作品タイトル不明
第3話
深夜一時。
騎士団による怒涛の「皿洗い支援作戦」が終わり、騒がしかった『月待ち食堂』にもようやく静寂が戻ってきた。
私はピカピカになった厨房を見渡し、大きく伸びをする。
「ふぅ……。ライオネル団長たちのおかげで助かったわ。まさか、あの筋肉がこれほど繊細な家事スキルを発揮するなんて」
明日の仕込みも完璧だ。これで安心して眠れる――と言いたいところだが、私にはまだ「最後の大仕事」が残っていた。
私はエプロンの紐を解き、勝手口の鍵を開けた。
そして、ランプの明かりを小さくして、闇夜に向かって二回、短く手を叩く。
すると、路地裏の深い闇がにゅるりと蠢き、一人の男が姿を現した。
「……こんばんは、お 嬢(・) 。いや、今は『店主様』でしたかな?」
独特な節回しで話しかけてきたのは、異国情緒あふれる派手な刺繍の入ったローブを纏った男だ。
頭にはターバンを巻き、日焼けした肌に白い歯がニヤリと光る。背中には、自身の体ほどもある大きな麻袋を背負っていた。
彼の名はザオ。
遥か東方にある島国との貿易を専門とする、「東方交易商人」だ。
「いらっしゃい、ザオ。時間通りね」
「へえ。お得意様との約束は破りませんよ。特に、私の持ってくる『ガラクタ』を、金貨に変えてくれる上客となればね」
ザオは軽快な足取りで店内に入り、麻袋をどさりと床に下ろした。
ガチャン、ゴトッ、と重たい音がする。
「それで、注文の品は?」
「もちろん、揃えてありますよ」
彼が袋の口を開けると、そこにはこの国の市場ではまず見かけない品々が詰まっていた。
竹の皮に包まれた乾燥メンマ。束ねられた中華麺の原料となる小麦粉(強力粉)。
そして何より、私の目を釘付けにしたのは、黒い陶器の瓶と、木製の樽だ。
「『黒い聖水(醤油)』に、『黄金の泥(味噌)』。それと、頼まれていた『臭い根っこ(ニンニク・ショウガ)』もたっぷりと」
ザオが品名を読み上げるたびに、私の口元が緩む。
これだ。これがなければ、私の店は一日たりとも回らない。
「ありがとう。相変わらず良い仕事ね」
「感謝するのはこっちですよ。……正直、こんな塩辛い黒い水や、腐った豆のペーストなんて、この国じゃ誰も買わねえんですから」
ザオは呆れたように肩をすくめた。
そう、これがこの世界の食事情の真実だ。
東方との交易ルート自体はある。食材も入ってきてはいる。
だが、**「使い方が全く伝わっていない」**のだ。
公爵令嬢時代、私は父の書斎で貿易目録を盗み見して、これらの食材の存在を知った。
けれど、当時の料理人たちは言っていた。
『この黒い液体は、そのまま飲むと塩辛すぎて吐き気を催す』
『この茶色い泥は、足の裏のような発酵臭がして、とても食べ物とは思えない』
結果、醤油は「革のなめし剤」や「不味い薬」として、味噌は「家畜の下痢止め」として、二束三文で扱われていたのだ。
「もったいない話よね。使い方一つで、魔法の調味料に変わるのに」
「へっ、未だに信じられませんがね。……で、今回の支払いは?」
私はカウンターの下から、あらかじめ用意しておいた革袋を取り出した。
中に入っているのは、この一ヶ月の店の売上だ。
「はい、これで足りるかしら」
「おやおや、今月も随分と稼いだようで。……昔みたいに、親父さんの宝石箱からくすねた指輪払いじゃなくて安心しましたよ」
「人聞きが悪いわね。あれは正当な『生前贈与』の前借りよ」
幼い頃、お小遣いやドレスを売った金で彼と裏取引をしていたのを思い出して、私は苦笑した。
ザオは中身を確認して満足げに頷くと、鼻をひくつかせた。
「さて、商談成立だ。……ところで店主様。さっきから厨房の方から、とんでもなく食欲をそそる匂いがしてるんですがね?」
彼の視線は、私が仕込み中だった寸胴鍋に向けられている。
コトコトと煮込まれているのは、鶏ガラと香味野菜、そして彼が持ってきた「ガラクタ」たちだ。
「気が利くわね。ちょうど新メニューの試作が終わったところよ。……味見、していく?」
「そいつは願ってもない!」
ザオは麻袋を椅子代わりにドカッと座り込んだ。
私は厨房に戻り、鉢巻きを締め直す(心の中で)。
今夜のメニューは、全ての日本人の魂の故郷。
ザオが持ってきた「醤油」の真価を、世界に知らしめる一杯。
『昔ながらの醤油ラーメン』だ。
寸胴の蓋を開ける。
立ち上るのは、鶏ガラの動物的なコクと、ネギや生姜の清涼感が混じり合った湯気。
透き通った黄金色のスープ。
だが、これだけではただの鶏スープだ。ラーメンにするには「カエシ(タレ)」が必要になる。
丼の底に、特製の醤油ダレをレードル一杯分注ぐ。
醤油にチャーシューの煮汁、みりん、そして隠し味の干し椎茸の戻し汁を加えた、旨味の結晶だ。
そこへ、熱々の鶏ガラスープを一気に注ぎ込む。
――ジャァァァッ!
スープとタレが衝突し、対流が生まれる。
その瞬間、醤油の香ばしい香りが爆発的に拡散した。
焦げたような、それでいて甘く、鼻腔の奥をくすぐる懐かしい香り。
「おおっ……!? なんだこの匂いは! あの臭い黒水が、こんな香りに化けるのか!?」
ザオが身を乗り出す。
私は手早く麺を茹でる。
強力粉と「かんすい(これも彼に無理を言って探させた)」を打って作った、特製の中太ちぢれ麺。
茹で時間は二分ジャスト。
湯切りをチャッ、チャッ! とリズミカルに行い、スープの中へ麺を泳がせる。
仕上げのトッピングだ。
醤油と砂糖でトロトロに煮込んだ豚バラチャーシュー。
コリコリとした食感が楽しいメンマ(乾燥タケノコを戻して炒めたもの)。
半熟の煮玉子。
なると。
そして、たっぷりの刻みネギ。
「お待ちどうさま。これが『醤油ラーメン』よ」
ドン、とカウンターに置かれた丼。
琥珀色のスープの表面には、 鶏油(チーユ) がキラキラと金色の輪を描いている。
湯気と共に漂うのは、深夜の胃袋を直撃する暴力的な旨味の香り。
「こ、これが……俺が運んできたガラクタの成れの果てか……?」
ザオは震える手でレンゲを取り、スープをすくった。
そのまま口へと運ぶ。
ズズッ……。
静かな店内に、スープをすする音が響く。
ザオの目が、驚愕に見開かれた。
「…………ッ!!」
言葉が出ないようだ。
無理もない。この世界の住人は「スープ」といえば、野菜を煮込んだポタージュか、薄味のコンソメしか知らない。
醤油という発酵調味料が持つ「グルタミン酸」の爆弾を、直接脳に叩き込まれた衝撃は計り知れないだろう。
「な、なんだこれは……! 塩辛くない! いや、塩気はあるんだが、角がない! 丸い! 鶏の脂の甘みと、この黒い液体の風味が混ざり合って……とんでもなく深い味がしやがる!」
「麺も一緒にどうぞ。音を立ててすするのが作法よ」
「音を立てて? 行儀の悪い……」
言いながらも、彼は箸でちぢれ麺を持ち上げ、見よう見まねですすり上げた。
ズルルッ! ズルズルズルッ!
スープをたっぷり絡め取った麺が、口の中で暴れ回る。
「うめえええええッ!!」
ザオが絶叫した。
「この麺! パンともパスタとも違う、プリプリとした弾力! 喉越し! スープが絡みついて離れない! 噛むたびに小麦の香りとスープの旨味が弾ける!」
彼はもう止まらなかった。
チャーシューにかぶりつき、「とろける!」と叫び、メンマを噛んで「なんだこの小気味いい食感は!」と驚く。
額に汗を浮かべながら、一心不乱に丼と格闘する姿は、数時間前の騎士団長たちと重なるものがあった。
あっという間に麺がなくなり、彼は丼を持ち上げてスープを飲み干した。
「ぷはぁっ……!」
空になった丼を置き、ザオは恍惚の表情で天井を仰いだ。
「信じられねえ……。俺は今まで、こんな宝の山を『不味い薬』だと思って安売りしていたのか……」
「わかったでしょう? 貴方が運んでくるものは、使い方次第で黄金に変わるのよ」
私が微笑むと、ザオは真剣な眼差しで私に向き直った。
「店主様。……あんた、天才か? それとも魔女か? この調理法、俺に売っちゃくれねえか? 王都のレストランに売り込めば、億万長者になれるぞ」
商人の目がギラリと光る。
やはりそう来たか。
けれど、私は首を横に振った。
「お断りよ。私は億万長者になりたいわけじゃないの」
「はあ? じゃあ何が望みなんです?」
「私はただ、美味しいご飯を作って、食べて、静かに暮らしたいだけ。それに……」
私は厨房の棚に並ぶ調味料たちを見上げた。
「この味は、まだこの国の人には刺激が強すぎるわ。流行らせすぎて、粗悪なコピー料理が出回るのも嫌だしね。わかる人にだけ、こっそり出すのが一番美味しいのよ」
「……へっ、欲のないこって」
ザオは苦笑し、再び革袋を持ち上げた。
「わかったよ。この秘密は俺とあんただけのものだ。その代わり、これからも俺から仕入れてくれよ? ……次はもっと上等な『黒い水』を探してきてやるからよ」
「ええ、期待してるわ。あ、そういえば」
私は一つ、重要なことを思い出した。
「ザオ。貴方、以前に話していた『幻の昆布』……東方の深海にあるという『魔草』の話、覚えている?」
ラーメンスープを進化させるには、鶏ガラだけでは限界がある。
魚介系の旨味、特に昆布のイノシン酸が必要不可欠なのだ。
しかし、ザオは途端に渋い顔をした。
「ああ……あれか。あれは無理だ、諦めてくれ」
「どうして? お金なら弾むわよ?」
「金の問題じゃねえんだ。あの海域には『 主(ぬし) 』がいる。船ごと食っちまうような化け物がな。近寄るだけで命がいくつあっても足りねえ」
「主……?」
「伝説じゃ、白い毛並みの巨大な獣だとか、姿を変える聖獣だとか言われてるが……とにかく、人間には手出しできねえ領域なんだよ」
ザオはブルっと身震いをして、そそくさと出口へ向かった。
「ま、そういうわけで、昆布以外ならなんでも持ってくるぜ。じゃあな、ご馳走さん!」
風のように去っていく商人を見送りながら、私は小首を傾げた。
白い毛並みの、主。
姿を変える、聖獣。
「……あれ?」
私の脳裏に、開店初日にやってきた、あのお客様の姿が浮かんだ。
焼き魚を食べて、青い宝石を置いていった、薄汚れた白猫。
あの猫ちゃん、そういえばあれっきり来ていないけれど……。
まさか、ね。
その時。
私の思考を肯定するかのように、誰もいないはずの勝手口から、「カリカリ」と扉を引っ掻く音が聞こえた。
「みゃあ」
その声は、前回よりも少し太く、そしてどこか自信満々な響きを含んでいた。