軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

72話 別れの前夜

「……悩む暇もないとは、まさにこのことね」

第二部隊の事務室で、いつもの眼鏡をかけながら書類に向かう。

ペンを走らせながらふと頭に浮かんだのは――あの日、アレンと口論になった夜のこと。

あれから数日。けれど、彼と顔を合わせる時間はめっきり減った。

私の第0部隊への正式な配属日も決まり、通常業務と準備に追われる毎日。

アレンもまた、ヴァルドール王国に向かうための引継ぎに追われ、目が回るほど忙しそうだった。

「……はぁ。アレンと喧嘩するの、学生の時以来かも」

不意に思い浮かべる学生時代に、無意識に漏れた深いため息。

変なの。幼い頃の方が、喧嘩をしてもすぐに仲直りできていた気がする。

会えない時間が積み重なるほどに私の感情は複雑に絡まって、素直になれない。すれ違うだけの時間が少しずつ、確かな距離を広げていく。

「アレンがここを離れるまで、あと五日か……」

机の隅に置いてある小さなカレンダーに目をやる。指先で印をなぞると、紙の感触がやけに冷たく感じられた。

それまでに、アレンともう一度話をしないと。

「よし、おしまい」

全ての仕事を終えたことを確かめ、そっと眼鏡を外す。

作り終えたばかりの引き継ぎの資料を、丁寧に机の上へ並べた――その時だった。

「リネットちゃん、お疲れ様ぁ!」

突然背後から声がして、首元にふわりと腕が回される。

驚いて振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべたマルチダ先輩の姿があった。

「ま、マルチダ先輩……!」

思わず声が上ずる。

その後ろには、第二部隊の仲間達がずらりと並んでいて、誰もが少し照れくさそうに笑っていた。

手には小さな花束と、色とりどりの寄せ書きが書かれた色紙。

「今日が最後の勤務って聞いたから、ちょっとしたサプライズよ」

マルチダ先輩がウインクを飛ばす。

すると、他の隊の皆も続くように、次々と言葉をくれた。

「リネット、今までお疲れ様!」

「リネット先輩、今まで本当にありがとうございました!」

「第0部隊でも、リネットなら大活躍間違いなしさ!」

「皆……」

胸の奥が、じんと熱くなる。

たくさんの言葉が並んだ色紙と花束を受け取る手が、少しだけ震えた。

「ありがとうございます。皆のおかげです。私、第二部隊の皆が家族みたいに……大好きです」

笑顔を作ろうとしたけれど、目の奥が熱くて、うまく笑えなかった。

色々なことがあったけど、いつも第二部隊の皆は、私の味方でいてくれた。それがどれほど心強かったか……

「リネットちゃん、第0部隊が辛かったら、いつでも戻っていらっしゃいね!」

「……はい!」

それから、仲間達が笑顔で事務室を後にしていくのを、私は最後まで見送った。

誰もいなくなった部屋に、少しだけ余韻が残る。胸に抱いた色紙を眺めると、温かな気持ちで満たされた。

この場所に、もう自分の席はなくなるのだと思うと、すぐに立ち去る気にはなれなかった。

第二部隊で過ごした日々。

その全てが今日で一区切りついたのだと思うと、胸の奥がじんと熱くなる。

窓の外に目をやると、空はすっかり夜の色に染まっている。

「……そろそろ帰らないとね」

席から立ち上がると、花束と色紙を大切に持って、部屋を後にした。

夜の空気はひんやりとして、肌を撫でる風が静かに通り過ぎる。石造りの回廊を歩くたび、靴音が控えめに響いた。

……そんな静寂の中、何かが動いた気配がして、顔を上げる。

石造りの回廊の向こう、騎士団の制服を纏った人影が、少し慌てた様子でこちらへ向かってくる。

見覚えのある姿だった。

「クリフ様」

こんな遅い時間に……とはいえ、騎士団には夜に任務に就く者もいる。

それ自体は珍しいことではない。けれど、わざわざ私のもとへ駆けつけてくる様子には、ただならぬ気配があった。

「リネット! アレン殿下が出立の準備をしている!」

「え……?」

思わず聞き返す。

今から? カレンダーに印をつけた日まで、まだ時間は残っていたはずなのに。

「予定を早めたようだ。正式な命令ではないが、アレン殿下の判断だと聞いている」

「……どうして、そんな急に」

「誰にも告げずに行こうとしている。君にも、何も言わずに」

薄々、気づいてはいた。

忙しいとはいえ、これほどまでに顔を合わせないのは不自然だった。きっと彼は、私を避けていたんだ。

「今、アレンはどこにいるんですか」

「本部の厩舎だ。馬車が出る準備をしている」

「分かりました。……クリフ様、ありがとうございます」

「礼はいいから、さっさと行け」

息を呑み、そのまま駆け出した。

心臓が激しく波打つのも手伝って、静まり返った通路に、私の足音だけが鋭く響き渡るように感じられた。

「――アレン!」

「……リネット」

馬車の傍で振り返った彼の瞳が、驚きに見開かれる。

ほんの一瞬、その表情が揺れた。

「はぁっ……はぁっ……このまま、一人で行くつもりだったんですか?」

全力で走ったせいで、息が上がる。

体力のない私には致命的だけど――それでも、間に合ってよかった。

「……貴女の顔を見たら、決意が鈍ってしまいそうだったので」

「決意って、そんな言い方……」

言いかけた言葉が、喉の奥で途切れた。彼の瞳の奥に、揺るぎない覚悟が滲んでいたから。

私を見つめながら、アレンは静かに息を吐いた。

「……あの時はすみませんでした。リネットを傷付けるつもりはなかったんです」

「謝らないでください。謝られると、余計に……」

彼の言うことは、何一つ間違っていない。

だからこそ、苦しかった。分かってる。私では、何の力にもなれない。

「リネットが気に病む必要はありません。これは俺が引き起こした問題です。貴女を巻き込みたくないだけなんです」

「……巻き込む、なんて。これは私の問題でもあります」

「いいえ。俺が勝手に決めて行動したことです。リネットには何の関係もありません」

その言葉は静かで、確かな決意に満ちていた。

私には、それが「拒絶」のように響いた。

守ろうとしてくれているのは分かる。でもその優しさが、私との距離を静かに広げていく。触れられないほど遠くへ――

「リネットも、明日から第0部隊に配属でしょう?」

「……はい」

「なら俺のことは気にせず、そちらを優先してください」

「でも――」

思わず反射的に言いかける。否定したかった。けれど彼は、その言葉を遮るように続けた。

「母親に会える異能を探すのがリネットの夢でしょう? 俺は、貴女の夢の『足枷』になりたくありません」

「――」

一瞬、言葉を失った。

自分の言葉をそのまま返されたこともだが、ずっと追い続けてきた夢の部隊に入隊することが、あと一歩で叶う。

その事実に――胸の奥で小さな迷いが生じたのは確かだ。

私の心の揺れを機敏に感じ取ったアレンは、困ったように微笑んだ。

「ずっと、子供の頃から描いていた夢じゃないですか。それを簡単に手放そうとしないでください。俺なら大丈夫ですから」

「私は……」

少しだけ息を吸い、まっすぐに彼を見つめる。

「……私は、私の夢も大事です。でも、アレンを犠牲にしてまで叶えたくはありません」

心からの言葉だった。

夢は諦めたくない。でも、大切な人を蔑ろにしてまで叶えたくない。

私の視線を受け、アレンの瞳がわずかに揺れた。何かを言いかけたようにも見えたが、すぐに目を伏せる。

「リネットは優しいですね。ですが、俺が貴女を支えることはあっても、貴女が俺に縛られることは、俺自身が許せそうにありません」

「そんなの、勝手です!」

「そうですね。そう思います」

私の言葉を否定するでもなく、受け流すでもなく、静かに頷くだけのアレン。

「……アレン――」

「必ず帰ります。だからリネットは――自分の夢を追っていてください。自由に輝いて生きる貴女こそが、俺の帰る場所なんです」

それ以上、彼は何も言わせてくれなかった。

私の気持ちも、選択も、何一つ聞かずに告げられた一方的な約束。

どれほど時間が流れたのだろう。

アレンはそっと目を伏せると、静かに背を向けて馬車へと歩き出した。

「いってきます」

「まっ……!」

呼び止めたい。

本当はもう一つだけ言いたい言葉があった。「行かないで」と。けれど、言えなかった。

心地よい風が頬を撫で、夜の匂いが胸に沁みる。

月明かりの下、アレンの背中は静かに、けれど確かに遠ざかっていった。一度も立ち止まることなく、私を一人残して――

ゆっくりと馬車が去っていくのを、私はただ見送るしかなかった。