作品タイトル不明
第147話 王太子テオドール ◆マリウッツ視点
「兄上……」
護衛も連れずに部屋に忍び込んできたのは、実の兄であり、ドラグア王国の王太子であるテオドールだった。
「なんの御用でしょう」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
今この国にいる者は、皆敵だと思ったほうがいい。
例えそれが、幼い頃唯一俺自身を見てくれていた兄だとしても、だ。
兄上は手に持っていたランプに火を灯すと、足元に置いて俺の対面に腰を下ろした。
俺と同じ濃紺の髪は腰まで伸びていて、座ったことで床に毛先が放射状に広がっている。ランプの光では分かりづらいが、その瞳は俺より少し淡いアメジスト色をしている。
だが、俺のキツい眼差しと違い、兄上の目元は穏やかでいつも微笑を携えている。
ランプの光に浮かび上がった表情は、幼い頃に見た兄上の顔とそう変わらなかった。
だがやはり、十年以上の月日が経っているため、かつてのあどけなさは無くなり、精悍な顔つきになっている。
そんな兄上は、警戒心を顕にする俺を前に困ったような笑みを浮かべながら、懐から包みを取り出した。
「昨日から何も食べていないだろう。パンだ。少しでも腹に入れておくといい」
開かれた包みには、丸いパンが二つ入っていた。
この状況で食べ物を口にするのは危険だ。
俺がそう考えていることを見据えてか、兄上はそれぞれのパンをちぎって口に放り込んだ。
「毒は盛られていないさ。とりあえず渡しておくから、俺を信頼できたら食べるといい」
半ば強引に押し付けられ、仕方なく受け取る。手枷をつけられているので、受け取ったままの格好で兄上の目をまっすぐに見る。
碌でもない王族の中でも、兄上だけは話が通じる人物だ。それが幼い頃の俺の評価である。
すぐに信頼することはできないが、せっかくわざわざ顔を出してくれたのだ、何か情報が得られるかもしれない。
「突然連れ戻すことになってしまい、すまなかった」
「……事情は」
深く頭を下げる兄上であるが、詫びの言葉を聞く時間は無駄だと判断し、端的に用件を尋ねる。
「お前は相変わらずだな」
兄上はどこか懐かしげな、そして寂しげな表情を浮かべた。
そして、ふう、と息を吐くと、兄上の雰囲気が変わった。いつもの穏やかな笑みは消え去り、神妙な顔持ちをしていてピリッとした緊張感が走る。
「マリウッツ。お前を連れ戻したのは陛下のご指示だ」
「……父上の」
「ああ。この国は長らく鎖国状態だが、決まった商人からは物を仕入れている。商船の添乗員が大陸随一の冒険者の噂話をしていてな。それがお前だったというわけだ。偶然その日商船の対応をしていたのがお前を知る者でな。添乗員が語る特徴や名前、そして年齢的に俺たちの知るマリウッツその人だろうと判断し、陛下のお耳に入れたというわけだ」
「……チッ」
ドラグア王国は自分の国以外にさして興味はなく、島に閉じこもる国民性だからと油断していた。
俺は あ(・) の(・) 日(・) 、死んだとして処理されたはず。生存している可能性も捨てきられていなかったというわけか。
「陛下は報告を受け、噂の人物はお前だと判断した。そしてお前をこの国に連れ戻すために、ドーラン王国の王都に向けて刺客を放ったのだ」
「あれからもう十年以上が経つ。どうして今になって」
「状況が変わったからだよ。ドラグアは今も竜信仰の厚い国だ。お前が忌み嫌っていたことも、表立っては行ってはいないが……暗黙のうちに続けられてきた」
兄上の言葉を受け、ギリッと拳を握りしめた。
兄上も淡々と述べているが、その目には深い憎悪の色が滲んでいて、瞳に映ったランプの光がゆらりと昏く揺れていた。
ドラグア王国は竜を神のように崇めている。供物を捧げることを厭わないほどに。
長く、この国は竜の祭壇に贄を捧げてきた。――生きた人間だ。
贄に選ばれることは光栄なことだと幼い頃から教え込まれる。国の繁栄のため、神の肥やしとなることを誇らしいことだと教育される。実際は選ばれた家には多額の報奨金が支払われるのだが、それは贄を捧げた家しか知るところではない。
大抵は女子供が贄として選ばれる。骨ばった筋肉質な大人の男より、血肉がうまいとされるからだ。誰かが竜から感想を聞いたわけでもなかろうに、そうした考えが古くからある。
実に馬鹿らしい話だ。この考えのせいで、幼い命が無作為に摘まれてきたかと思うと虫唾が走る。
「マリウッツ、お前ならもう分かっているだろう。この国は瘴気に満ちている」
兄上の言う通り、この国に入ってからと言うもの、ピリピリと肌を刺すような不快感が付き纏っている。恐らく漏れ出た瘴気が空気中に充満しているのだろうとは予想していたが、想像よりも事態は深刻のようだ。
「大昔、この島は幾種ものドラゴンが繁栄し、人間はその恩恵に預かり国家が栄えた。だが、近年は一匹のドラゴンが覇権を握るようになり、他のドラゴンは姿を晦ませてしまった。我が国を見限り、海を渡ったものもいるだろう。もしかすると、すでにあいつにやられて命を落としているものもいるかもしれない」
「あいつ?」
まるで相手を知ったような口ぶりに、思わず眉根を寄せてしまう。
「ああ。今、陛下と王妃殿下が御機嫌取りに躍起になっているドラゴン――黒竜だよ」
「なっ! あれは伝承の中でのみ存在するものでは?」
その名を聞き、背筋がブワッと逆立った。思わず身を乗り出し、兄上に食ってかかってしまう。
「ああ、そう言われてきた。だが、実際に存在するのだ。竜の谷の奥深くにな」
――竜の谷。
その名を聞いて、幼い頃の悍ましい記憶が蘇る。全身の血の気が引くような、恐怖と憎悪に身体が支配されたように錯覚する。
「黒竜とは通称であり、正式にはダークドラゴンという。ドラゴンは崇高な存在と言われているが、ダークドラゴンは――闇に堕ちたドラゴン、というわけだ。かつては竜信仰の象徴にふさわしく気高きドラゴンだったのかもしれない。長きに渡りこの国に満ちた悪意や常識の歪み、そうした異様な雰囲気がやつを産んだのだろう。我が国は今、その黒竜の脅威に脅かされている。竜の谷を中心に瘴気が満ち、国民にも体調不良者が続出している。年に一度の贄は現在、月に一度の頻度で捧げられている。このままでは、この国から女子供がいなくなってしまうのではと危惧されるほどだ。人目につく場所はどうにか管理をしているが、すでに森は枯れ、水も汚染が始まっている。古い伝承を信じる国民たちは今、王家にこう嘆願しているのだよ……『王家の血を捧げよ』と」
「っ!」
兄上の言葉を受け、今になって俺が呼び戻された理由にようやく行き着いた。
かつての教育係であった男が、ああまで俺に縋り付いて凶行に及んだ理由も。
「――つまり、俺は贄として黒竜に捧げられるというわけか」
「……陛下はそのつもりでお前を呼び戻した。お前がいなくなってから、王位を継げるものは俺しかいなかったからな。自分たちの身を捧げる考えなど微塵もない方々だ。誰の犠牲のもとに生き延びるか。それしか考えていない愚かな王だ。十三年前の目論見を、今度こそ成し遂げようとしているんだよ」
兄上の目は、ただ真っ直ぐだった。
だからこそ、言わんとしていることが分かってしまった。
理解したと同時に、カッと怒りに血が湧く。
――やはり、あれは父の差金だったのか。