作品タイトル不明
10. 文化祭 土曜日 15:00
そうこうしているうちに美術室も人が増えだした。秋人や美香に描いてもらうのを目当てに集まってきた学生たちだ。
そうなると保護者は居場所に困るわけで、薫と桜子は秋人たちを見守りながら美術室を後にしようとした。その時、桜子が何かを拾い上げた。
「なんだこれ?」
薄い冊子のようなもので、どうやら本のようだった。
「誰かの落とし物かな」
ぱらりとめくった瞬間、桜子は大急ぎで本を閉じた。なにやら見知った顔が並んでいた気がするが、内容が大問題だ。
「桜子さん?」
薫の不思議そうな顔に、桜子は目を合わせられない。
桜子は瞬間記憶の持ち主で、見たものを一瞬で映像のように記憶してしまう。なので、見知った顔らしきものが現実ではありえない姿で描かれているのをばっちり記憶してしまった。
おそらく、この前の合宿の時の女の子たちの悪ふざけだろうが、今の薫に見られるのは騒ぎになること間違いなしだ。
「いや、これは薫さんは見ない方がいいかと…」
あわあわとしていると、背後から声がかかった。
「あ、すいませーん。それ裏展示のやつなんです。もーだれよ、落としたの。美香に見つかったら試験の時にノート貸してもらえなくなるじゃない」
裏部長の輝美が桜子の手の中の冊子を受け取ろうとしたところ、横から冊子は別の人の手の中に移った。
「げっ」
輝美が思わず呻く。
「秋人ですか、これ」
難しい顔をした薫が冊子をパラパラと眺めてため息を付く。
「いえ、あの架空の人物です」
「もう少し誤魔化してください。これじゃそのまますぎます」
薫の案外冷静な対応に桜子も輝美も驚いた。
「しかし、工藤さんって男性にするとこんな感じになるんですね」
くくくと薫が笑う。相手を薫にするのはハイリスクだったので、輝美と華が考えた苦肉の策が美香を相手にすることだった。腐っているので、性別はチェンジされているが。
輝美は薫がこんな軽いノリだったなら相手をそのままにしてもよかったなと思った。
笑い終えてから薫が冊子を輝美に手渡す。
「相手が私だった場合は名誉棄損で訴えますからそのつもりで」
ニコリと迫力満点の笑顔で言われて、輝美の肩がギクリと揺れた。手元に戻ってきた本を抱きしめて、輝美が硬い顔で固まっている。桜子は呆れたように薫を見た。
「こんな子供を脅かすなよ」
「本気ですよ」
薫は肩を竦めた。
「私は秋人の保護者をしていますが、まったく血縁のない他人です。おかしな噂を立てられると困ります。彼の保護者としての権利を剥奪されて、一緒に暮らせなくなってしまうかもしれないでしょ」
案外深刻な理由に輝美は顔面蒼白になった。自分たちの軽率な行いで二人の平穏な生活をぶち壊してしまう可能性があったのだ。
「す、すいませんでした」
慌てて頭を下げる。だから、あんなに美香や部長がダメだと言っていたのだと、ようやく気が付いた。
「気を付けていただけたらいいです。まあ、それにその手のネタにされるのは慣れてるので…ね」
薫の視線が遠くを見つめる。走馬灯のように中学校、高校、大学の生活が薫の脳裏を駆け巡った。
中学の時仲の良かったサッカー部のメンバーとのあれこれ、高校の時の若い担任とのあれこれ、一番酷いのが大学の時の親友とのあれこれだ。
なんと親友の彼女がその話を真に受けて刃傷沙汰になったのだ。あの時は本当に辛かった。何が辛いかって、親友が実は本当に自分に懸想していたことが発覚したことが一番キツかった。
あの時は地獄だったなぁ、俺人間不信になったもんなぁ…と薫が思い返していると、何かを察したのか桜子が同情を目にたっぷり浮かべて薫の手を握ってくれた。
「強く生きろよ」
「たぶんすごく嫌な誤解をされている気がしますが、気持ちはありがたく受け取っておきます」
薫がため息をついてそう答える。
「えっと、佐藤さんだったかな。秋人には見せないように気を付けてね。あんまりされて楽しいもんじゃないからね」
薫がダメ押しすると、輝美が無言で何度も大きく頷くのだった。
「帰りましょうか。秋人も忙しそうだし」
「そうだな」
「最後にもう一回秋人の絵を見に行きましょう」
薫の言葉に桜子が頷く。しかし、秋人の絵の前には先着がいた。身なりのよい老紳士という風情である。いかにもオーダーメイドなスーツを見事に着こなした洒落者風の男性だった。
「おや、失礼。邪魔をしてしまいましたかな」
紳士が穏やかに薫に告げる。薫は首を振った。
「いえ、私たちはさっき沢山見たので」
どうせなら身内以外に見てもらった方がいいだろうという薫の配慮だったが、紳士はにこりと笑った。
「粗削りですがいい絵ですな」
「私は絵についてはさっぱりなんですが、上手いですか?」
薫が尋ねると紳士は大きく破顔した。
「いやあ、こんな所でこんな逸材に出会えるとは思ってもみませんでした。今日は別の者を見に来たつもりだったのですが、来た甲斐がありました」
そんなやり取りをしている三人に背後から、顧問の田辺の声がかかった。
「岩井教授!すいません。バタバタしておりましてごあいさつもせず。おや、神崎先生お久しぶりです。それと…?」
田辺は薫の横に立っている長身の女性の顔を見てものすごい違和感を覚えた。すごく知っている顔なのに、今一つ定かではないという感じだ。
「お久しぶりです。先生」
チラリと桜子が眼鏡をずらす。
「ひっ」
田辺が桜子に気が付いて悲鳴を上げそうになり、慌てて己の口元を抑えた。
「今日はお忍びなので、ナイショにしててくださいね」
薫が言うと田辺はコクコクと大きく頷いた。
岩井教授は田辺の大学の教授で、ここ数年は部長の柏崎の作品を見に来ているのだ。
「やはり、如月に目を付けましたか」
きらーんと田辺の瞳が光る。
「まだ1年生ですし、油はなんと4月から始めたばかりでして、基礎ができておりませんがセンスが抜群なんですよ」
田辺が自慢げに岩井教授に説明している。
「素直ないい筆じゃないか」
「そうでしょう!」
へーそうなんだーという顔で美術音痴二人がふむふむと頷いている。
「ぜひ、大学の推薦を!」
と田辺が言い出したタイミングで薫がストップをかけた。
「田辺先生、進路は秋人が決めます。勝手に決められても困ります」
保護者兼弁護士モードに切り替えた薫に、田辺は一瞬言葉に詰まる。
「しかしですね、神崎先生。如月は才能がありますよ。今から磨けば将来はきっと一角の画家になれます」
田辺が力説する。
「いいですか、画業で生活していける才能の持ち主はほんの一握りです。そしておそらく如月にはその才能があります。岩井教授は帝都美術大学の主任教授で、絵画の世界でこれ以上の伝手はありません。如月の将来を考えたら真面目に今から進路を決めるべきです」
しかし、そんな田辺の意見など薫にはそよ風にも等しかった。
「私は、秋人が画家になりたいと言えば全力で応援します。しかしそれは、 探索者(シーカー) になりたいでも、野球選手になりたいでも、医者になりたいでも、弁護士になりたいでも、パイロットになりたいでも、料理人になりたいでも同じことです。秋人がやりたいことをやれるように支えるのが私の務めです。彼の意思を無視して進めることは認めません」
きっぱりと言い切る薫に、田辺は激高した。
「これほどの才能を無駄にするのは神への冒涜だ。僕らのように画業で食べて行きたくても諦める者だって多いんだ」
田辺の言葉に、しかし薫は揺らがない。
「それは、あなたの意見であって秋人の意見ではない。まだあと2年高校生活がありますので、ゆっくり考えてほしいと思っております」
薫の言葉に田辺がなお反撃しようとしたが、岩井教授が止めた。
「よしなさい。こちらの方の言う通りだ。本人にいくら才能があってもやる気がなければ枯れてしまうばかりだ。」
教授は夢見るように微笑んで告げた。
「せっかくの美しい才能だ。上手に導くのも教師の役割の一つだろう」
「…はい」
渋々の体で田辺は頷いた。岩井はにこやかに笑って薫を見つめる。薫は困った顔でそんな二人の様子を見つめていた。