軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

13.夜の書庫

宰相府の資料室は、夜になると別の顔を見せる。

燭台の灯りが書架の背表紙を照らし、古い紙とインクの匂いが静かに満ちていた。

「これが過去五年分の王室直轄領の収支報告書です」

クラウスが革装丁の帳簿を三冊、テーブルに積み上げた。どれも分厚い。

「宰相府の権限で閲覧許可を取りました。通常、外部の者が目にすることはできない資料です」

「……ありがとうございます」

エレノーラは手袋を外し、最初の一冊を開いた。

(これだ。前の人生では、絶対に届かなかった場所)

一人では、公爵家の資料室に忍び込んで帳簿の写しを取るのが精一杯だった。王室直轄領の収支など、夢のまた夢。

クラウスと組んだからこそ、ここにいる。

「では、始めましょう」

クラウスが向かいの椅子に座り、自分の帳簿を開いた。

二人の間に沈黙が降りる。ページをめくる音と、羽根ペンが紙を走る音だけが、資料室に響いた。

一時間が過ぎた。

「クラウス様、こちらを」

エレノーラが帳簿の一ページを指差した。

「三年前の北部領の修繕費。計上額が実際の工事記録と合いません。わたくしが以前写した帳簿では、ここに差額がありました」

「見せてください」

クラウスが身を乗り出した。

二人の顔が近づく。燭台の灯りの中、銀灰色の髪がエレノーラの視界をかすめた。

(——近い)

「なるほど。差額は約二千金貨。修繕費として計上されているが、実際の工事費はその半額以下」

クラウスの指が数字をなぞる。長い指だった。

「差額の行き先を追えば、横領の流れが見える」

「ええ。これを三年分積み上げれば、偶然では説明できない金額になりますわ」

クラウスが顔を上げた。至近距離で目が合う。

エレノーラは反射的に身を引いた。

「……失礼」

「いえ」

(顔が熱い。集中しなさい、エレノーラ)

二時間目。三冊目の帳簿に入った。

クラウスが新しい紅茶を淹れた。資料室の片隅に、小さな湯沸かしが置いてある。

「ここにも常備してらっしゃるのですね」

「夜の作業が多いので」

温かいカップを受け取る。指先の疲れが少し和らいだ。

向かい合って紅茶を飲む。資料室の燭台が揺れて、二人の影が壁に伸びた。

「エレノーラ嬢」

「はい」

「あなたは一人で全てを抱え込む癖がある」

唐突だった。

エレノーラはカップを持ったまま、固まった。

「そうでしょうか」

「そうです。見ていればわかります」

クラウスは紅茶を一口飲み、続けた。

「大茶会の準備も、証拠集めも、侍女の懐柔も。すべて自分一人で計画し、実行している。今こうして二人で作業していても、先に全体像を把握しようとするのはいつもあなたの方だ」

「……それは、効率の問題ですわ」

「違う。信頼の問題です」

エレノーラは言葉に詰まった。

「前世で一人だったから、人に頼ることを知らない。違いますか」

図星だった。

この男は時々、こうして容赦なく核心を突いてくる。

「……否定はしませんわ」

「今は二人です。使えるものは使ってください。私を」

淡々とした口調だった。感情の起伏がほとんどない。

なのに——その言葉が、どれほど重いか。

「……肝に銘じますわ」

エレノーラは小さく微笑んで、帳簿に視線を戻した。

目の奥が少しだけ熱かったが、今度は泣かなかった。

三時間目。

最後の帳簿の終盤に差しかかった時、エレノーラの指が止まった。

「クラウス様」

「何か見つけましたか」

「これを」

エレノーラが指差したのは、帳簿の末尾近くに記された一連の支出だった。

「聖都教会への寄進金。年に四回、定期的に支払われています」

「教会への寄進は珍しくない」

「ええ。ですが、金額をご覧ください」

クラウスが帳簿を覗き込んだ。

眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。

「——多すぎる」

「通常の寄進金の八倍です。しかも、支出の名目が毎回異なります。『修繕費』『慈善基金』『祭事準備金』——」

「名目を分散させて、一件あたりの金額を目立たなくしている」

エレノーラは頷いた。

「そして、この支出が始まった時期——」

「二年前。聖女がこの国に現れた時期と一致する」

沈黙が落ちた。

エレノーラの頭の中で、歯車が噛み合う音がした。

前の人生では知らなかった。知りようがなかった。一人では、こんな場所の帳簿を見ることすらできなかったのだから。

「聖女への不明な資金の流れ、ですか」

クラウスが呟いた。紅茶のカップをゆっくりと置く。

「横領だけではない。第二王子は聖女に——あるいは聖女を通じて、どこかに金を流している」

「なぜ教会を経由するのでしょう」

「それを突き止める必要がある」

クラウスが羽根ペンを取り、白紙に数字を書き写し始めた。その横顔は、先ほどまでの穏やかさが消え、鋭い刃のようだった。

「エレノーラ嬢、これは横領より大きな話になるかもしれない」

「ええ、存じておりますわ」

時計が深夜零時を打った。

燭台の蝋燭が短くなり、二人の影が揺れている。

エレノーラは書き写した数字の列を見つめた。

横領の証拠は揃いつつある。けれど、その奥に——もう一つ、暗い扉が見えていた。

聖女セレスティアに流れる不明な資金。

その金は、一体どこへ消えているのか。