作品タイトル不明
第49話 敵
蠅の羽音が耳の中にこもってうるさい。
首の後ろがピリピリして、気がついたら涙が出ていた。
これがトラウマっていうものなのかもしれない。首への刺激に対して涙が出るほど怖い思いをしたことはないはずなんだけど。
ペンダントを思いっきり引っ張られたせいでチェーンと皮膚がこすれたのだろう。首に手をやると、わずかに血が滲んでいた。
グロリアの血が。
「な、なによ……なんで? あのグロリアが、泣くとか……うそでしょ」
目の前でメロディが導き手のペンダントを握りしめたまま呆然と呟いた。後ずさった彼女に合わせて、ぶらんとチェーンが揺れる。
それを横目に、自然と足から力が抜けていく。
床に膝をつくと、紫色のグラデーションに染まったローブの裾が冷たい石材の上を滑るように広がった。
「お嬢様!」
立ち尽くしたメロディを突き飛ばすようにしてどかすと、ケイトが床にうずくまったグロリアの肩を抱く。
ケイトのそばかすが散ったかわいい顔が、ぐしゃぐしゃに丸めた紙みたいに歪んでいる。
A子はそれを見て、ああどうしよう、ケイトが泣いちゃう。と、思った。
グロリアが―― あ(・) の(・) グロリアが、泣いているから。
ケイトが泣いちゃう。
泣き止んで、顔を上げなくちゃ。そう思って初めて、A子は自分の意識がグロリアの体を動かしていることに気がついた。
グロリアはどこに行ったのだろう。呼びかけても返事がない。
今はA子がグロリアになっていた。
床に膝をついたまま視線を上げると、相変わらず信じられないものを見たかのような顔で立ち尽くすメロディと目が合う。
悪(・) 役(・) 令(・) 嬢(・) が(・) 泣くわけないと思っている目だった。
グロリアは悪役なんだから、ヒロインであるあたしが何をしてもいい。そう思っている目だ。
なんで泣くのか、早く立ち上がってふんぞり返り、「男爵家の娘ごときが」となじって頬のひとつでも叩けとにらみつけている。
――じゃないとあたしが悪役になっちゃうじゃない。
――ストーリーと違うじゃん。こんなのあたしがヒロインのゲームじゃないじゃん。
A子にはメロディの中にいる転生者が思っていることが手に取るようにわかった。
初めてこの世界で目覚めた時、グロリアにぼこぼこにへこまされてなかったら、きっと自分がこうなっていた。だからわかる。
この世界はヒロインのものじゃない。まして肉体に取り憑いただけの 亡霊(転生者) が引っ掻き回していいもんじゃない。
それがわからないメロディの中の亡霊は、同じ地球の記憶を持っていても敵だった。
この世界の――グロリアの敵だった。
A子の、敵だった。