軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

12.想定外の変数

それは、五日後に起きた。

午前の社交サロンから戻ったマリアが、息を切らせて駆け込んできた。

その顔を見た瞬間、エレノーラの背筋が凍った。

「お嬢様——聖女が動きました」

「……話して」

「セレスティア様が第二王子殿下に泣きついたそうです。『エレノーラ様に陥れられた』と。殿下は激怒され——」

マリアが唇を噛んだ。

「——エレノーラ様の社交界追放を、王宮に進言なさるおつもりだと」

空気が、変わった。

(早い——早すぎる)

エレノーラは窓辺に立ったまま動けなかった。

前の人生の記憶を、必死で辿る。聖女がアレクシスに泣きつくのは、もっと後だったはずだ。大茶会の三ヶ月後、秋の舞踏会の直前——。

それが、五日で起きた。

「お嬢様?」

マリアの声が遠い。

エレノーラは自分の手を見下ろした。震えている。

(未来が変わった。クラウスが言った通り——道が書き換わっている)

前世の記憶はもう、信じられない。

三年分の「答え」を握っていたはずの手が、何も持っていないことに気づいた瞬間——恐怖が、喉元まで迫り上がってきた。

「マリア、少し一人にして」

「ですが——」

「お願い」

マリアが静かに下がった。

扉が閉まる音を聞いてから、エレノーラは椅子に崩れ落ちた。

窓の外では、庭師が薔薇の手入れをしている。

平和な午後の光景。何も変わらない日常。

なのに、エレノーラの体は震えが止まらなかった。

(——怖い)

認めたくなかった。でも、怖い。

未来を知っていることだけが、武器だった。知略も度胸も、すべて「結末を知っている」という確信の上に成り立っていた。

その土台が、崩れた。

不意に——記憶が蘇る。

冷たい床。

体中に回る毒の、焼けるような感覚。指先から感覚が消えていく。誰も来ない。誰も助けに来ない。天井の染みを数えながら、ああ、こうやって死ぬのか、と思った。

あの孤独。あの絶望。

「——っ」

エレノーラは自分の腕を抱いた。

爪が肌に食い込む。現実に繋ぎ止めるために。ここは三年前だ。まだ死んでいない。まだ、生きている。

でも——次に何が起きるか、もうわからない。

「失礼します」

ノックもなく、扉が開いた。

エレノーラは反射的に顔を上げ、微笑みを貼りつけようとした。令嬢の仮面を——。

クラウスだった。

銀灰色の髪。眼鏡の奥の紺色の瞳。その目が、一瞬でエレノーラの状態を読み取った。

「マリアから聞きました。聖女の動きが想定より——」

「大丈夫です」

声が裏返った。

自分でもわかるほど、酷い嘘だった。

クラウスは何も言わなかった。

扉を閉め、静かに近づいてきた。エレノーラの前に膝をつき——。

手を、握った。

冷たいエレノーラの指を、温かい手が包み込む。

力強くはない。ただ、確かに、そこにある温もり。

「……大丈夫です、と申しましたのに」

「大丈夫ではない顔をしている」

静かな声だった。責めるのでもなく、憐れむのでもなく。

エレノーラの目から、涙がこぼれた。

止められなかった。前の人生で死んだ時も泣かなかったのに。大茶会で聖女の嘘を暴いた時も、アレクシスに蔑まれた時も、平気な顔をしていたのに。

この手の温かさが——堰を壊した。

「……怖いのです」

絞り出した声は、令嬢のものではなかった。仮面の下の、十七歳の少女の声だった。

「未来が変わり始めています。わたくしの知識は、もう地図にならない。次に何が起きるかわからない——」

言葉が途切れた。

クラウスの手が、少しだけ強くなった。

「エレノーラ嬢」

「……はい」

「あなたは前世で、一人で戦った」

「……ええ」

「今は違う」

エレノーラは顔を上げた。

涙で滲んだ視界の中、クラウスの瞳がまっすぐこちらを見ていた。

「地図がなくなったのなら、二人で道を作ればいい。それだけのことです」

合理的な言葉だった。

感情を込めた励ましでも、甘い慰めでもない。ただ、論理的に正しいことを述べただけ。

それなのに——胸の奥が、どうしようもなく熱くなった。

「……ずるい方ですわね」

「何がですか」

「なんでもありません」

エレノーラは空いた手で涙を拭った。

握られた手は、離さなかった。離したくなかった。

「……社交界追放の件、対策を考えなければなりませんわね」

声がまだ少し震えていた。けれど、背筋を伸ばした。

「すでに三つほど手は打てます」

クラウスが立ち上がり、懐から折り畳んだ紙を取り出した。

「一つ目は私が。宰相府には王族の進言を差し戻す権限がある」

「……来る前にもう考えていたのですね」

「当然です。報告を聞いた時点で、あなたがここで震えていることは想定していました」

(この人は——本当に、ずるい)

エレノーラはようやく、小さく笑った。

泣いた直後の、不格好な笑顔だった。

クラウスの手が離れた。

指先に残る温もりを、エレノーラはそっと握り込んだ。

未来が変わり始めている。

もう「台本通り」ではない——けれど、隣に誰かがいるという事実が、思っていたよりもずっと、心強かった。