作品タイトル不明
第三十五話「親に説明できる言葉が必要だった」
夏祭りの翌朝、俺はいつもより少し遅く起きた。
寝坊というほど遅くはない。
夏休みの中学生としては、むしろ健全な範囲だと思う。
ただ、起きてすぐ、昨日の帰り道のことを思い出してしまった。
白石の浴衣や夜道、家の近くで振り返った時の小さな会釈、それからガラケーに残っている短いメールまで、まとめて頭に戻ってくる。
朝から思い出す内容としては、少し重い。
いや、重いというか、落ち着かない。
寝起きの頭には重すぎる。
俺は枕元のガラケーを見た。
昨夜のメールは、当然そのまま残っている。
『ありがとう。少し恥ずかしいけど、うれしいです』
もう一度読んで、すぐ閉じた。
朝から何をやっているんだ。
仕事のメールなら、ここまで何度も見返さない。
いや、嫌なメールなら何度も見返して胃を痛くしていたか。
それはそれで嫌な記憶だ。
階下へ降りると、母さんが台所で味噌汁を温め直していた。
「おはよう。昨日、楽しかった?」
「普通に」
「普通に、ね」
その言い方は昨日も聞いた。
母さんはしばらくこのネタでいじる気だ。
家庭内に逃げ場がない。
父さんは新聞を読みながら言った。
「今日は宿題を進めろ」
「分かってる」
「昨日は祭りだったからな」
「うん」
「パソコンも、宿題が終わってからだ」
「分かってる」
祭りの翌朝でも、父さんの管理は変わらない。
むしろ変わらないから助かる部分もある。
浮ついた頭を、現実に戻してくれる。
少し乱暴だが。
俺は朝飯を食べて、午前中は数学と英語を片づけた。
昨日の余韻で全然集中できない、などと言えるほどロマンチックな脳みそはしていない。
分からない問題は普通に分からないし、単語は普通に忘れる。
青春と宿題は、別々の顔で殴ってくる。
昼飯のあと、宿題ノルマを終わらせてようやくパソコンを起動した。
ファンが低く鳴る。
起動は相変わらず遅い。
その遅さを待ちながら、俺はノートを開いた。
今日やることは決めていた。
父さんに説明するためのメモを作る。
いきなり「株を買いたい」と言えば、たぶん終わる。
中学生の息子が、夏休みに急にそんなことを言い出す。
親としてはまず怪しむ。
俺だって、逆の立場なら怪しむ。
しかも、父さんにとって株には明るい話ばかりがくっついているわけじゃない。
リーマンショックから、まだそれほど時間が経っていない。
ニュースで株価が下がったとか、会社が危ないとか、大人たちが難しい顔をしていた記憶はある。
当時の俺は深く理解していなかったが、父さんの世代にとってはもっと生々しいはずだ。
そんな相手に「未来で上がる銘柄を知ってるから買わせてくれ」なんて言えるわけがない。
言った瞬間、病院か寺か、どちらかに連れていかれる。
寺は言いすぎか。
でも、心配はされる。
俺はノートの上に、まず大きく書いた。
『父さんに相談すること』
そこから少し考えて、下に線を引く。
白石に言われたことを思い出す。
目的と使い道を分けた方が伝わりやすい。
あれはパソコンの時の話だったが、たぶん今回も同じだ。
目的は、お金の勉強。
使う金額は、小遣いとお年玉の範囲。
やらないことは、借金、信用取引、親の金に手をつけること。……まあこれは当然だ。
親に確認してほしいことは、口座や書類、取引の記録。
書いてみると、だいぶ地味だった。
未来知識で人生無双、という言葉から一番遠い。
だが、父さんに出せる言葉としては、これくらい地味な方がいい。
派手な言葉は、親の警戒心を呼ぶ。
会社の稟議でもそうだった。
妙に景気のいい資料ほど、だいたい突っ込まれる。
パソコンがようやく起動したので、俺はブラウザを開いた。
検索欄に打つ言葉を少し迷う。
『未成年 証券口座』
打ってから、すぐに履歴のことを思い出した。
父さんに見られる。
見られて困る言葉じゃない。
ただ、今の段階で見られると説明が面倒だ。
俺は少し悩んでから、検索した。
逃げ続けるのも違う。
どうせ父さんに相談するなら、何を調べたか聞かれても答えられるようにしておくべきだ。
ただし、怪しいページには行かない。
証券会社の説明や、未成年口座について書かれているページだけを見る。
読んでいくと、思った通り、親権者の同意や管理が必要になる。
本人だけで勝手に全部進められるようなものじゃない。
名義は子供でも、親が関わる。
書類もいる。
入金する金の出所も、たぶん説明がいる。
「そりゃそうだよな」
俺は小さくつぶやいた。
十四歳が一人でネット証券に突撃して、未来知識で買いまくる。
そんな都合のいい話は、少なくとも俺の家では通らない。
通ったら逆に怖い。
親が止める家でよかった、と言うべきなのかもしれない。
今の俺としては面倒だが。
次に、NISAについて調べようとして手を止めた。
俺の記憶では、これはまだ始まっていない。
制度として存在しないものを、今すぐ使えるわけがない。
しかも、未成年向けのものはさらに後だったはずだ。
このへんも、父さんに話すにはややこしい。
今すぐ必要なのは、制度名を並べることではなく、父さんが納得できる説明だ。
俺はノートに書き足した。
『今すぐ大きく買わない』
『まず調べる』
『記録をつける』
『親に見せる』
これなら、まだ話せる。
少なくとも「一発逆転したい」よりはましだ。
それから、銘柄候補のメモを別ページに作った。
こちらは父さんに見せるためのものじゃない。
自分用だ。
浮かぶのは、スマホの普及、スマホゲーム、電子部品、半導体、ゲーム会社あたりだ。
名前としては、ガンホー、ミクシィ、任天堂、ソニーあたりが浮かぶ。
パズドラ、モンスト、ポケモンGO。
もっと後には、別の大きなゲームもあった。
ただ、時期が曖昧だ。
どれがいつ伸びたのか、株価がどれだけ動いたのか、そこまで覚えていない。
AppleやGoogleも頭をよぎった。
後から考えれば、スマホの中心にいる会社だ。
だが、海外株は為替が絡む。買い方も説明しづらい。
父さんに「海外の会社を買いたい」と言うには、今の俺の信用残高が足りない。
まずは日本株。
それも、買う前に調べる。
さらに言えば、親に話す前に、自分の言葉で整理する。
書いているうちに、だんだんテンションが下がってきた。
未来知識で儲けるはずが、やっていることは完全に事前準備である。
書類も説明も親の同意も記録もいる。
元社会人としては慣れた作業だが、中学生に戻ってまでこれか、という気持ちはある。
俺は椅子の背にもたれた。
パソコンのファンが鳴っている。
窓の外では、昼の熱がまだ残っている。
そこで、ふと引っかかった。
スマホやゲーム、株、ビットコイン、NISA。
そういう金や将来に関わる話とは別に、何か思い出さなければならないことがある。
そういう感覚が、頭の奥に残っていた。
大きなことだ。
たぶん、個人の金儲けよりずっと大きい。
ニュースで何度も見た。世の中の雰囲気が変わった。
そんな気配だけはある。
なのに、肝心なところが出てこない。
日付も、場所も、映像も、輪郭だけがぼやけている。
覚えているはずなのに、手を伸ばすと逃げる。
「何だっけな」
声に出しても、出てこなかった。
宝くじの番号を覚えていないのとは違う。
あれは元から知らない。
でも、これは違う。
たぶん俺は知っていた。
前の人生で、何度も見て、何度も聞いたはずだ。
なのに、今は出てこない。
タイムリープのせいなのか。
時間が戻る時に、記憶のどこかが削れたのか。
それとも、三十二歳の俺が、都合よく覚えているつもりになっていただけなのか。
どれも嫌な答えだった。
俺はノートの端に、少し迷ってから書いた。
『思い出すこと』
それ以上は書けなかった。
具体的な言葉がない。
書けないものは、説明できない。
説明できないものは、父さんにも白石にも話せない。
昨夜、白石は言った。
話せる形になったら、聞く。
話せる形。
それが必要なのは、投資に限った話でもないらしい。
俺自身の頭の中にも、まだ形になっていないものがある。
少し寒気がした。
部屋は暑いのに、首の後ろだけ妙に冷える。
こういう時に大げさなことを考え始めると、ろくな方向に行かない。
俺は麦茶を飲もうとして、コップが空なのに気づいた。
「まず水分だな」
立ち上がる。
未来の大事件より先に、麦茶。
格好はつかないが、脱水で倒れるよりはましだ。
台所へ行くと、母さんが麦茶のポットを冷蔵庫から出していた。
「勉強?」
「一応」
「パソコン?」
「ちょっと調べ物」
「変なこと調べてない?」
「父さんみたいなこと言うな」
「夫婦だからね」
母さんは笑って、コップに麦茶を注いでくれた。
俺はそれを受け取りながら、少しだけ迷った。
「母さん」
「何?」
「非常用の水とか、懐中電灯って、うちにある?」
母さんは少し目を丸くした。
「急にどうしたの?」
「自由研究で、家庭の備えとか調べてて。あと、最近ちょっと気になった」
嘘にはならない。
自由研究という言葉にいろいろ押し込んでいるだけだ。
母さんは少し考えた。
「懐中電灯は玄関の棚にあると思うけど、電池が入ってるかは分からないわね。水は、買い置きはあまりないかも」
「そっか」
「あとで見ておく?」
「うん。俺も見る」
母さんは不思議そうにしていたが、特に深くは聞かなかった。
助かった。
いや、助かったのかは分からない。
聞かれたら説明できないだけだ。
部屋に戻って、俺はノートを見直した。
父さんに相談すること、お金の勉強、少額、親に見せること、思い出すこと、非常用の水、懐中電灯、電池。
並べてみると、だいぶ散らかっている。
投資メモなのか、防災メモなのか、自由研究なのか、自分でも分からない。
だが、今はそれでいい。——むしろ、そうしておかないと、いけない気がする。
分からないままでも、書いておかないと消える。
今の俺の記憶は、思ったより信用ならない。
俺は新しいページを開いた。
その一番上に、もう一度、丁寧に書く。
『父さんに相談すること』
その下に、お金の勉強をしたいこと、小遣いとお年玉の範囲にすること、借金や信用取引をしないこと、記録をつけて親に見せること、まずは口座の仕組みを調べるだけにすることを書いた。
そこまで書いて、俺はシャーペンを置いた。
いきなり父さんに見せるには、まだ弱い。
でも、何もないよりはましだ。
パソコンの画面には、未成年口座についてのページが開いたままだった。
俺はそれを閉じる。
履歴は残るが、それでいい。
聞かれたら、お金の勉強だと言う。
そのための言葉を、今作っている。
ガラケーが震えた。
白石からだった。
『昨日の浴衣のこと、ありがとう。まだ少し照れます』
俺は画面を見て、少し笑ってしまった。
未来のことを考えて、投資のことを調べて、思い出せない何かに引っかかって、頭の中はかなり散らかっていた。
そこに、白石のメールが来る。
困るが、助かる。
『本当のこと言っただけ』
打ってから、さすがにこれはどうなんだと手が止まる。
朝から何を送ろうとしているんだ。
俺は一度消して、もう少し無難にした。
『似合ってたのは本当。また図書館で』
送信する。
送ったあとで、無難なのかどうか分からなくなった。
もういい。
この手の正解は、三十二歳になっても分からない。
しばらくして、返事が来た。
『うん。また図書館でね』
短い返事なのに、少し落ち着いた。
俺はガラケーを閉じ、ノートに視線を戻した。
父さんに相談すること、思い出すこと、白石にいつか話せる形にすること。
全部を今すぐ片づけるのは無理だ。
だが、何も書かないまま放っておくよりは、少しだけましだと思う。
俺はノートを閉じずに、机の端へ置いた。
明日も見える場所に置いておけば、さすがに一つくらいは手をつけるだろう。
たぶん。