軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【番外編】ローゼマリーの恋・終ー刺繍

沈黙が、二人を包んだ。

時間にすれば、おそらくほんの数秒のことだったが、クリストフにとってはとてつもなく長い時間だった。

「……初めて名前で呼んでくださいましたね」

あ、とクリストフは思った。ずっとそう呼んでくれと言われていたのに、頑なにできなかったのだ。意識しすぎて。

「その方が、遠くまで聞こえるかと」

今更ながら照れくさくなって、言い訳がましく言った。ローゼマリーは、ふふっと笑う。それだけで、クリストフは幸福を感じた。

「近くにいても、そう呼んでください」

「え」

「隣を歩いてくれるんでしょう?」

ローゼマリーの瞳には、クリストフへの好意があふれていて、クリストフは確かめるように呟いた。

「……ローゼマリー?」

「はい」

はにかんで答えるローゼマリーは可愛らしくて、愛しくて、どうしていいか分からなくなったクリストフは、ローゼマリーを突然抱きしめた。

「きゃ」

ローゼマリーは短く叫んだが、それすら夢に思えて、クリストフは耳元で囁いた。

「いいんですか?」

クリストフの胸元で、ローゼマリーがまた笑った。

「当たり前です」

「……よかった!」

勢い余って、強く抱きしめすぎ、慌てて力を緩めた。

「すまないっ」

それでもまだ腕の中から逃すことは出来ず、ローゼマリーはクリストフに囲われたまま言った。

「私もずっと言いたかったことがあるんです」

なんでしょうか、と聞く前に、ローゼマリーはクリストフの胸に額を付けて言った。

「無事に……帝国に戻ってきてくれて、ありがとうございます」

「だが」

ローゼマリーは小さく首を振った。

「クリストフ様が守ってくださったおかげです」

クリストフは胸がいっぱいになって、ローゼマリーを再び強く抱きしめた。

1組の幸せな恋人を生み出した勝ち抜き大会は、そのようにして幕を閉じた。

エリックの説教のとき、エリックは神官なのに恋人がいると野次を飛ばした男がいたが、すぐに捕まえられた。それにも動じず堂々と最後まで説教を続けたエリックを民衆はさすがだと見直した。

後日、エリックの恋人だと一部で噂されていたローゼマリー・ゴルトベルグがクリストフ・バーデンと正式に婚約したことが発表された。やはり噂は嘘だったのかと、人々は納得した。

ローゼマリーの母親の命日の祭祀も、つつがなくひっそりと執り行われた。

「ウラジミルが自分の管轄教区内の神殿の寄付や献金を、シーラッハ伯爵に流用していた証拠が見つかったよ」

いつも通り、カモミールのお茶を飲みながら、ルードルフ様がわたくしにそう言いました。

ローゼマリーとクリストフ様の婚約が発表されてからしばらく経ってからの、夜のことです。

「ウラジミルは、よっぽど大神官になりたかったらしい。お金を作ってまでして、シーラッハ伯爵に協力を要請していたんだ」

「コンラート様との一騎討ちならなんとか勝てると思ったのでしょうか」

「だろうな……相手を下ろして自分を上げても仕方がないのに」

その通りだったので、わたくしは頷きます。ルードルフ様がわたくしをねぎらうように言いました。

「また慌ただしくなるな」

「大丈夫ですわ」

これで神殿の風通しが良くなると思えば、むしろやりがいがあります。ただ、しばらくはこのようにお茶を飲む時間が少なくなることだけが、寂しく思えました。

カップを置いたわたくしは、ルードルフ様に思い切って言いました。

「あの、ルードルフ様」

「なんだい?」

「これ、一生懸命作ったのですが、もらってくださいますか?」

ルードルフ様はきょとんとした顔で、わたくしが手渡したハンカチを受け取りました。

「刺繍が入れてありますの。広げてみてください」

「エルヴィラが作ってくれたの? 嬉しいな」

弾んだ声を上げたルードルフ様が、ハンカチを広げます。わたくしはすかさず早口で説明しました。

「それでも、ローゼマリーに教えてもらって、だいぶ上手になったのですが」

ルードルフ様がなにか言う前に、わたくしは矢継ぎ早に申し上げます。

「わたくし、小さい頃から祈りに出かけてばかりで、どちらかというと刺繍より移動手段にもできる乗馬の方が得意でした。なので、お恥ずかしいことに、練習してやっとそのレベルなのです」

昔からどんなに頑張っても、刺繍だけはうまく出来ませんでした。

「ありがとう。本当に嬉しい」

ルードルフ様はしみじみとハンカチを見つめてそうおっしゃいます。わたくしは申し訳なさを感じました。

「あの、ご無理なさらないでくださいね」

自分で言うのもなんですが、わたくしの刺繍は線がまっすぐでない上に、面がでこぼこしているので、何を刺しているのかよくわかりません。クラッセン伯爵夫人やローゼマリーに刺してもらうことも出来たのですが、わたくしは自分の作った刺繍をルードルフ様にお渡ししたかったのです。一緒に過ごす時間が少なくなるその前に、わたくしの刺したハンカチを持っていてもらいたかったから。つまり、これはわたくしの自己満足の産物なのです。

わたくしは今さらながら、恥ずかしくなり小声で言いました。

「使わなくても構いませんので……」

ですが、ルードルフ様はキッパリと仰います。

「どうして? 明日から使うよ」

「でも……」

ルードルフ様はハンカチを大事そうに見つめました。

「ハンカチをくれたから嬉しいわけじゃないんだ。もちろん、ハンカチをもらったことは嬉しいんだけど」

「どういうことですか?」

ルードルフ様はその質問には答えませんでした。代わりに、わたくしの指先をそっと握って、ご自分の口元に持っていき、口付けしました。

突然のことに固まるわたくしに、嬉しそうにもう一度仰いました。

「ありがとう、本当に嬉しい」

わたくしは、何も言えませんでした。

本心から喜んでくださるルードルフ様がとても愛しくて、とても幸せで。なのに、胸がいっぱいで、わたくしはそれを伝えることが出来ません。

カップから立ち上る湯気が、静かにゆっくりと、わたくしたちを包んでいきます。

明日からは、また忙しい日々になりそうです。

Fin