軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

アグネッタとの別れ

「……師匠……」

リリアーナは、ベッドへ駆け寄った。

そして、すぐに気づく。

――息を、していない。

恐る恐る、アグネッタの頬に触れる。

ひやりと、冷たかった。

脈を探す。

……ない。

「……なんで……」

その瞬間、張り詰めていたものが切れた。

リリアーナは、アグネッタの身体にしがみつき、嗚咽を漏らした。

エドモンドは、思わず顔を背ける。あまりにも痛々しく、直視することができなかった。

その中で、ラニアだけが静かに男へ向き直った。

「……彼女と、一緒に帰ってもいい?」

男は、戸惑ったように答える。

「亡くなって……いるが」

「だから、だよ」

ラニアは、迷いなく言った。

「こんな遠い場所に、一人で置いていくなんて……可哀想だ」

男は、嗚咽を続けるリリアーナに目を向け、深く息をついた。

「……そうだな」

ラニアは、もう一つだけ確かめるように問う。

「昨日の、あの女性は……どう?」

男は、少し躊躇いながら答えた。

「少し、調子がいいと……そう言っていた」

「なら、よかった」

ラニアは、静かに頷いた。

「最後の言葉、守ってあげてね。きっと……良くなるよ」

「……そうだろうか」

男は、小さく呟き、やがて諦めたように言った。

「……わかった。馬車は、用意しよう」

こうして――動くことのないアグネッタと、リリアーナ、ラニア、エドモンドは、静かに屋敷を後にした。

リリアーナ一行は、皇国を出た。

隣国を抜け、自国との国境に差しかかると、エドモンドは御者に言った。

――ここまでで十分だ、と。

戦争をしていた国の馬車である。自国へ入る直前まで送り届けてくれただけでも、十分すぎるほどだった。

馬車が引き返し、やがて姿が見えなくなる。

リリアーナは、ひどく窶れていた。それでも前だけを見て、馬を走らせてきた。

そうして――彼女たちは、確かに自分たちの国へと足を踏み入れたのだった。

「……どこへ向かえばいいんだろうな」

エドモンドが、ぽつりと呟く。

「少し、待ってて」

ラニアはそう言うと、一人、アグネッタの棺へと歩み寄った。棺の傍で、何かを確かめるように手を動かし、やがて戻ってくる。

「人のいない場所、行ける?」

「……ああ、行けるが」

戸惑いながらも、エドモンドは森へと馬を進めた。

人の気配が、まったく感じられない深い森。

「この辺かな」

ラニアはそう呟き、棺の前に立った。

そして――ためらいもなく、棺の蓋を開ける。

「ちょっと、ひどくない?」

聞き覚えのある声が、森に落ちた。

「背中とお尻と頭が、ずっと打ち身よ」

…………え?リリアーナは、思考が止まったまま、棺の方を見た。

そこには――確かに、棺の中に座り込み、ラニアを睨みつけているアグネッタの姿があった。

「……どういう、こと……?」

リリアーナは目を大きく見開いたまま、動けずにいた。

「リリアーナが、泉の中にいた時と同じだよ」

ラニアは、まるで当たり前のことのように言う。

「体温を下げて、呼吸を極限まで少なくして、心拍数も落としたの」

――確かに。リリアーナは、あの泉の中で、長い時間眠り続けていた。

「……そんなことが、できるのか?」

エドモンドが、信じられないという声を漏らす。

「現実だよ」

ラニアは、短く答えた。その瞬間、リリアーナは我に返ったように走り出した。

「師匠……!」

アグネッタに駆け寄り、思いきり抱きつく。

「……リリアーナ」

アグネッタは、優しく目を細め、その小さな背を抱き返した。温もりが、確かにそこにあった。

「……師匠は、知っていたのですか……?」

リリアーナは、涙の名残を残した瞳で尋ねた。

「……知らないよ」

アグネッタは、少し呆れたように答える。

「この子が、勝手にやったのさ。私は夜、普通に眠って、目が覚めたら棺の中だった。しかもね、やけに激しく揺れる棺で」

そう言って、アグネッタはラニアを睨みつけた。

「生きてるでしょ?」

ラニアは、悪びれもせず言う。

「棺の中でね。ときどき外の会話が聞こえてきてさ。どうやら私は、死んだことになっているらしい、って分かったのさ」

アグネッタは、ため息混じりに言った。

「……どうして、教えてくれなかったの?」

今度は、リリアーナがラニアを見て問いかける。

「だって」

ラニアは、当然のことのように答えた。

「教えたら、リリアーナ、顔に出るでしょ?」

――確かに。リリアーナは、何も言い返せなかった。

その様子を見て、エドモンドも、アグネッタも、同じ結論に至る。……ラニアの判断は、正しかったのだと。

「……師匠は、これからどうなさるのですか?」

リリアーナは、ためらいがちに尋ねた。

「……男爵領の、ただのアグネッタに戻るさ」

アグネッタは、肩をすくめるようにして苦笑した。

「王都も、北の領地も、皇国も……もう、こりごりだよ」

「北には、来られないのですか?」

縋るような問いに、アグネッタは少し困った顔をした。

「あそこは寒い。老体には、堪えるんだ」

そう言って、ほんの少しだけ寂しそうに笑う。

「……そう、ですか」

リリアーナは、それ以上の言葉を続けられなかった。

別れは、次の町で訪れた。街道脇に、古いがしっかりとした作りの馬車が止まる。

簡素だが、旅慣れた馬車のようだった。

アグネッタが少し買った荷をまとめ、馬車へ向かおうとした、そのとき――ラニアが、そっと近づいた。

「少し、心臓をいじっておいたよ」

小さな声で、さらりと言う。

「もう、痛みは出ないと思う。帰ったら、ちゃんとリリアーナに手紙、出してね。……長生きしてね」

言うだけ言って、ラニアはくるりと背を向け、リリアーナのもとへ駆けていった。

アグネッタは一瞬、目を見開き――やがて、困ったように、そして優しく笑った。

「まったく……」

小さく息を吐き、馬車に乗り込む。御者が合図をすると、馬車はゆっくりと動き出した。

アグネッタは、窓から身を乗り出すことはせず、

ただ、去っていく三人の姿を、静かに見送った。やがて、小さくなっていく背中を見つめながら、ぽつりと呟く。

「……私の心臓を見抜くなんてねぇ」

誰にともなく、柔らかな声で。

「本当に……憎ったらしい子だ」

アグネッタは、ハンカチを取り出し、そっと目元に当てた。

馬車はそのまま、街道の先へと消えていった。