軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

19.仮面舞踏会の罠

千の灯火が、夜を昼に変えていた。

王宮の大舞踏場。天井から吊るされた七つのシャンデリアが、水晶の雫を通して虹色の光を撒き散らしている。仮面をつけた貴族たちが渦を巻くように踊り、弦楽団の旋律が壁という壁に反響していた。

仮面舞踏会。前世の記憶にない催し。

エレノーラは深紅のドレスに銀の仮面をつけ、会場の端に立っていた。仮面の下で、琥珀色の瞳が忙しなく動いている。

(知らない夜だ。台本にない場面。何が起きるかわからない)

不安は、もう慣れた。未来が変わり始めてからずっと、この感覚を抱えて戦っている。

「お嬢様、お飲み物を」

マリアが差し出したグラスを受け取った。

「クラウス様はいらしてるの?」

「宰相府の方々は東翼にいらっしゃるとのことです」

(今夜は一人か)

グラスに口をつけた。シャンパンの泡が甘く弾けた。

舞踏会が始まって一時間ほど経った頃だった。

「——踊っていただけませんか、お嬢様」

黒い仮面の男が、手を差し出した。

仮面の下から覗く金の髪。碧い瞳。声を聞いた瞬間、エレノーラの背筋に冷たいものが走った。

第二王子、アレクシス。

「殿下」

「おや、わかりましたか。仮面の意味がありませんね」

笑っている。柔らかな笑み。大茶会の後の怒りが、嘘のように消えている。

(——おかしい。この男が穏やかな顔をするのは、何かを企んでいる時だけだ)

だが断れない。仮面舞踏会で王子の誘いを拒否すれば、それだけで醜聞になる。

「光栄ですわ、殿下」

差し出された手を取った。

アレクシスの手は大きく、指先が冷たかった。

ワルツが始まる。回転。ステップ。仮面越しの碧い瞳が、じっとこちらを見つめている。

「最近、ずいぶんとお忙しいようですね」

踊りながら、アレクシスが囁いた。

「聖女を貶め、貴族を懐柔し——兄上にまで手を伸ばしたとか」

エレノーラの指が、一瞬だけ強張った。

(図書室のことを知っている——?)

「何のことでしょう。わたくしは本を読んでいただけですわ」

「ふふ。相変わらずだ」

曲が終わりに近づく。アレクシスがエレノーラの腰に回した手に、わずかに力がこもった。

「少し話がしたい。——静かな場所で」

「殿下、それは」

「拒否できる立場ではないでしょう? エレノーラ」

低い声だった。仮面の下の碧い瞳から、穏やかさが消えている。

曲が終わった。拍手の中、アレクシスがエレノーラの手を引いた。有無を言わさぬ力で。

周囲の貴族は仮面越しに談笑している。王子が令嬢を連れ出す。誰も気に留めなかった。

(まずい——でも、ここで騒げば余計に目立つ)

廊下に出た。舞踏場の喧騒が遠ざかり、灯りが少なくなる。

アレクシスは慣れた足取りで一つの扉の前に立ち止まった。

「ここだ」

扉を開ける。小さな応接室だった。ソファと小卓が置かれただけの、簡素な部屋。窓はない。

「すぐに人を呼んでくるから、少し待っていてくれ」

声が柔らか。妙に優しい。前世で何度も聞いた――嘘をつく前の声だった。

(――何かがおかしい)

けれど廊下の暗がりで立ち止まることもできない。王子に連れ出された先で一人廊下を彷徨いていたなどと噂されれば、それこそ厄介だ。

エレノーラは部屋に足を踏み入れた。

「すぐ戻る」

アレクシスはそう言って、踵を返した。足音が廊下に遠ざかっていく。

一人になった。燭台の灯りが壁に揺れている。窓のない部屋。扉の向こうの薄暗い廊下。

(――早く出よう)

嫌な予感がした。理屈ではなく、前世で裏切られた体が覚えている感覚だ。

扉に向かって一歩踏み出した――その時。

廊下側から、別の足音が近づいてきた。

扉が開いた。

入ってきたのは――アレクシスではなかった。

見知らぬ男だった。仮面を外した顔は若い。二十代半ばの、整った容貌の貴族。エレノーラの記憶にない顔。

「――どなた」

「やあ。お待たせしました、エレノーラ嬢」

馴れ馴れしい声。まるで約束があったかのような口ぶり。

背後で――扉が閉まった。

重い音。鍵がかかる金属の響き。外側から。

血の気が引いた。

(嵌められた――!)

全てが繋がった。アレクシスが自分をここに連れてきたのは「話をするため」ではない。この男と二人きりにするためだ。

婚約者がいる令嬢が、仮面舞踏会の夜に見知らぬ男と密室にいる。

「大人しくしていた方がいい。もうすぐ客が来る」

男が一人、近づいた。唇の端が歪んでいる。

「お前が何を企んでいるか知らないが――不貞の烙印を押された令嬢の言葉を、信じる者はいない」

エレノーラの体が震えた。恐怖と、それ以上に——自分の無力さへの怒り。

(前世にない罠だ。答えを知らない。対処法がない——)

記憶が一瞬蘇る。冷たい床。体に回る毒。指先から消えていく感覚。あの時も——何もできなかった。

膝が震えた。

男がさらに一歩、距離を詰めた。

エレノーラは後ずさった。背中がソファの縁に当たった。逃げ場がない。

——扉が、開いた。

鍵がかかっていたはずの扉が。外側から、静かに、確実に。

廊下から流れ込む灯りの中に、一人の男が立っていた。

銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。長身の影が床に長く伸びている。

クラウス・フォン・ジークムントの紺色の瞳が、部屋の中を一瞬で把握した。怯えるエレノーラ。距離を詰めていた見知らぬ男。

「――動くな」

その声は、これまでエレノーラが聞いたどの瞬間よりも冷たかった。

氷ではない。鋼だ。折れも曲がりもしない、研ぎ澄まされた刃の声。

「この部屋で、何をされているのですか」

男の顔から笑みが消えた。

「誰だ――」

「宰相補佐官クラウス・フォン・ジークムントです」

クラウスが一歩、部屋に入った。紺色の瞳に感情の揺らぎはない。だからこそ、奥に宿る怒りの深さが際立った。

「宰相府の護衛が二人、廊下に控えています。この部屋に出入りした全ての人間は、既に記録されている」

男の顔が蒼白に変わった。

「エレノーラ嬢」

声音が変わった。鋼から、静かな温もりに。

「怪我は」

「……ありませんわ」

声が震えていた。情けないと思った。だが止められなかった。

クラウスは一つ頷き、再び男に向き直った。

「名を」

「……ディートリヒ・フォン——」

「ブレンナー子爵家の三男ですね。第二王子殿下の側近として、最近頻繁に王宮に出入りしている」

男——ディートリヒの目が見開かれた。調べがついている。最初から。

「第二王子殿下がハーゼンベルク令嬢をこの部屋に誘導し、直後にあなたが入室し、外から施錠された。一連の経緯は全て、護衛の目が押さえています」

ディートリヒの膝から力が抜けた。

「俺は——殿下に言われただけで——」

「結構。詳しい事情は後ほど」

クラウスの視線が廊下の奥に向いた。

「——そして」

廊下の暗がり。柱の陰に、金の髪が見えていた。

アレクシスが立っていた。「証人」となる貴族を数名連れて戻ってきたところだったのだ。連れてきた男たちが、クラウスの姿を見て足を止めている。

「第二王子殿下」

クラウスの声は淡々としていた。

「婚約者の令嬢を別の男と密室に閉じ込め、不貞の現場を捏造する。——これが王族のなさることですか」

アレクシスの顔が凍りついた。

「ジークムント……なぜ——」

「なぜ知っている、とお聞きですか」

「殿下が仮面舞踏会の夜にブレンナー家の三男と接触した時点で、不審な動きとして報告が上がっておりました。あとは——状況を追っただけです」

そしてクラウスは、アレクシスの背後に立つ貴族たちに視線を向けた。

「証人として連れてこられた方々にも、よくご覧いただけたかと思います。令嬢を罠に嵌めようとしていたのが誰か——真実は、明らかでしょう」

貴族たちの顔が強張っていた。彼らが目撃したのは「不貞の現場」ではなく——「王子の陰謀が暴かれた現場」だった。

アレクシスの碧い瞳に、怒りと屈辱と恐怖が入り混じっている。

「……覚えていろ」

それだけ吐き捨てて、アレクシスは闇の中に消えていった。ディートリヒも青い顔のまま、逃げるように後を追った。

静寂が落ちた。

遠くから、舞踏場の音楽がかすかに聞こえる。華やかなワルツの旋律。まるで別の世界の出来事のようだった。

エレノーラの膝から、力が抜けた。

「——っ」

崩れ落ちそうになった体を、腕が支えた。

クラウスだった。銀の仮面をそっと外してくれる。仮面の下のエレノーラの顔は蒼白で、琥珀色の瞳が揺れていた。

「……すみません。足に力が」

「座ってください」

ソファに座らされた。

「大丈夫です。もう大丈夫ですから」

「また嘘をつく」

「……嘘が下手なのは、ご存知でしょう」

小さく笑おうとした。だが唇が震えて、うまく笑えなかった。

クラウスは何も言わず、上着を脱いでエレノーラの肩にかけた。温かかった。紅茶とインクの、かすかな匂い。

エレノーラは深く息を吐き、上着の襟を無意識に握り締めた。

「クラウス様」

「はい」

「なぜ——ここがわかったのですか」

沈黙が落ちた。

クラウスは眼鏡を押し上げ、窓のない壁に目を向けた。

「……第二王子が仮面舞踏会で不審な動きをしていると、情報が入りました」

「それだけ?」

「あなたが会場から消えた時刻と、殿下が消えた時刻が一致した。——あとは、廊下を辿っただけです」

合理的な説明だった。筋は通っている。

だがエレノーラは気づいていた。

(嘘だ。私が会場から消えた時刻を知っている——つまり、ずっと見ていた)

「クラウス様」

「何ですか」

「……あなた、わたくしを見張っていたのでしょう」

クラウスは答えない。

ただ、眼鏡の奥の紺色の瞳がわずかに揺れた。

「見張る、というのは語弊があります」

長い間を置いて、クラウスが口を開いた。

「警護です」

「同じことですわ」

「違います。——見張りは疑いから生まれる。警護は」

そこで言葉が途切れた。

エレノーラは上着の襟を握ったまま、クラウスを見上げた。仮面を外した素顔で。震えの残る瞳で。

「警護は?」

クラウスは答えなかった。

ただ一度だけ、ごく小さな声で——

「……帰りましょう。マリアが心配している」

差し出された手を取った。

アレクシスの冷たい手とは何もかもが違う。温かくて、確かで、この手が離されることはないと——なぜか、そう思えた。

廊下に出ると、仮面舞踏会の音楽はまだ続いていた。何事もなかったかのように。

エレノーラは歩きながら、上着の温もりを感じていた。

(この人は偶然ではなく、ここにいた。私を——守るために)

その事実が、冷え切った体の奥に小さな火を灯していた。