作品タイトル不明
第二十七話 旧温室館の火事
火事が起きたのは、風の強い夜だった。
子どもたちは全員、夕食を終えて寝室に入っていた。リュシーも布兎を抱いて眠っている。私は作業部屋で保温布の結び目を整え、ハンナは廊下の灯りを落としていた。
最初に異変に気づいたのは、マーサの夫カシアンだった。
「煙だ!」
叫び声と同時に、廊下の奥から焦げた匂いが流れてきた。
温室の資材置き場だった。乾燥した薬草と古い木箱が置かれている。火が広がれば、硝子張りの温室全体が危ない。
私は走った。
「子どもたちを外へ。保温布を全員に」
ハンナがすぐ動く。マーサが寝室へ向かい、医師が子どもたちを起こす。泣き声が上がったが、誰も立ちすくまなかった。
私は資材置き場の扉へ手をかざした。
熱が強い。
普通なら火を消す魔法が必要だ。私には炎を消す力はない。だが、熱の流れを読むことはできる。
火は風にあおられ、温室側へ向かっている。
逆に、石壁の方へ熱を逃がせば、広がりを少し遅らせられる。
「ノエリア様!」
アルノルトの声がした。
彼は外套も着ずに駆け込んできた。近くの詰所にいたらしい。
「水桶は?」
「カシアンが運んでいます。でも温室側へ火が回ります」
「あなたは下がって」
「下がりません」
私は扉の隙間から漏れる熱に集中した。
熱を止めるのではない。
逃がす。
石床へ、外壁へ、濡らした布へ。
手のひらが焼けるように熱い。だが、炎の勢いが一瞬鈍った。
「今です!」
アルノルトが扉を蹴り開け、兵たちが水をかける。蒸気が上がり、煙で視界が白くなった。
咳き込みながら、私は温室側の棚に手を伸ばした。
そこには、冬鈴館の運営記録と、法院へ提出する予定だった証拠の写しが置かれていた。
なぜ、こんな場所に。
普段は鍵のかかる書類箱に入れているはずだ。
その時、背後で物音がした。
振り返ると、黒い外套の男が窓から逃げようとしていた。
「止まれ!」
アルノルトの声が響く。
男は走ったが、外にいた兵に取り押さえられた。
火は夜明け前に消し止められた。
幸い、子どもたちに怪我はなかった。リュシーは毛布にくるまり、泣きながら私に抱きついた。
「おかあさま、あついの、いや」
「ごめんね。もう大丈夫」
「おかあさま、て、いたい?」
私の手のひらは赤くなっていた。
「少しだけ」
「ふーする」
リュシーが涙をためたまま、私の手に息を吹きかける。
その小さな息が、どんな魔法より優しかった。
捕まった男は、侯爵家の下働きだった。
そして、彼の懐にはボルク家令の印が入った指示書があった。