軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十話「榊原莉奈は笑わない」

机を増やすだけだな。

昨日そう言った自分を、翌日の俺は少しだけ殴りたくなった。

放課後の教室で、本当に机を増やすことになったからだ。

小野が来る。

杉浦も来る。

田端はなぜか、自分が最初から運営側だったような顔をしている。

教室の後ろに机を寄せるだけの作業なのに、中学生の机は妙に足が引っかかる。床を擦る音も大きい。社会人時代の会議室ならキャスター付きの椅子を転がせば終わったが、公立中学の机はそんなに甘やかしてくれなかった。

「悠真、これ本当に毎回やるの?」

「昨日、机を増やすって言ったのは俺だが、運ぶとは言ってない」

「言葉の抜け道を使うな」

「田端、成長の機会だ」

「机で成長したくない」

田端は文句を言いながらも、ちゃんと机を動かしている。

口は軽いが、逃げないところは偉い。

本人には言わない。

白石は自分の机からノートを持ってきて、空いた席に置いた。

小野は理科のプリントを持っている。杉浦は数学の問題集を鞄から雑に出して、俺に「これでいい?」と聞いてきた。

「問題集の前に、答案の直しだ」

「まだやるの?」

「やらないと提出にならない」

「提出物って、終わったと思ったらまた来るな」

「人生みたいなことを言うな」

杉浦は「深い」と言ったが、たぶん何も深く考えていない。

机を寄せる音に、教室に残っていた何人かがこちらを見る。

もう珍しい光景になりかけているのかもしれない。

昨日までは三人だった場所に、小野と杉浦が加わった。たったそれだけで、教室の後ろの空気は少し違って見える。

白石はその中心にいるわけではない。

声も大きくないし、周りを引っ張るタイプでもない。

けれど、彼女のノートを見たい人間がいる。

彼女に聞きたいと言う人間がいる。

その事実は、地味なわりに強かった。

「白石さん、昨日言ってた図の描き方なんだけど」

小野が椅子に座りながら言った。

「ここも同じ感じでいい?」

白石はプリントをのぞき込んだ。

少し考えてから、鉛筆で端を指す。

「これは、図より表のほうがいいかも」

「表?」

「うん。条件が二つあるから、分けて書いたほうが間違えにくいと思う」

白石の声は、昨日より少しだけ早く出た。

まだ小さい。

でも、待たされている感じが減っている。

俺は杉浦の答案を見ながら、そちらを視界の端で追っていた。

見すぎるな、とは思う。

思うのだが、気になるものは気になる。

「佐伯」

杉浦が答案を差し出してきた。

「これ、途中式書いた」

「どれ」

「ここ」

「あぁ、式は書いてあるな」

「おお」

「ただ……途中で数字が入れ替わってる」

「なんで……?」

「俺に聞くな」

杉浦は本気で不思議そうな顔をしている。

自分で書いた数字が途中で別人になる現象は、中学生の答案ではよくある。社会人の資料でもたまにある。たまにでは困るのだが、ある。

田端が横から覗き込んだ。

「俺、それ分かる。途中から違う数字になるやつ」

「分かってどうする。直せ」

「直す」

「返事だけはいいな」

田端が「返事から成長する」と胸を張る。

成長の方向が相変わらず独特だ。

その時、教室の前のほうで笑い声がした。

大きい声ではない。

ただ、耳に残る声だった。

俺は顔を上げた。

榊原莉奈(さかきばらりな) が、取り巻きの女子と一緒に立っていた。

昨日から何度もこちらを見ていたが、今日は少し様子が違う。

ただ遠くから眺めるのではなく、こちらへ歩いてくる。

白石の手が止まった。

小野も気づいたらしく、プリントから顔を上げる。

杉浦は空気を読むのが少し遅れて、俺の顔を見てからようやく後ろを振り向いた。

榊原は、笑っていた。

第一印象だけなら、普通の笑顔だ。

悪口を言いに来たようには見えない。むしろ、昨日までより明るくさえある。

だが、その笑顔のまま近づいてくる足音が、妙に教室の中で響いた。

「白石さん」

榊原は、白石の少し手前で止まった。

近すぎない。

でも、無視できるほど遠くもない。

「最近、佐伯くんたちと楽しそうだね」

言葉だけなら、ただの雑談だった。

久しぶりに話しかけてきたクラスメイト。

最近の様子を見て、声をかけただけ。

そう言われれば、そう見えなくもない。

でも、周囲の空気は少し固くなった。

小野がプリントを持つ手を止める。

田端の口も珍しく閉じた。

白石は、すぐに返事をしなかった。

膝の上に置いたノートの角を指で押さえている。

俺は口を開きかけた。

何の用だ。

今は勉強しているだけだ。

そう言えば、場は簡単にこちらへ戻る。

俺がそういう役をやるのは、むしろ慣れている。

だが、昨日の白石の声が頭に残っていた。

『私、自分で言えた』

あの言葉を聞いたのに、ここで全部持っていくのか。

白石の前に立つのは簡単だ。簡単だから、たぶん危ない。

俺は、膝の上で拳を握った。

自分でも少し驚くくらい、力が入っていた。

「……勉強してるだけだから」

白石が言った。

声は震えていた。

けれど、ちゃんと榊原へ向いていた。

榊原は首を少し傾ける。

「そうなんだ。なんか、前よりいろんな人と話してるから」

優しい声に聞こえる。

聞こえるだけだ。

「いいよね。守ってくれる人がいると」

教室の空気が、今度こそ分かりやすく止まった。

言い方がうまい。

責めているわけではない。

名前を出しているわけでもない。

ただ、白石が誰かに守られて調子に乗っている、という形を薄く置いた。

くだらない。

大人の俺なら、そう切って捨てられる。

いや、大人でもこういう言い方にやられる人間はいる。会社にもいた。会議室で、笑顔で「助けてくれる人が多くていいですね」と言うやつ。

言われた側が怒れば、ただ褒めただけなのに、と逃げる。

榊原はその逃げ道を、もう用意している。

俺は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

苦い。

思ったより、ずっと苦い。

白石は俯きかけた。

ノートを押さえる指が、白くなる。

小野が何か言おうとした気配がした。

田端も椅子を少し鳴らす。

その前に、白石がもう一度口を開いた。

「守ってもらってるだけじゃないよ」

小さな声だった。

けれど、さっきより言葉が少しだけ前に出ていた。

榊原の笑顔が、ほんの少し動いた。

「そう?」

「うん。勉強してるだけ。小野さんにも聞かれたから、一緒に見てるだけ」

白石はそこで一度、息を吸った。

俺は何も言えずに見ていた。

言うな、と自分で自分の腕をつかんでいるような気分だった。

「佐伯くんだけじゃないし」

その一言に、田端が勢いよく乗った。

「俺もいるけどな」

声が、少し大きかった。

教室の何人かがこちらを見る。

田端はわざとらしく自分を指差した。

「机運搬係として」

「そこなのか」

杉浦が思わず突っ込む。

小野も少し笑った。

白石の肩から、ほんの少し力が抜ける。

田端はそのまま続けた。

「あと、提出物を出せない側の気持ちが分かる係」

「それは胸を張るところじゃない」

「でも必要だろ」

「まあ、ちょっと必要」

杉浦がうなずいた。

お前もそちら側か。

知っていたけど。

場の空気が、少しずれる。

榊原が作ろうとした細い糸が、田端の雑な声で一度たるんだ。

榊原は田端を見た。

それから、白石へ視線を戻す。

「ふうん。そうなんだ」

笑顔は消えていない。

ただ、さっきほどきれいには見えなかった。

「じゃあ、頑張って」

榊原はそう言って、少し肩をすくめた。

取り巻きの女子が、横で曖昧に笑う。

笑うべきなのか分からない顔だった。

榊原たちは教室の前へ戻っていく。

俺は、ようやく息を吐いた。

気づかないうちに止めていたらしい。

白石はまだノートの角を押さえていた。

表情は硬い。

けれど、俯いてはいない。

「白石」

呼ぶと、白石がこちらを見た。

大丈夫か、と聞きかけてやめた。

大丈夫ではないかもしれない。大丈夫かどうかを、今すぐ本人に答えさせるのも違う気がした。

代わりに、俺は小野のプリントを指した。

「続き、どこだったっけ」

白石は一瞬だけ目を瞬かせた。

それから、小野のプリントへ視線を落とす。

「……ここ」

声はまだ少し震えていた。

でも、戻ってきた。

小野が静かにうなずく。

「うん。ここ、お願い」

その言い方が自然で、俺は少し救われた。

白石を特別に慰めるでもなく、榊原の話を広げるでもなく、ただ続きを頼んだ。

小野はたぶん、思っていたよりずっと強い。

白石は鉛筆を持ち直した。

「これは、条件を二つに分けると」

説明が再開する。

田端はさっきより少し静かに、英単語カードをめくり始めた。

杉浦は答案を見ているふりをしながら、ちらちら白石のほうを見ている。

見ているなら手を動かせ、と言いたかったが、俺も人のことは言えない。

白石がまた話し始めたことに、胸の奥で変な力が抜けていた。

◇ ◇ ◇

勉強会が終わる頃、教室の中はほとんど空になっていた。

榊原たちは、まだ残っていた。

前のほうで鞄を整理しながら、時々こちらを見ている。

もう直接言ってくる気配はない。

だが、あの一言はちゃんと残っていた。

『守ってくれる人がいるといいね』

文字にすると、ただの嫌味だ。

けれど白石にとっては、たぶんもう少し重い。

また自分が誰かに守られるだけの存在だと見られる。

佐伯の後ろに隠れていると思われる。

そういう形に押し戻される怖さがある。

俺は机を戻しながら、白石の様子を見た。

白石は小野に「また明日」と言われ、少し遅れて「うん」と返している。

その返事は小さかったが、途切れてはいなかった。

田端が俺の横で机を持ち上げる。

「さっきの、俺、変じゃなかった?」

「どれ」

「俺もいるけどな、ってやつ」

「変ではあった」

「そこは嘘でも否定しろよ」

「でも助かった」

田端が机を下ろす手を止めた。

「まじ?」

「まじ」

俺が言うと、田端は少し照れたような顔をした。

珍しい。

「ならいいや」

「調子に乗るなよ」

「もうちょっと乗らせて」

「机を全部戻したらな」

「報酬が労働」

田端はぶつぶつ言いながらも、もう一つ机を運び始めた。

こういうところでちゃんと動くから、こいつは信用できる。

うるさいが。

白石は自分のノートを鞄にしまっていた。

表情は、まだ少し硬い。

俺は声をかけるタイミングを探した。

探しているうちに、白石のほうからこちらへ来た。

「佐伯くん」

「ん?」

白石は少し迷ってから、言った。

「さっき、何か言おうとしてくれた?」

見られていたらしい。

「言おうとはした」

「やっぱり」

「でも、白石が言ったから」

白石は視線を落とした。

廊下から、部活終わりの生徒の声が聞こえてくる。

教室の空気だけが、少し遅れて夕方になっていた。

「……怖かった」

白石が言った。

「うん」

「でも、何も言わないのも嫌だった」

その言葉に、俺はすぐ返せなかった。

怖い。

でも、嫌だ。

その二つが同時にあるのは、ひどく当たり前で、たぶんすごく大事なことだった。

怖いなら逃げればいい、と大人は言う。

俺もたぶん言う。

けれど、逃げたくない日もある。

逃げるしかなかった日があったから、なおさら。

「言えてた」

俺はそれだけ言った。

白石は小さくうなずいた。

褒められて嬉しいというより、確かめたかった答えを受け取ったような顔だった。

「田端くんにも、助けられた」

「あいつには言うなよ? 調子に乗る」

「もう聞こえてるけど」

少し離れたところで、田端がこちらを見ていた。

「聞こえてた?」

「聞こえてた。俺、助けた?」

「助けた」

「よし」

田端は変なガッツポーズをした。

白石が少し笑う。

その笑いは、さっき榊原に声をかけられる前のものとは違った。

まだ硬さが残っている。完全には戻っていない。

でも、笑えた。

俺はそれを見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

◇ ◇ ◇

帰り支度をしていると、榊原が教室の前から歩いてきた。

取り巻きの女子は先に廊下へ出ている。

榊原だけが、少し遅れてこちらの列を通る形になった。

白石は田端と小野のほうにいる。

杉浦はすでに部活へ行った。

俺は鞄を持ったまま、榊原を見る。

榊原は俺の横を通り過ぎる直前、足を少しだけ緩めた。

顔は前を向いたままだ。

声だけが、俺に届くくらいの小ささで落ちてきた。

「佐伯くん、白石さんの保護者みたい」

そう言いながら、榊原は廊下に出て行った。