作品タイトル不明
第13話
隣国の王子との「カレー対決」から数日後。
『月待ち食堂』は、開店前から異様な熱気に包まれていた。
「おい、聞いたか? あのガレリア王国の大使が泣いて詫びたって話」
「ああ。ここの『黒い煮込み(カレー)』を食べた途端、故郷の母親を思い出して号泣したらしいぞ」
尾ひれのついた噂が広まり、行列は路地の外まで伸びている。
私は厨房で、大量の仕込みに追われながら、嬉しい悲鳴を上げていた。
「いらっしゃいませ! ああっ、ご飯が炊けるまであと十分待ってください!」
本来なら猫の手も借りたい状況だ。
しかし、頼みの綱である「騎士団皿洗い部隊」は今日は遠征で不在。魔術師ルーカス様も徹夜の研究でダウン中。
聖獣シロは「我は用心棒だ」と言って、カウンターで鰹節を齧っているだけ。
たった一人、厨房を走り回る私。
額に汗が滲み、息が上がる。
さすがに、限界かもしれない――そう思った時だった。
「……無理をするな」
背後から、大きく温かい手が伸びてきて、私が落としそうになった大皿を支えた。
「え?」
振り返ると、そこにいたのは遠征に行っているはずの騎士団長、ライオネル・バーンズだった。
非番のラフな服を着ているが、その鍛え上げられた胸板の厚みと、男らしい体温が背中に伝わってくる。
「ラ、ライオネル様!? 遠征じゃなかったんですか?」
「俺だけ先に片付けて戻ってきた。……お前が一人で回せるとは思えなかったからな」
彼は少し照れくさそうに視線を逸らし、慣れた手つきで袖をまくり上げた。
太い腕に浮き出る血管と、無骨な筋肉。
それが、私のすぐ隣で「皿洗い」の準備を始めている。
「ほら、貸せ。洗い物は俺がやる。お前は料理に集中しろ」
「でも、お疲れじゃ……」
「俺にとっての休息は、兵舎で寝ることじゃない。……ここで、お前の作る飯の匂いに包まれていることだ」
ライオネル様は、濡れた手で私の頬に触れた。
一瞬だけ、指先で粉のついた私の頬を拭う。
「……顔に粉がついてるぞ。……可愛いな」
低く、甘い声で囁かれ、私はカッと顔が熱くなった。
心臓が早鐘を打つ。
いつもの「食いしん坊な団長さん」じゃない。今の彼は、完全に「男の顔」をしていた。
「あ、ありが、とうございます……!」
私は動揺を隠すように鍋に向き直った。
狭い厨房。すれ違うたびに肩が触れ合う距離。
彼の存在感を意識せずにはいられない。
そんな、甘くも忙しい空気が流れていた時だった。
ガッ、ガッ、ガッ、ガッ。
店の入り口から、軍隊の行進のような、規律正しい足音が近づいてきた。
ドアベルが鳴ると同時に、入ってきたのは――真っ白なコックコートに身を包んだ男たちの集団だった。
先頭に立つのは、立派なカイゼル髭を蓄えた、恰幅の良い初老の男性。
彼が入ってきた瞬間、店内の空気がピリリと張り詰めた。
「……ここが、旦那様(ガラルド公爵)が仰っていた店か」
カイゼル髭の男――我が実家、ウォルター公爵家の料理長ギュスターヴだ。
彼は鋭い眼光で店内を見回し、私を見つけると、ビシッと踵を揃えて敬礼した。
「お初にお目にかかります、シェリルお嬢様! ……いえ、シェリル『料理長』殿!」
「り、料理長?」
「私はウォルター公爵家料理長、ギュスターヴと申します! 本日より、旦那様の命により、当店の『厨房支援』及び『技術研修』に参りました!」
父が送ってくれた「人的支援」だ。
ありがたい話だけれど、ギュスターヴはプライドの塊のような職人だ。
彼は私を値踏みするように見つめ、そして隣にいるライオネル様に気づくと、驚いたように目を見開いた。
「騎士団長閣下!? なぜこのような場所で、皿洗いを!?」
「ん? ああ、俺の趣味だ。気にするな」
ライオネル様は泡だらけの手で平然と答える。
ギュスターヴは眉をひそめ、私に向き直った。
「お嬢様。……正直に申し上げます。私は不服です」
「正直ね」
「私は三十年間、最高級の食材と伝統ある技法だけを信じてきました。それを、このような路地裏の店で、しかも騎士団長に雑用をさせるような娘っ子の下で働けなどと……屈辱以外の何物でもありません!」
彼の言葉には棘があった。
まあ、当然の反応だ。
私は何か言い返そうとしたが、それより早く、私の前に大きな背中が割り込んだ。
「……言葉を慎め、ギュスターヴ」
ライオネル様だった。
彼は私を背に庇い、鋭い眼光で料理長を射抜いた。
「この店の料理を『娘っ子の料理』と侮るなら、俺が許さん。シェリルの料理は、王宮のどんな晩餐よりも、俺の魂を震わせる。……彼女の腕を疑うことは、俺の舌を疑うことと同義だと思え」
「だ、団長閣下……」
「それに、俺は彼女に『雑用をさせられている』のではない。俺が、彼女の役に立ちたくてここにいるのだ。……俺の大切な、女性のためにな」
大切な、女性。
その言葉に、私の心臓がドキンと跳ねた。
背中越しに伝わる彼の怒りと、私への信頼。
守られている。その事実が、私に勇気をくれた。
私はそっとライオネル様の腕に手を添えた。
硬い筋肉が、私の手の下で少しだけ緩む。
「大丈夫です、ライオネル様。……ありがとうございます」
私は彼の横から一歩前に出て、ギュスターヴと対峙した。
「ギュスターヴ。貴方のプライドは理解します。……なら、試してみますか?」
「試す、とは?」
「私の 賄(まかな) い料理を食べて、それでも『学ぶことはない』と思うなら、帰っていただいて構いません。……でも、もし美味しかったら」
私は不敵に微笑んだ。
「そのコック帽を脱いで、私の指示に従っていただきます」
「……よろしいでしょう。受けて立ちます!」
勝負成立だ。
私は厨房に戻り、木箱から新鮮な『 鯖(サバ) 』を取り出した。
貴族が嫌う青魚。しかも、使う調味料は、泥のように見える『味噌』だ。
ギュスターヴたちが「正気か?」とざわめく中、私は調理を始めた。
三枚おろし。湯霜による臭み消し。
手際よく動く私の横で、ライオネル様が自然とサポートに入ってくれる。
私が何も言わなくても、必要な道具を差し出し、火加減を見てくれる。
まるで長年連れ添った夫婦のような 呼吸(あうん) の呼吸。
(……動きやすい)
彼が隣にいるだけで、不思議と心が落ち着く。
私は彼に微笑みかけ、仕上げの味噌を鍋に溶かし入れた。
――コトコト。
甘辛く、芳醇な味噌の香りが広がる。
生姜の清涼感がアクセントになり、食欲を刺激する。
「お待たせしました。『鯖の味噌煮』です」
飴色のタレを纏った鯖。
ギュスターヴは疑わしげに一口食べ――そして、絶句した。
「な、なんだこれは……!?」
魚の臭みなど微塵もない。
ふっくらとした身。濃厚な味噌のコク。脂の甘み。
それらが口の中でとろけ合い、未知の旨味となって脳を揺さぶる。
「美味い……! 認めざるを得ない、これは極上の料理だ!」
彼は震える手で完食し、そして私に向かって深々と頭を下げた。
「……参りました。私は思い上がっていました。どうか、この老骨に……貴女様の技術を学ばせてください!」
「ええ、よろしくね。ギュスターヴ」
店内から拍手が湧き起こる。
私はホッと息をついた。
すると、ライオネル様が私の耳元に顔を寄せ、誰にも聞こえない声で囁いた。
「……見事だったぞ、シェリル」
「ライオネル様のおかげです。庇ってくれて、嬉しかったです」
「庇ったわけじゃない。本心を言っただけだ」
彼は私の腰に手を回し、少しだけ引き寄せた。
公衆の面前だというのに、彼の独占欲が漏れ出ている。
「だが、あまり他の男にその笑顔を見せるなよ。……たとえ料理人でも、俺は嫉妬する」
「えっ……?」
真っ赤になる私を見て、彼は満足げに笑い、私の頭をポンと撫でた。
「さて、仕事に戻るか。弟子が増えたんだ、俺はもうお役御免か?」
「い、いえ! ライオネル様がいてくれないと、困ります!」
「そうか。なら、ずっとそばにいてやる」
甘い。
今日の鯖の味噌煮よりも、ずっと甘くて心臓に悪い。
最強の騎士団長は、いつの間にか私の心まで攻略しようとしているらしい。
◇ ◇ ◇
こうして、公爵家の料理人たちが加わり、店は盤石の体制となった。
ギュスターヴたちの働きぶりは凄まじく、厨房はオーケストラのように統率されている。
だが、幸せな時間は長くは続かない。
閉店後、片付けをしていると、東方商人ザオが深刻な顔でやってきた。
「店主様。……ちっとばかし、厄介な話だ」
「どうしたの?」
「『王都飲食業組合』だ。あんたの店が客を独占しすぎだって、老舗のレストランたちが騒ぎ始めてる。……『食材の不当独占』の疑いで、明日にも査察が入るかもしれねえ」
商売敵からの嫌がらせ。
ライオネル様がスッと目を細め、剣呑な空気を纏う。
「……俺の大切な場所に手を出す愚か者がいるようだな」
彼の手が、私の肩を抱き寄せる。
その力強さに、私は守られている安心感と共に、これから始まる戦いへの覚悟を決めた。
「大丈夫です、ライオネル様。……美味しいご飯があれば、どんな敵も怖くありませんから」
私は彼を見上げて微笑んだ。
二人の距離は、もう息がかかるほど近い。