、王宮のお部屋は嫌ですと言ったでしょう」
「うん」
「その返事について、もう一度聞きたいという大人がいるの」
「また、きれいなおかし?」
「今度は、お菓子はなしにしてもらう」
リュシーは少し安心したように頷いた。
「おかあさま、いる?」
「いる。もし別の人に聞かれる時も、リュシーが安心できる人をそばに置くように言う」
「いやです、また、いう?」
「言ってもいいし、言いたくないなら、今は話したくありませんと言ってもいい」
リュシーは冬鈴草の鉢を見つめた。
「おとな、なんで、なんかいもきく?」
「一度目の答えを、信じたくないからかもしれない」
「リュシー、うそ、いってない」
「知っているわ」
「おかあさま、リュシーに、いやです、いえって、いった?」
「言っていない」
「でも、リュシー、いやっていったら、おかあさま、うれしい?」
私は返事に時間をかけた。
子どもは、こういうところまで感じ取る。
「リュシーが自分の気持ちを言えたことは嬉しい。でも、お母さまのために嫌ですと言ってほしいわけではない」
「リュシーのため?」
「ええ。あなたの体と心のため」
娘はしばらく考えた。
「じゃあ、リュシー、いやです。リュシーのため」
私は頷いた。
その言葉を台帳に書きたい気持ちを抑えた。今は記録より、娘のそばにいる時間だ。
夕方、反論書を作るために、冬鈴館の保護者たちが集まった。
パン屋の妻、馬具職人、洗濯屋、下級貴族の夫人。身分も暮らしも違う人々が、同じ廊下の長椅子に座る。
ニコの母親が言った。
「うちの子も、王立に移れば無料になると聞いて迷いました。でも、番号で呼ばれるなら嫌です」
洗濯屋の夫が続けた。
「無料は助かる。でも、面会が減るなら困る。あの子は寝る前に、母親の声を聞かないと咳が出る」
ある貴族夫人は、手袋を握りしめていた。
「社交界では、冬鈴館に通わせる母親は神経質だと言われます。でも、神経質で何が悪いのですか。娘の足が冷えるのを、私が気にしなければ誰が気にするのです」
その言葉に、私は胸が詰まった。
かつて私も、神経質だと言われた。
薬の時間を守ること。部屋の温度を記録すること。咳の回数を書くこと。
神経質でもいい。
子どもが眠れるなら。
ミレーヌは保護者たちの意見を整理し、宣誓書の形にした。
ハンナは子どもたちの「嫌なこと台帳」から、本人の了承を得た言葉だけを選んだ。
アルノルトは、王立医務局への抗議文に辺境伯として署名した。ただし、私の上に立つ形ではなく、共同保護者として。
夜、すべての書類をまとめた時、私は疲れきっていた。
リュシーの部屋を覗くと、娘は布兎を抱いて眠っている。枕元には、ギルベルトの木の鳥と、アルノルトが書いた帰還予定の紙が置かれていた。
この部屋には、たくさんの大人の約束がある。
でも、眠っているのは一人の子どもだ。
私は寝台のそばに座り、室温を確かめた。
ちょうどいい。
その記録を台帳に書いてから、反論書の表紙に最後の一文を入れた。
『母親を疑うなら、まず子どもが安心して眠れているかを確認してほしい』
それは怒りではなく、願いだった。
同時に、譲れない線でもあった。