軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

近衛の娘

永禄三年(1560年) 十月中旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 飛鳥井基綱

”ホウッ”と毬が息を吐いた。憂鬱そうな表情をしている。

「如何なされました?」

「憂鬱なの」

「……」

いや、それは分かっている。分かっているから声を掛けたんだ。室町第を訪問するようになって今日で三度目だ。何時もは嬉しそうに迎えてくれるのだが今日は違う。さっきから溜息ばかりだ。

「畠山が降伏したでしょう?」

「そのように聞いておじゃります」

つい三日前の事だが高屋城に籠もる畠山高政が降伏した。高政は助命され紀伊へ逃げた。河内は、いや畿内は完全に三好の支配下にある。

「公方様は何時もの如くまた泣いたわ。自分を支えてくれる者がまた一人追い払われたって。そして幕臣達はそんな公方様を慰めるの。良くやるわよね、飽きないのかしら。私はもう見飽きたわ、うんざりよ」

思わず失笑しそうになって慌てて堪えた。俺が吹き出しそうになったのに気付いたのだろう。毬が笑い声を上げた。

「うんざりしていてもしょうがないわね」

「左様でおじゃりますな」

「笛の稽古をしましょうか?」

「そうですな、……いや、今日は庭を散策致しませぬか。庭の紅葉が綺麗に色付いておじゃりますぞ。気が晴れましょう」

屋内にばかり居るから気が塞ぐんだ。偶には散歩でもして気分転換だよ。そう思ったのだが毬がクスクスと笑い出した。

「新蔵人殿は意外に雅なのね」

「……」

意外にってちょっと酷くないか? 俺だって日本人だよ。もののあわれ、雅くらいは分かるさ。

「そうね、そうしましょう。……私、殿方と庭を散策するのって初めてよ」

燥ぐ声ではない。ポツンとした声だった。寂しさが口調に滲み出ている。どういう表情をして良いのか分からなかった。義輝の馬鹿、毬はお前の女房だぞ、散歩くらいしてやれ!

「打掛はお脱ぎになった方がよろしいでしょう。その代わりに小袖を何枚か羽織られる事をお勧めします。外は些か寒うおじゃります」

「ええ」

女官を呼び打掛を脱ぎ小袖を二枚羽織る。毬が”軽いわね”と言って笑った。屈託の無い笑顔だ。さっきの寂しさは何処にも無い。打掛を脱いで小袖を重ね着した毬は御台所には見えない。年若い美しい娘だ。履き物を用意して貰って俺が先に庭に降り毬の手を取って降りるのを支えた。毬が”うふふ”と笑った。

「私、凄く大事にされてる」

「御台所なのです。大事にされるのは当然でおじゃりましょう」

「そうでも無いわよ、ここではね」

「それは、……由々しき問題でおじゃりますな」

俺の答えに毬が声を上げて笑った。そして”そうね、由々しき問題よね”と笑いながら言う。

供は居ない、毬が無用だと断った。手を取ったまま庭を歩く。本当は離しても良いのだがどうにもそういう気分になれなかった。手を離せば毬は悲しむだろう。問題になるかな? まあ言い訳は足元が危ないので手を引いた。そんなところだな。少し歩くと紅葉が見えた。毬が足を止めた。俺も止める。

「綺麗ね」

「はい」

「……」

「近付きませぬか?」

毬が首を横に振った。

「此処で良いわ。遠くからの方が綺麗に見えるような気がする」

「……」

毬が”有り難う”と言って手を離した。

「残念だけど何時までも手を繋いでいるわけにも行かないわよね」

「……歩く時にはまた手を取りましょう。足元が危のうおじゃります」

「うん、……有り難う」

毬が紅葉を見ている。だが表情に蔭が有る。如何見ても紅葉を楽しんでいる表情ではない。ちょっと謎かけしてみようか?

「もみじ葉を 見つつ来りて 近づきぬ」

毬に視線を向けた。毬がクスッと笑う。

「今ひとたびの 逢う瀬待たなむ」

ふむ、『もみじ葉を 見つつ来りて 近づきぬ 今ひとたびの 逢う瀬待たなむ』か。紅葉を見ながら近付いてきた。もう一度逢えるまで散らないでくれという意味だよな。いや、逢うのを待っているという意味か? だとするとこの場合逢うのは誰だ? 紅葉? それとも俺? 毬はクスクス笑っている。 揶揄(からか) われたか。公家の娘は手強いわ。

「有難う、綺麗ね」

「はい」

「ねえ、なんで私は此処に居るのかしら?」

「……」

答えられなかった。毬は笑うのを止めぼんやりと紅葉を見ている。

「私は近衛の娘よ。宮中で影響力を振るおうとするなら役に立つ筈よね」

「左様でおじゃりますな」

「でも公方様はそれに興味が無いのよ。だから私に関心を持たない。気遣いをしない」

「……」

毬が俺を見て困ったような笑みを浮かべた。

「愛されていなくても良いの。必要とされているのなら我慢出来ると思うわ。私は役に立っている。私が居るから公方様の立場が良くなった。それが実感出来るのならね……」

「……慶寿院様のように、でおじゃりますか」

「ええ。でも……」

毬が視線を落とした。今度は地面を見ている。

「私ね、公方様に訊いたの。朝廷を如何思っているのかって」

「……公方は、何と?」

下を向いたまま毬が頬を歪めた。若い娘らしくない表情だ。

「どうでも良いんですって。”父上は権大納言、右近衛大将に任じられたが京を追われて無念の死を遂げた。武家に必要なのは官位ではない、力だ”。そう言っていたわ」

全くの間違いとは言えない。力が必要なのは事実だ。だが力だけでは天下を治める事は出来ないんだが……。父親の死、おそらくは憤死だがそれがトラウマになっているのだろう。

三好長慶も幼くして父親を失った。二人ともその影響は大きい。

「公方様は朝廷に関心を持たない。だから出仕もしない。年に一度有るか無いかよね。当然だけど朝廷における足利の影響力、存在感は弱いわ」

「……」

「だから公方様は従四位下、参議、左近衛権中将なのよ」

毬が俺を見た。分かるだろう? と言っている。溜息が出そうになった。

毬が何を言いたいのか分かる。従四位下、つまり三位になっていない、それは公卿では無いという事なのだ。義輝は御大葬、御大典を無視した。その所為で改元には関われなかった。帝は義輝を忌諱したのだ。義輝が従四位下、参議、左近衛権中将なのは義輝が昇進を望まなかった事も有るが朝廷も義輝を昇進させようとはしなかったからだ。そして義輝は京に殆ど居ない。京に戻っても出仕しない。存在感が無く全く頼りにならない。

義輝が頼りになる将軍なら朝廷の方から昇進を薦めただろう。そう、史実の信長のようにだ。実際義輝以前の将軍はその殆どが三位以上に昇進し武家の中では唯一公卿として認められている。武家の棟梁とは朝廷に認められてこそ武家の棟梁なのだという思いが朝廷にはある。義輝の父、義晴にはそれが有った。義晴も京をしばしば追われたが改元には積極的に関わった。逃亡先からも関与したのだ。その事は義晴が武家の棟梁である事の正当性の証明になった。

義輝はその辺りの認識が希薄なのだろう。力だけを欲している。だがその力も有るとは言えない……。毬から見れば義輝は武家の棟梁になろうと足掻いているだけの男だろう。何故自分を利用し朝廷を利用しないのかと歯痒い思いが有るに違いない。

「私、何のために御台所になったのかしら」

呟くような声だが悲鳴のように聞こえた。なりたくてなったのではない。だが義輝が毬を愛すれば違った筈だ。愛さなくても必要とすれば自分が御台所になった意義を実感出来たんだが……。春齢と同じだ。毬は自分が何のために御台所になったのか。その意義を見出せずに苦しんでいる。

「新蔵人殿に嫁ぎたかったな」

「……馬鹿な事を……」

語尾が弱かった。毬が何時ものように悪戯っぽく言ってくれれば撥ね付けられたんだが……。

「新蔵人殿なら私を十分に利用出来たでしょ? 近衛と飛鳥井の結び付きを強める事にもなったわ」

「……麿は女子を道具とは思っておりませぬ。ですから利用したりはしませぬ。第一、出世にも興味はおじゃりませぬぞ」

春齢を妻にと望んだのは出世が目的じゃ無い。帝の女婿になって出世しようなんて考えた事は無かった。養母に少しでも恩を返したかったからだ。それに春齢を尼寺に送りたくは無かった……。

「新蔵人殿も近衛の娘は必要無いか……」

「……」

「なら私を愛してくれた?」

毬が縋るような目で俺を見ている。

「……愛そうと努力したと思います」

”有り難う”と毬が小さい声で言った。

「帰ります。寒くなったわ」

「……」

「手を引いてくれるのでしょう?」

「はい」

毬の手を取った。そして歩く。後ろから啜り泣く声が聞こえた。振り返るな、前だけを見て歩け、ゆっくりと……。

永禄三年(1560年) 十月中旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 慶寿院

部屋に入ると飛鳥井新蔵人が頭を下げました。”頭を上げて下さい”と言って正面に座りました。新蔵人が頭を上げました。表情の硬さが気になります。

「無作法にも突然面会をお願いしたにも関わらずお許しを頂けました事、心からお礼申し上げまする」

「いえいえ、当然の事です。新蔵人殿には随分とお気遣いを頂いております。それで、今日は何を?」

問い掛けると新蔵人が”されば”と言いました。

「御台所の事でおじゃります。余り良くないとお見受け致しました」

「……」

「何故自分が御台所として此処に居るのか、その意味が分からず苦しんでおられます」

「……」

「自分の居場所を作れれば良いのでおじゃりますが公方は朝廷を無視しておじゃります。朝廷を利用する事で公方の権威を上げようとはしないのです。となれば近衛家は力の振るい所が無いという事になりましょう。つまり、御台所は自分の居場所を作れないという事になります。公方が近衛家に冷ややかなのも公方が朝廷を必要としていないからではおじゃりませぬか」

溜息が出ました。

「公方には武だけが征夷大将軍の武器ではないと言っているのですが……」

「公方が欲しているのは力だけです。三好を打ち払う強い力、そうではおじゃりませぬか」

また溜息が出ました。御大葬、御大典、改元と朝廷は義輝を無視しました。朝廷は息子を忌諱したのです。危険だと思いました。近衛と足利を結び付けそれによって朝廷の信頼を回復しようとしたのですが……。その効果も無く姪の毬は苦しんでいます。

「新蔵人殿、そなたが支えてはくれませぬか。太閤殿下がそなたに御台所を頼まれたのもその想いが有っての筈」

新蔵人が首を横に振りました。

「麿にはこの室町第で御台所の居場所を作る事は出来ませぬ。それが出来るのは公方だけにおじゃります」

それが出来れば……。私が息を吐くと新蔵人も息を吐きました。

「このままでは御台所は心を病みかねませぬ」

「……」

「御台所を近衛家にお戻しになっては如何でおじゃりましょう」

「離縁しろと?」

驚いて問うと新蔵人が首を横に振りました。

「いえ、名目は太閤殿下のお世話をするという事に。実際麿が見た限りでは寿殿お一人ではやはり大変なようでおじゃります」

「なるほど」

確かに、兄の世話をするのはおかしな話では有りません。皆も不審に思う事は無いでしょう。

「公方に話してみましょう」

控えていた女中に公方を呼ぶようにと命じました。女中がそそくさと立ち去ります。それを見届けた新蔵人が“慶寿院様”と話しかけてきました。

「公方には麿からお話しましょう」

「いえ、私が話します。近衛家から御台所をと望んだのは私ですから」

新蔵人が頷きました。

女中が戻ってきました。息子は直ぐに来るそうです。直ぐに足音が聞こえました。

「母上、私です。入りますぞ」

戸を開けて義輝が部屋に入ってきました。新蔵人が少し横に席をずらします。息子は新蔵人を不愉快そうに見ながら横に座りました。

「お呼びと伺いましたが?」

「ええ、太閤殿下のお世話の事です。新蔵人殿から聞いたのですが寿が随分と苦労しているのだとか」

「……」

「それで御台所を近衛に戻してはどうかという案が出たのです。そなたは如何思いますか?」

息子がチラッと隣に座る新蔵人を見ました。

「某は構いませぬ」

「では御台所には私から伝えましょう」

「お願いします。母上の御用はこの事でございますか?」

「ええ、そうです」

「では某は失礼します」

息子が立ち上がりました。踵を返して立ち去ろうとする息子に”公方”と新蔵人が声を掛けました。

「何時戻るのかとは問われないのでおじゃりますのか」

揶揄されたと思ったのでしょう。息子の顔が朱に染まりました。

「何時戻るのだ?」

「さて、……ざっと半年後では如何でおじゃりましょう。四月も終わり五月でおじゃりますな。暖かくなれば太閤殿下のお身体の具合も良くなるのではないかと」

「それで良い」

言い捨てるとそのまま息子は立ち去りました。

「半年とは随分長いのでは有りませぬか?」

問い掛けると新蔵人が顔を綻ばせました。

「畿内は落ち着きましたが関東はこれからでおじゃりましょう。落ち着くまで半年はかかると思います。それまではこの室町第も騒がしい事でおじゃりましょう」

「それで」

新蔵人が”はい”と頷きそして表情を改めました。

「やはり関心がおじゃりませぬな」

「……」

「如何なされます。このまま室町第に飾りとして置いておきますか?」

「……離縁した方が良いと?」

新蔵人は一つ息を吐きました。

「さあ、麿には分かりませぬな。……いずれ関白殿下が京にお戻りになられましょう。その時に御相談なされた方がよろしいかと思います」

「そうですね」

「太閤殿下にはあくまで寿殿を助けるためとお伝え致します」

「お願いします」

新蔵人がジッと私を見ました。

「公方は近衛を必要とはしていないようでおじゃりますな。それに貴女様にも隔意が有る様に見受けました。まあ麿が居たせいかもしれませぬが……。貴女様もこれから如何生きるか、今一度お考えになっては如何でおじゃりますか?」

「……」

「では麿はこれで」

新蔵人が立ち上がりました。そして”見送りは御無用に”と言って外に出ました。今一度考える、それは義輝に殉じるのかという事でしょう。私は母親です、息子を見放す事は出来ませぬ。ですが毬は……。