作品タイトル不明
第二話 木札を外された子ども
王立医務局からの訪問の翌日、冬鈴館にはいつもより早く子どもたちが集まった。
正式な通達はまだ届いていない。けれど、王都の噂は暖炉の火より早く広がる。冬鈴館が王立になるらしい。国が全部面倒を見てくれるらしい。貴族の子も平民の子も同じ寝台になるらしい。いや、貴族の子だけが残されるらしい。
噂は、いつも子どもの耳に届く時には一番怖い形になっている。
私は朝の診察室で、看護師のミレーヌと一緒に薬帳を確認していた。ミレーヌは以前、王都法院の書記官として私の調停に関わった女性だ。今は冬鈴館の記録管理を手伝ってくれている。
「保護者から問い合わせが十六件。うち四件は、子どもを連れて帰るか迷っています」
「無理に引き止めないで。ただ、移管が決まったわけではないこと、ここを出ても薬帳の写しは渡すことを伝えて」
「はい」
ミレーヌはペンを走らせた。
「それから、王立医務局の下見担当者が来ています」
「もう?」
「正式には施設安全確認だそうです」
外を見ると、官服姿の男と女が二人、廊下の壁を見ている。彼らの足元には、子どもたちの名前を書いた木札が並んでいた。
私は診察室を出た。
「何をなさっているのですか」
担当者の女性が振り向いた。
「危険物の撤去です。廊下の壁に不要な突起物が多すぎます。木札は標準設備ではありませんので」
彼女の手には、小さな木札が一枚ある。
ニコ。
北境から来た五歳の男の子の札だ。風邪をこじらせて肺を傷め、冬鈴館へ来てからようやく夜通し眠れるようになった。自分の名前の字をまだ全部は読めないが、木札の角に刻まれた星印で自分の部屋を見つける。
「それは、子どもたちが自分の寝る場所を分かるようにする札です」
「王立移管後は番号制になります。私物識別は寝具番号で十分です」
「まだ移管されていません」
「準備です」
女性は悪気のない顔で答えた。
悪気がないから、余計に危ない。
その時、廊下の向こうで小さな声がした。
「ぼくの、どこ」
ニコが立っていた。
痩せた肩に保温布をかけ、寝起きで髪が跳ねている。彼は壁の空白を見つめ、それから担当者の手の中の札を見た。
「それ、ぼくの」
「危ないから外しただけです。あとで番号札に替えます」
「ぼくの、ここ」
ニコは壁の空白に触れた。
「ここで、ねむる」
「番号になっても眠れますよ」
担当者は優しい声を出した。
その優しさは、子どもの不安を聞いていなかった。
ニコの目に涙が浮かんだ。彼は泣くのを我慢する子だ。泣くと咳が出る。咳が出ると胸が痛む。だから、いつも唇を噛む。
私は担当者の手から木札を受け取った。
「これは戻します」
「しかし、標準化の」
「今、この子が眠れるかどうかに関わります」
私は壁に木札を戻した。釘は使わず、布紐でかけてある。危険なら高さを変えればいい。角が心配なら丸く削ればいい。外す前に聞けることは、いくらでもある。
ニコは木札に触れた。
「ぼくの」
「ええ。ニコの部屋よ」
「なくならない?」
また、その問いだ。
子どもたちの口から、同じ問いが出る。
私は膝をついた。
「勝手には、なくさせない」
「かって?」
「ニコに聞かないで外すこと」
ニコは少し考えた。
「聞いたら?」
「聞いて、ニコが嫌だと言ったら、別の方法を探す」
「じゃあ、いや」
「分かった」
私は頷いた。
担当者の男性が困ったように咳払いをした。
「子どもの言葉をすべて聞いていては、施設運営が成り立ちません」
「すべてをそのまま通すとは言っていません。聞かないで決めるなと言っています」
「危険物管理は専門職の判断です」
「でしたら、危険を減らす方法を専門職として提案してください。名前を消すことだけが安全対策ではありません」
女性担当者は木札を見た。
彼女は、初めて少し迷った顔をした。
「角を丸くし、紐を短くして、子どもの首にかからない位置へ固定するなら……」
「では、その案を採用します。ハンナ、大工のトマスに木札の確認をお願いして」
「かしこまりました」
ニコは私の袖をつかんだ。
「ぼく、わるい?」
「悪くないわ」
「いや、言った」
「嫌だと言えたのは、よいことよ」
その言葉を聞いて、廊下の端にいたリュシーが小さく頷いた。
娘は最近、自分より小さい子が泣くと、近くに立つ。手を出しすぎると疲れるから、マーサに教わって「そばにいるだけ」を練習している。
リュシーはニコに近づき、布兎を少しだけ見せた。
「これ、リュシーの」
ニコは涙を拭いた。
「うさぎ?」
「うん。なくならない」
それだけ言うと、リュシーは私の後ろへ戻った。
短い会話だった。
でも、ニコの肩は少し下がった。
王立医務局の担当者たちは、その後も壁、窓、暖炉、寝台を見て回った。彼らの記録用紙には、たくさんの項目がある。室温、湿度、換気、寝具数、火災避難経路。
必要な項目だ。
けれど、ニコが木札を見つけて安心した時の息の吐き方を書く欄はない。
午後、私は新しい台帳を作った。
療養記録ではない。
子どもたちの「嫌なこと」と「安心すること」を書く台帳だ。
最初の一行目に、ニコの言葉を書いた。
『木札を外されるのは嫌。自分の部屋が分からなくなるから』
その下に、リュシーがゆっくり字を書いた。
『へやは、なまえがあるほうがいい』
拙い字だった。
けれど、その一行はどの法令案よりも正確だった。