作品タイトル不明
第26話 母の庭をひらく
母の庭へ講義机を運び込むと、土の匂いは思い出ではなく仕事の匂いになった。
白樺小邸の薬草園は、正式な分室になる前から忙しくなった。もちろん、まだ研修生を迎えて授業を始めるわけではない。設備の位置を決め、乾燥棚を修繕し、水場から作業台まで薬草を運ぶ道にぬかるみができないか確かめるだけで、一日が過ぎてしまう。
「分室長候補、棚はこちらの高さで本当によろしいですか」
木工職人が巻き尺を引きながら尋ねた。
「背の低い見習いも使いますので、上段をあと指二本分だけ下げてください。乾燥網は取り外して洗える形にできますか」
「できますが、金具が増える分、見積もりも少々上がります」
「清掃の時間が減る分も含め、書面にしてください」
職人は、作業着の袖を留めて自分で棚の高さを測る私を、少し面白そうに見た。以前なら、公爵令嬢に現場の相談をしてよいのか迷っただろう。今は、細かな注文の多い依頼主として扱われているらしい。
作業室の奥では、湯釜を二台置くために床石を張り替えていた。予算表の数字で見た時には痛い増額だったが、実際に二人の職人が釜の間隔を測る姿を見ると、院長が削らせなかった理由がよく分かる。一台で研修と緊急鑑定を兼ねれば、誰かが待ち、焦り、やがて省略を選ぶかもしれない。
「こちらの流し台は、湯釜から遠すぎませんか」
私が問うと、職人は一度図面を見てから、石床へ白墨で新しい線を引いた。
「分室長候補のおっしゃる通り、洗浄の動線が長い。半歩寄せましょう。ただし、戸の開閉幅を狭める必要があります」
「研修生が薬箱を運ぶ幅は残してください。戸の方を外開きにできますか」
職人はにやりと笑った。
「これは完成までに何度も描き直すことになりそうだ」
「紙は用意します」
母の庭で、私は失敗しない計画ではなく、直せる計画を作っていた。
ミナは作業室の隅で、職人たちへ冷たい水を配っていた。
「お嬢様、昼食の時間になりましたら、今度こそ手を止めてくださいませ。昨日は設計図にパンの粉を落として慌てておいででした」
「今日は皿から離れて図面を見るわ」
「そういう問題ではございません」
リュシーが手伝いに来ており、声を上げて笑った。職場の笑い声が母の庭に響くことを、私は少し不思議に思う。母の記憶を汚されるどころか、庭がようやく閉じた時間から出てくるようだった。
午後には、王都施療所から研修受入れを希望する文書が届いた。
ガルシアが署名した書面には、第二の箱を止めた経験を受け、若い薬師にも温浸と記録保全を学ばせたいとある。受講費を支払う意思と、研修期間中の人員調整も記されていた。
「最初の契約が来ましたね」
セルヴァン院長は小邸の作業室へ来ると、文書を読みながら満足そうに言った。
「まだ認可前ですが」
「見込みを示す資料にはなります。あなたが用意した収支計画へ組み込みなさい」
ガルシアの書面には、研修へ出す若い薬師が、第二の汚染箱を運んだ夜に列の整理をしていた者だと記されていた。危険な薬が渡されかけた現場を見た者が、今度は止める手順を学びに来る。
「受講者の名を拝見してもよいですか」
「もちろん。あなたが受け入れられる人数か確認してください」
名簿は四名だった。初年度八名という上限の半分である。欲張って増やすのではなく、この四人に器具の洗い方まで伝えられるように始めたいと思った。
「初回は四名を受け入れます。余裕が確認できた後に追加を検討します」
院長が赤い印ではなく、承認の丸を一つ付けた。
机には、分室設立に必要な費用をまとめた帳面がある。棚、湯釜、洗浄台、明礬紙を保管する乾燥箱、標準見本の封印庫。小邸を持っているからといって、仕事場をただで開けるわけではない。
父からは、公爵家で不足分を援助すると申し出があった。私は贈与ではなく、低利の貸付契約とする案を提出した。家族の助けを拒絶したいのではない。分室が私の結婚や父の気持ちによって突然失われないよう、仕事として立つ形にしたかった。
父は契約書を手に、小邸の庭で苦笑した。
「娘へ金を貸し、利息を受け取る父というのは、少々冷たいようにも聞こえるな」
「返済の予定がある娘を信じてくださる父、とも聞こえます」
「母上に似て、言うようになった」
彼は署名する前に、返済が苦しくなった際は条件を見直す協議条項を追加した。甘やかすのではなく、倒れるまで意地を張らないよう道を残してくれる。私はそれを削ろうとせず、同意した。
「ありがとうございます。分室の収益と支出は、半年ごとに報告します」
「君が自分で作った帳面を、見せてもらえる日を楽しみにしよう」
母の庭で、父と初めて未来の数字を話した。
夕方、薬草院へ認可資料を届けに行くと、院長室にはノエルの姿がなかった。いつもなら机の端に置かれている無香の軟膏も、今日は使われた形跡がない。
「アシュフォード監督官は、王妃府でしょうか」
私が尋ねると、院長は書類から顔を上げた。
「監査部との人事面談です。あなたには、正式に話が届くまで黙っているつもりでしたが、妙な誤解をさせる方がよくありませんね」
「人事面談?」
院長は引き出しから一通の申請書の写しを出した。申請者欄にはノエル・アシュフォード。希望職は中央薬務監査部監査官。理由欄を読んだところで、息が止まる。
白樺薬草分室長候補の認可および今後の業績評価について、私的な関心の存在が公正を損なう疑いを避けるため、直属監督権限から外れることを希望する。
「私的な関心……」
声に出してしまい、頬が熱くなる。院長はそのことを面白がらず、淡々と言った。
「監督官は、あなたの分室計画を評価する立場にあり続けたまま、個人的な望みを口にするつもりはないそうです。異動が認められれば、認可の最終評価は私と別の監査官が行います」
合理的な配慮だと分かる。私の仕事が、彼に好かれたために得たものだと疑われないための選択だ。
それでも、胸が空くような感じがした。
「監督官は、薬草院を離れるのですね」
「距離を置きたいからとは、私は聞いていません」
院長は必要以上に助け舟を出さない口調で言った。
私は申請書から目を離せずにいた。彼に会うことは、私にとっていつの間にか仕事の一部ではなくなっていたのだろうか。冷めた茶を見つけられた時の安心、王宮の扉を開けてもらった時の呼吸、昨日まで当たり前だと思っていたものが、異動という文字で急に輪郭を持つ。
「この書面を、私が見たことは監督官に伝わりますか」
「人事に関わる理由ですから、候補者であるあなたへ開示すべき内容です。伝わります」
逃げたいと思った。けれど、彼が権限を外す理由を隠していないのに、私だけが何も知らない顔をするのは違う。
「では、次にお会いした時、きちんとお礼を申し上げます」
院長は穏やかに頷き、分室の収支資料を手に取った。
「まずは認可を勝ち取りなさい。監督官の異動は、あなたの計画を通すための代わりではありません」
「はい」
返事をしても、まだ胸の空白は残った。
院長室を出る前に、私はノエルが評価していた分室資料の欄を確認した。彼の確認印は、異動申請を出す前の日付で止まっている。それ以降の改訂は院長と別担当者が審査する。彼が私を助けた痕跡は消えないが、私の就任を決める印に彼の私情が混じる余地もない。
その徹底した分け方が、私には嬉しく、そしてどうしようもなく会いたい理由になった。
小邸へ戻ると、新しい講義机の下に細かな木屑が落ちていた。掃こうとして、私は箒を持ったまましばらく動けなかった。
母の庭はひらかれようとしている。
けれど、その庭へ最初に来てほしいと思った人は、もう監督官ではなくなるのだった。
私は箒を壁へ立て掛け、明日の作業予定へ一行加えた。異動の成立を知った後でも、この庭を整える仕事は止まらない。止めずにいる私を、彼にも見てほしかった。