作品タイトル不明
知と情
永禄五年(一五六二年) 五月上旬 山城国葛野・愛宕郡 東洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井雅綱
「そうか、では戦も直に終わるか」
「はい」
頭中将が頷いた。
「ようやったの。良くこの京を守った。帝もお喜びでおじゃろう」
「畏れ入りまする」
頭中将が一礼した。表情には昂ぶりも安堵も無い。この孫を見ていると楽しいわ。
「京に公方が戻ってからが大変でおじゃるの。御台所は如何する? 離縁するのかな? 側室に子が出来たが……」
頭中将の表情が曇った。
「太閤殿下は離縁も仕方が無いとお考えのようでおじゃりますが御台所は離縁を望んでおじゃりませぬ。関白殿下が戻るまでは決まらぬのではないかと」
「離縁を望まぬ? 公方と御台所は不仲だと聞いたが……」
公方が一方的に嫌っているだけなのか?
「不仲でおじゃります。ですが離縁すれば慶寿院様を切り捨てる事になりましょう。どうもその辺りが……」
この孫にしては珍しく歯切れが悪いの。
「思い切れぬか」
頭中将が”はい”と頷いた。なるほど、厄介な事よ。
「それで、関白殿下は何時戻るのだ?」
頭中将が息を吐いた。
「何度か戻って欲しいと文を書いているのでおじゃりますが……」
こちらも歯切れが悪いわ。
「戻らぬか」
頭中将が”はい”と頷いた。
「関東制覇はもう無理でおじゃろう。こちらも思い切れぬか」
「そのようにおじゃります」
頭中将が沈んだ表情で息を吐いた。
京を離れてそろそろ三年になろう。現職の関白が三年も京を離れるのは異例の事よ。良く留守を守ったわ。でもそろそろ限界であろう。関白の不在が二条、万里小路の暗躍を許したと言っても過言では無い。連中は勅勘の処分を受けても未だ復権を目指していると聞く。それに公方も近衛を無視じゃ。何時までも関東で遊んでいるような状況ではないのだが……。
「なかなか思うようには行かぬの」
「はい」
近衛家というのは諦めが悪い家なのかもしれぬ。
「ところで、倅の権中納言に聞いたのだが寧仁様を寺に入れずに済む方法がおじゃるのか? 権中納言は目々からそなたが寧仁様が寺に入らずに済む方法を考えていると聞いたらしい。目々は春齢様から文を貰って喜んでいるようだが……」
「幾つか考えている事がおじゃります」
「幾つか? 帝にするというのではおじゃらぬのだな?」
問うと頭中将が”はい”と頷いた。
「しかしそんな方法がおじゃるのか?」
これまでどの皇子も寺に入った。寧仁様だけそれを避けられるとは思えぬが……。それくらいなら誠仁様を寺に追いやって寧仁様を帝にという方が可能性が有る。誠仁様には有力な後見は居らぬのだ。問い掛けても頭中将は無言だ。言いたくないのか? いや、言えぬのか? このままにすべきかとも思ったが目々を糠喜びさせるわけにもいかぬ。
「頭中将?」
再度問い掛けると頭中将が息を吐いた。
「他言は無用に願いまする」
「うむ」
「麿の養子に迎えようかと」
「!」
「春齢から帝へ是非にと願い出れば……」
溜息を吐いた。その手が有ったか……。西洞院大路の飛鳥井家ならば銭も有る。寧仁様が貧に窮する事も無い。
「なるほどの、不可能とは麿も思わぬ。そなたのこれまでの働きを思えば帝も否とは言うまい。しかしこの件、春齢様はご存じか?」
頭中将が”はい”と頷いた。
「では二人に子が出来たら? 養子に出すのか?」
「その事も話しました」
「……」
言葉が出ない。二人とも未だ十四歳だ。その二人がそんな事を話し合ったのか……。憐れと言うか、痛々しいと言うか……。
「他にも考えている事はおじゃりますが今は未だ話せませぬ。もう少し形が見えればお話し致しまする」
「分かった。その話が形になるのを待とう」
どういう話かは分からぬが若い二人に無理をさせぬ話で有って欲しいものよ。
「先ほどもお願い致しましたが他言は無用に願いまする。養母には知られたく有りませぬ」
「目々を苦しませたくないか」
頭中将が頷いた。
「そなたの気持ちは分かるがいずれは分かる事でおじゃろう」
「養子以外の方法が形になれば養母上を悲しませずに済みまする」
溜息が出た。
「分かった。麿は何も聞かなかった事にしよう」
頭中将が”有り難うございまする”と頭を下げた。
「麿はそなたの事を知勇に優れた男だと思っていた。だがむしろ情に厚い男でおじゃったか。どうやら見誤ったようでおじゃるの」
「……」
いかぬの、声が震えたわ、それに頭中将の姿がぼやける。腹に力を入れた。
「やはりそなたは麿の自慢の孫じゃ。余り無理をするでないぞ」
「はっ」
頭中将が畏まった。
「それと、一人で抱えるなよ。苦しい時は麿に話せ。役には立たぬかもしれぬが話せば少しは心が軽くなろう」
「有り難うございまする」
頭中将の声が僅かに震えたような気がした。いや、気のせいだろう。いつも通り、平静な表情をしておる。気のせいよ……。
永禄五年(1562年)四月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍
「目々! 目々!」
兄飛鳥井権中納言が飛び込んできた。息が荒い。顔が紅潮している。
「如何なされたのです?」
兄がにやりと笑った。
「三好が畠山に勝った!」
「まあ」
声が弾んだ。三好が畠山に勝った!
「本当でございますか?」
兄が”ああ”と頷いた。
「畠山勢は大敗を喫して紀伊を目指して逃げているらしい。三好勢の大勝利じゃ。はははははは」
兄は座ろうとしない。うろうろと歩きながら笑い出した。
「帝もお喜びでしょう」
兄が”勿論だ”と言ってドスンと腰を下ろした。そして私を見た。
「これで二条様達も諦めて大人しくなろう。朝廷も漸く落ち着くというものよ」
「左様でございますね」
「皆が顔を顰めていたからの、見苦しいと。そなたも随分と嫌な思いをした筈じゃ」
「……」
答えなかったが兄は分かっているというように頷いた。
「ザマアミロ、とは言わぬがいい加減弁えて貰わなければなるまい。帝は相当にお怒りでおじゃるからの。誠仁様のためにもならぬ」
「……兄上、頭中将は?」
問い掛けるとまた兄が笑い声を上げた。
「皆から祝福を受けておじゃる。一度は劣勢に立たされるが最後は三好が勝つ。頭中将の見立て通りになった。皆が頭中将を当代随一の軍略家と褒めておじゃるわ」
胸が熱くなった。あの子の見立て通り。あの子のお陰で帝はこの危機を乗り切れた。何と誇らしいのか……。
「帝は三好と六角を和睦させる事を考えておじゃる」
「和睦を?」
問い返すと兄が頷いた。
「京を占領しているのは六角でおじゃるからの。戦にする事無く近江に退いて貰う。三好にすんなりと京に戻って貰うという事でおじゃろう」
「なるほど、帝は左様な事をお考えでしたか」
もしかするとこれも頭中将の考えかもしれない。兄が”ふふふふふふ”と笑った。
「頭中将の考えでおじゃろうの」
「兄上もそう思われますか?」
兄が声を上げて笑った。
「麿だけではおじゃらぬ。皆が思っておじゃるわ」
嬉しかった。皆があの子を認めている。
「本来ならこれは幕府の、公方の役目よ。だが公方が積極的に和睦を勧めるとも思えぬし三好が公方の仲裁を素直に受け入れるとも思えぬからの」
「これまでの事を考えれば三好は嫌がりましょう」
私が答えると兄が頷いた。
「そう考えるとじゃ、朝廷が三好と六角の和睦を取り持つのは当然でおじゃろう。京を戦から守るためには朝廷が動かざるを得ぬ」
「はい」
私が頷くと兄も頷いた。
「典侍。もしこれが上手く行けば公方は益々面目を失おう。戦も負けた事でおじゃるしの」
「輝若丸様の恩赦の件もございます」
兄が”そうでおじゃるの”と言った。
「そして朝廷の影響力は増す」
「はい」
兄が”ふふふふふふ”と笑った。
「先が楽しみよ」
「はい、楽しみです」
いつか朝廷が天下を動かす。そんな日が来るかもしれない。その時あの子は……。
永禄五年(1562年) 五月上旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 飛鳥井基綱
「勝ったのね!」
「殿の言う通りになりましたわ!」
毬と寿が声を上げた。まあ寿は良いんだ。でも毬はなあ。義輝は多分泣いてるぞ。太閤も困った奴と言うように苦笑いをしている。
「公方様は泣いてるわね」
だからなんで嬉しそうなんだ? 困った奴だよ。
「宮中では皆様お喜びになりまして?」
寿が嬉しそうに問い掛けてきた。
「うむ、帝が三好勢が勝ったと言うと皆が喜んでいた」
「そうでおじゃるな」
俺と太閤が同意すると寿と毬が笑い声を上げた。そりゃ公家達は喜ぶよ。これで二条達の復権は無くなったんだからな。あの連中が復権すれば昇進した連中は降格という事になりかねない。そんな事は誰も望んでいない。あの連中が復権しなければ権大納言、権中納言、参議のポストが空いてるんだ。昇進に期待が出来る。一番喜んでいたのは今出川右大臣だった。笑いが止まらない、そんな感じだったな。次は左大臣だと思ったんだろう。
巳の正刻頃に小兵衛が内裏にやってきた。何が起きたかは直ぐ分かった。小兵衛の顔が綻んでいたからな。小兵衛が俺に差し出した紙縒りには畠山勢と三好勢に間で戦いが起こり三好勢が大勝した、畠山勢は潰走と記してあった。帝に報せると大喜びだったな。しかし少し早いなと思った。巳の正刻って現代なら十時頃だよ。十時頃に報せが入ったという事は戦は早朝に行われた事になる。或いは夜明け前か。
後で詳細な報せが入ったんだがそれによると戦は早朝に始まって一刻程で勝敗が決まったらしい。三好勢はあらかじめ飯盛山城に近付いていた。そして雑賀、根来が陣を抜けるのを待った。雑賀、根来が陣を抜けたのが昨日の夜更けだった。畠山勢は朝になって雑賀、根来が居ない事に気付いて混乱したらしい。そこに三好勢がやってきた。逃げたかったんだろうが逃げれば混乱する。そこを攻撃されたらどうにもならない。仕方なく包囲を解いて三好勢に相対した。もっとも相手は二倍以上の兵力だ。腰は退けていただろう。朝飯も食べていなかった。
三好勢が突撃すると忽ち畠山勢は押された。そこに飯盛山城から偽の修理大夫が率いた三好勢が突撃した。前後から攻撃されたのだ。畠山勢はあっという間に崩れ四散した。そこからは追撃戦だ。逃げ惑う畠山勢を三好勢が一方的に殺しまくった。畠山勢は摂津、和泉、河内から撤退、いや叩き出されつつある。畠山勢の中には空腹で動けない兵も居たらしいが降伏は許されずに殺された。三好勢はこれまでの鬱憤を存分に晴らしたようだ。
三好勢は昼過ぎで追撃を打ち切った。そして午後からは兵を纏めて摂津から和泉、河内へと兵を進めている。一時的に畠山勢に奪われた城も取り戻しつつ有る。今回の戦で畠山は紀伊に逼塞するだろう。摂津、和泉、河内への三好の影響力はこれまで以上に強まるだろう。
「戦はこれで終わりですの?」
「三好と畠山の戦いは終わりでおじゃろうな。畠山勢は五千近い兵を失った。残った兵も命からがら紀伊へと逃げていよう」
「でも未だ六角が居ますわ……」
「六角と三好で和睦をする事になる」
寿と毬が太閤に視線を向けた。太閤が頷く。
「朝廷が中に入るの?」
毬が訊ねてきた。この辺りのセンスは寿よりも毬の方が上かな?
「既に山科権大納言様が六角左京大夫殿に三好との和睦を勧めました。左京大夫殿は三好が和睦を望むならと答えたようにおじゃります」
要するにだ。自分から和睦をしましょうとは言い辛いわけだ。予想通りだよ。
「明日には広橋内府が三好を説得に向かいまする。朝廷が仲立ちすると言えば意地は張りますまい」
「随分急いでいるのですね」
寿が訝しんでいる。
「手間取ると公方と幕臣が掻き回しかねぬ。そうなる前に戦を終わらせるには朝廷が仲立ちして積極的に和睦を勧めるしかおじゃらぬ」
寿、毬が納得したように頷いた。太閤は渋い表情だ。義輝が頼りにならないと思ったのだろう。
実際その通りだと思う。今の時点では六角も三好も面子さえ立てば避けられる戦は避けたいと思っているだろう。無茶をする必要は無いんだ。だが義輝と幕臣達にそういう配慮が出来るとは思えない。和睦なのか戦を煽っているのか分からないような交渉をするだろう。特に三好に対して酷い条件を付けかねない。
「三好と六角の和睦が成れば六角は近江へ撤退し三好が入京しましょう。そうなれば京で戦が起きるような危機は暫くはおじゃりますまい。麿は蔵人頭の辞任を願い出ようと考えておじゃります」
寿と毬が”え”と声を上げた。
「良いの、父上」
毬の問いに太閤が頷いた。
「これ以上、頭中将に無理を、させてはならぬ」
太閤の言葉に二人が頷いた。この件はね、帝も太閤も了承済みなんだ。
「辞任したら朽木に行こうと思っておじゃります。温泉に入って疲れを取ろうかと。良い気晴らしになりましょう。春齢も連れて行くつもりでおじゃります。近衛家の方々も一緒に行きませぬか?」
”行きたい”と言ったのは毬だ。寿は”構いませぬの?”と遠慮がちに言った。太閤は”それが良いかの”と頷いた。
これから暫くの間、京は戦の後始末で混乱するのは目に見えている。輝若丸の件とかな。京に居るとその混乱に巻き込まれそうだ。近衛と飛鳥井は出来るだけ離れていた方が良い。これは帝も同意見だ。朽木からは歓迎すると返事を貰っている。いずれは関わる事になるかもしれないが最初から関わる事は無いさ。俺も、近衛家もな。