軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

76

暴動が起きた翌日、私は一冊の本を手に取った。

解剖学の書だ。骨の形、筋の走り、臓の位置が丁寧に描かれている。

……それなのに。

私はゆっくりと頁を閉じた。

「これほど知っていて――なぜ、人を切れば死ぬ」

誰に向けたわけでもない言葉が、静かに落ちた。

手元に届いた外科の記録の報告書を開く。そして、すぐに理解した。原因は単純だった。

道具が洗われていない。前の患者の血が乾いたまま、次の者を切る。布で拭うことすら、しない。

手が、素手だ。医師も理髪外科医も、普段着のまま。しかも何かに触れた手で、そのまま傷口に触れる。

巻かれる包帯は、使い回しだ。洗われた記述も、乾かされた形跡もない。ただ、当てるだけ。そこに何が入るかなど、考えられていない。

別の記録。

「膿、良好」

そう書かれていた。私は指を止めた。

……良好?

膿が出ることを、良い兆しとしている。体の悪いものが外へ出ている、と。だから、傷を閉じない。むしろ開き、膿を押し出す。その後傷を焼く、若しくは油を流す。そして、そのまま衰弱して死ぬ。

理由は、いくつもある。

まず一つ。 熱で焼けば、確かに血は止まる。だが同時に、肉も深く死ぬ。 生きている部分まで焼き潰せば、そこはもう戻らない。広がった傷は、ただ腐るだけだ。

二つ。 熱と油は、傷を塞いでいるようで、実際には閉じていない。 表だけを焼き固め、中に残った膿や血を閉じ込める。 逃げ場を失ったそれは、内側で腐り、やがて全体を侵す。

三つ。 焼いた傷は、治りが遅い。 本来なら塞がるはずの場所が、焼かれたことで動かなくなる。 だから長く開いたままとなり、その間に汚れが入り続ける。

そして、最後。 焼くことで弱った身体は、そのまま持たない。 痛み、熱、血の減り――それらが重なり、耐えきれずに落ちる。

別の欄。

「迅速に処置」

その文字が何度も出てくる。麻酔がないから、患者は暴れる。だから速さが求められる。切る、縫う、終わらせる。それは丁寧さも、余裕もない。

私は報告書を閉じ、静かに机に置く。

「……こんな事をしていたら、当然だな」

小さく呟く。死ぬべくして、死んでいる。

私は顔を上げた。

暴動後の怪我の処置を、あの時は現場に任せたままだった。しかし。

「やり方を変える」

控えていた医師が、わずかに身じろぎした。

私は続けた。

「切る前に、洗え。手も、道具も、傷もだ」

医師が眉をひそめる。

「……洗う、とは」

「湯でいい。できれば、沸かせ。布もだ。使う前に、必ず煮ろ」

答える。

「傷だが、膿は溜めるな」

「……出すのですか」

「ああ。必要なら、切ってでも出せ。だが、終わったら塞げ。焼かずにな」

医師の表情が、わずかに変わる。

「……焼かずに、ですか」

「ああ。油も使うな」

私は一歩、踏み出した。

「速さはいらん。死なせる速さなら、意味がない」

静かに言う。

空気が張り詰めた。医師は、しばらく黙っていた。やがて低く言う。

「……それで、助かるのですか」

私は一瞬言葉を切った。そして静かに言う。

「……では、どうすれば納得する」

医師はわずかに言いよどんだ。

「それは……実際に、助かった例があれば」

「ある。マルク」

名を呼ぶと、控えていた彼が一歩前に出た。迷いはない。

「見せろ」

マルクは無言で外套を解き、衣をずらした。

露わになったのは、かつて矢を受けた腕の傷だ。医師たちが息を呑む。

「……これは」

「矢傷だ。開き、強い酒で洗い、縫った」

私は淡々と言う。

一人が思わず身を乗り出した。

「縫った……?」

声には、はっきりとした動揺が混じっていた。

「馬鹿な……閉じれば、膿が――」

「汚れたまま閉じるから、腐る」

私は遮った。

「だからだ。針は火にかけ、糸も布も煮ろ。手もよく洗え。使う前に、汚れを落とせ」

医師たちは、言葉を失っていた。私はマルクの傷を指で示した。

「見ろ」

縫い跡は残っている。だが、腫れはなく、膿んだ痕もない。皮膚は滑らかに閉じている。

「……こんな傷は、見たことがない」

誰かが、かすれた声で言った。私は答える。

「縫うことが肝ではない。汚れを残さぬことだ」

静かに視線を巡らせる。

「その上で閉じれば、死なない」

沈黙が落ちた。

やがて、最初に口を開いた医師が、ゆっくりと息を吐いた。

「……試します」

それは、疑いではなく、決意だった。

私は頷いた。

「記録しろ。全部だ。どれだけ膿が出たか、いつ止まったか、誰が助かり、誰が死んだか」

間を置く。

「一つ残らずだ」

医師は、ゆっくりと頷いた。

「……承知しました」

それが、始まりだった。

医師視点

患者は三人。いずれも膿を持つ傷だった。先日の暴動に巻き込まれた者達だ。

一人は農夫で、腿の深い裂傷。一人は若い男で、腕の腫れ。もう一人は、荷運びの男で背に膿の溜まり。

これまでなら迷いはなかった。開き、押し出し、焼く、それで終わりだ。

殿下の言葉が、頭に残っている。

湯を沸かし、道具を入れる。布も沈める。

――本来なら、殿下の言う“強い酒”を使うべきなのだろう。だが、あれは高い。量もない。傷一つに使えば、それだけで小さな家が一つ傾く。

理髪師が、鼻で笑った。

「酒をかけるだと? 飲むものだろうが」

誰も、反論しなかった。効果が分からぬのに、あれを使う者はいない。

今回は違う。

「……道具を煮ろ」

理髪師が、嫌そうに顔をしかめた。

「刃が鈍ります」

「構わん。そのまま使うよりは、ましだ」

理髪師は、舌打ちこそしなかったが、納得もしていない顔だった。

処置に入る。まず、農夫。傷を開くと膿が滲む。

「……ここまでは同じだ」

理髪師が低く言う。我は頷いた。

「だが、押し潰すな。流させろ」

温めた湯をかける。ゆっくりと、流す。

理髪師が、手を止めた。

「……弱すぎる」

「いい」

そう言って、続けさせる。出るものは出し、無理に絞らない。それが、今回のやり方だった。終えた後、焼かない。

理髪師が口を歪め、言葉を選ぶように言った。

「……焼かねえで……止まるんですかい」

「焼くな」

我は首を振る。

理髪師は顔をしかめたが、何も言わず、布を当てた。――煮た布だ。

翌日。まず、臭いが違った。これまでの膿の匂いとは違う。重く腐るような臭気が、薄い。

「……弱い」

思わず、口に出た。理髪師も、鼻を鳴らす。

「……確かに」

顔をしかめる様子はない。

三日目。

腫れが、引いていた。

「……早いな」

理髪師が言う。疑いの声ではなく、確かめる声だ。我は傷を覗き込む。膿はあるが、溜まっていない、流れている。

「……押していないのに」

理髪師が呟く。

五日目。

農夫は、足を動かした。まだぎこちないが、動いた。これまでなら、熱を持ち、赤く腫れ上がり、やがて黒ずんでいた頃だ。

「……おかしいな」

理髪師が低く言う。

「悪くなっていない」

「そうだな」

我は記録を書きつける。

手は、止まらない。

七日目。

三人とも、生きていた。それだけで、異常だった。

一人は、膿が引き始めている。

一人は、腫れがほぼ消えた。

一人は、すでに立ち上がっている。

これまでのやり方なら、少なくとも一人は死んでいた。

我は筆を止めた。

……結果は、重なった。同じやり方で、同じ変化。明らかに、今までと違う。

我は、ゆっくりと息を吐いた。

「……奇跡ではない。現実だ」

誰に向けたわけでもなく、呟く。

横で、理髪師が腕を組んでいた。

しばらく黙っていたが、やがて言う。

「……やりやすい」

意外な言葉だった。我は顔を向ける。

「何がだ」

理髪師は、肩をすくめた。

「焼かなくていい。押し潰さなくていい」

少しだけ、口元を歪める。

「始めの手間は増えたが……死なねえ」

短い言葉だった。だが、それで十分だった。

私は報告書を読んだ。

頁をめくるたび、同じ記述が現れる。

「洗浄」 「煮沸」 「焼かず」 「膿、減少」

場所、医師、理髪師が異なっても、結果は同じだった。私は指を止めた。

「……広まっているな」

呟く。

命じたのは、ほんの一部だ。 だが、記録は写され、語られ、真似られる。

一度助かった者がいれば、周囲は必ず問う。 どうやったのか、と。

そして答えは、単純だ。道具を洗う、 煮る。傷口は流し、焼かない。それだけだ。

だからこそ、広がる。

特別な技ではない。 選ばれた者だけが出来るものでもない。 誰でも、やればいい。それが、何より強い。

私は静かに頁を閉じた。

だが、外では、違う言葉が使われている。

「奇跡だ」

「神の御業だ」

苦笑が漏れた。

「……好きに言わせておけ」

小さく呟く。理解される必要も、頼られる必要もない。人は理由を欲しがり、 説明できぬものを、神に預ける。

それでいい。

私は報告書を机に置いた。

「……人が、生きればいい」

それだけだ。