軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

27.二人だけの夜

燭台の炎が揺れている。

もう何度目かわからない欠伸を噛み殺しながら、エレノーラは羽根ペンを走らせていた。目の奥が重い。指先の感覚が鈍くなっている。

クラウスの執務室は紙の山で埋もれていた。

「魔力パターンの照合記録、こちらで最後です」

クラウスが差し出した書類を受け取る。羊皮紙の束が手の中でずしりと重い。

「ありがとうございます。これで長老の証言と突き合わせれば——」

言葉の途中で、視界がぐらりと傾いた。

(……だめだ。集中力が、もう)

壁の時計を見上げる。午前三時を回っていた。

昨日の昼過ぎからもう十時間以上、二人で証拠の最終確認を続けている。明日——いや、もう今日だ——大神殿での再審に提出する書類を、一点の曇りもなく仕上げなければならない。

「エレノーラ嬢」

クラウスの声に顔を上げた。

銀灰色の髪が燭台の光を受けて淡く輝いている。銀縁の眼鏡の奥の瞳は、十時間前と変わらず冷静だった。ただ——その目の下に、薄い影が落ちていることにエレノーラは気づいていた。

「外交文書の写しは終わりましたか」

「あと二枚ですわ。もう少しで——」

ペンを握り直す。指が強張っていた。インク壺に浸した先端が、かすかに震えている。

「——少し、休んでください」

クラウスが静かに言った。

「大丈夫ですわ。あと少し——」

「外交文書の写しは私が引き継ぎます。あなたの字は一時間前から崩れている」

反論しようとして、手元の書類に目を落とした。

確かに、最後の数行が読めないほど乱れていた。

「……あと少しだけ。本当に、あと少しだけですから」

それが最後に口にした言葉だったと思う。

次の瞬間——あるいは、数分後だったのかもしれない。エレノーラの意識は、静かに沈んでいった。

クラウスが羽根ペンを止めたのは、隣から規則正しい寝息が聞こえてきた時だった。

視線を向ける。

エレノーラが机に突っ伏していた。

右手にはまだペンが握られている。左手は書きかけの書類の上に投げ出され、深い赤みがかった茶髪が紙の上に広がっていた。

クラウスはしばらく、その寝顔を見ていた。

起こすべきだった。机の上では体を痛める。少なくとも長椅子に移るよう促すべきだった。

だが——そうしなかった。

静かに椅子から立ち上がる。

壁にかけてあった濃紺の外套を手に取り、エレノーラの肩にかけようと近づいた。

手が、止まった。

燭台の灯りが、エレノーラの横顔を照らしていた。

長い睫毛が頬に影を落としている。唇がわずかに開いていて、小さな寝息が漏れている。紙の上に広がった茶髪が、炎の光を受けて琥珀色に透けていた。

令嬢の仮面も復讐者の覚悟も、全てが取り払われた——ただの十七歳の寝顔だった。

クラウスの指先が、頬にかかった髪に伸びた。

触れる寸前で——止まった。

細い銀縁の眼鏡の奥で、紺色の瞳がかすかに揺れた。

指を引く。

代わりに、上着をそっとエレノーラの肩にかけた。濃紺の布が小さな肩を覆う。エレノーラが微かに身じろぎして、上着の襟元に頬を寄せた。

クラウスは一歩下がり、自分の椅子に戻った。

外交文書の写しを手に取る。エレノーラが書きかけた続きを、同じ筆跡で書き足していく。

燭台の炎が揺れた。室内に落ちるのは、ペンが紙を走る音だけだった。

どれほどの時間が経ったのか。

エレノーラの意識が、ゆるやかに浮上した。

最初に感じたのは、温もりだった。

肩にかかっている布の感触。自分のものではない匂い——インクと、紙と、かすかに紅茶の残り香。

(……これ、は)

薄く目を開けた。

まず視界に入ったのは、自分の肩を覆う濃紺の上着だった。

クラウスのものだ。何度も作戦会議の時に見ていた、あの外套。

心臓が小さく跳ねた。顔を動かさないまま、視線だけを横にずらした。

クラウスが、机に向かっていた。

燭台の灯りが、その横顔を照らしている。銀灰色の髪。端正な鼻梁。眼鏡のレンズに炎の光が小さく映り込んでいる。細い唇が一文字に結ばれ、紺色の瞳が書類の文字を追っている。

淡い炎に照らされた横顔は、どこか絵画のようだった。

疲労の影が滲んでいるのに、背筋は真っ直ぐに伸びている。外套を脱いだ肩が、いつもより少し細く見えた。

(上着、かけてくれたんだ)

わかっていた。自分が眠ってしまったこと。この人がそれを咎めず、黙って上着をかけてくれたこと。そして——自分が目を覚ますまで、隣で仕事を続けてくれていたこと。

ペンが紙を走る音が聞こえる。

規則正しい、静かな音。

エレノーラはその音を聞きながら、燭台に照らされたクラウスの横顔を見つめていた。

(ああ——)

唐突に、理解した。

理解ではなかった。もっと深い場所で、もっと根源的な何かが——すとん、と落ちた。

(わたしは、この人が好きだ)

自分でも認めずにきた感情。回廊で胸を締めつけた熱。紅茶が飲めなくなることが怖かった理由。月夜のバルコニーで言葉を失った夜。「いてくれなければ困る」と言ったあの午後。

全部——全部、これだった。

好きだ。

この人が。

燭台の灯りに浮かぶ横顔が。ペンを走らせる細い指が。感情を見せない紺色の瞳の奥に、時折ちらりと覗く温度が。完璧な紅茶を淹れる不器用な優しさが。

好きだ。どうしようもなく。

(——でも)

エレノーラは目を閉じた。

今は、言えない。

明日、大神殿で全てを終わらせなければならない。聖女の仮面を剥がし、隣国との繋がりを暴き、前世で自分を殺した毒の証拠を突きつける。

それが終わるまで——この感情に溺れるわけにはいかない。

溺れてしまったら、足元が揺らぐ。揺らいだら、負ける。負けたら——また、あの未来に戻る。

(だから今は、しまっておく。この気持ちは——まだ)

上着の温もりが、肩を包んでいた。

クラウスのペンが紙を走る音が、子守唄のように響いている。

エレノーラは目を閉じたまま、もう一度だけ——心の中で呟いた。

(好きだよ、クラウス)

仮面も、敬語も、令嬢の矜持も全て脱ぎ捨てた、ただの十七歳の声で。

そしてもう一度、眠りに落ちた。

窓の外が白み始めていた。

鳥の声がかすかに聞こえる。朝が来たのだ。

エレノーラはゆっくりと身を起こした。首が少し痛い。机の上に突っ伏して眠った代償。

肩から滑り落ちそうになった上着を、反射的に押さえた。

——濃紺の外套。

(夢じゃ、なかった)

向かいの椅子で、クラウスが書類に目を落としていた。上着のない白いシャツ姿。朝の冷気の中で、その姿がひどく寒そうに見えた。

外交文書の写しが、全て完成していた。エレノーラが書きかけたところから、寸分の狂いもない筆跡で仕上げられている。

(全部、一人でやってくれたんだ。寒かったろうに、上着まで……)

胸の奥が、きゅっと痛んだ。

昨夜の自覚が——あの感情が——朝の光の中でも消えていないことを、エレノーラは知った。

知った上で、仮面を被った。

「おはようございます、クラウス様」

穏やかな声。完璧な令嬢の微笑み。昨夜の全てを知らない顔。

クラウスが顔を上げた。

「——おはようございます」

いつもと同じ声。いつもと同じ無表情。

ただ、ほんの一瞬——クラウスの視線がエレノーラの肩にかかった上着に触れ、そして逸れた。

エレノーラも、目を逸らした。

机の上の書類に視線を落とす。完璧に揃えられた証拠の束。今日、これを持って大神殿に立つ。

「書類は全て整いました。あとは——」

「ええ、存じておりますわ」

静かに、立ち上がった。

上着をきちんと畳み、クラウスの椅子の背にかけた。布に残る自分の体温が消えていくのが、少しだけ惜しかった。

「参りましょう。——終わらせに」

エレノーラは扉に手をかけた。

振り返らなかった。振り返ったら、昨夜の自分が全部顔に出てしまう気がしたから。

背後で、クラウスが上着を手に取る衣擦れの音がした。

何も言わなかった。

二人は並んで執務室を出た。肩が触れそうで触れない、いつもの距離。

朝の光が廊下に差し込んでいた。長い夜が、終わろうとしていた。