作品タイトル不明
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暴動が起きた翌日、私は一冊の本を手に取った。
解剖学の書だ。骨の形、筋の走り、臓の位置が丁寧に描かれている。
……それなのに。
私はゆっくりと頁を閉じた。
「これほど知っていて――なぜ、人を切れば死ぬ」
誰に向けたわけでもない言葉が、静かに落ちた。
手元に届いた外科の記録の報告書を開く。そして、すぐに理解した。原因は単純だった。
道具が洗われていない。前の患者の血が乾いたまま、次の者を切る。布で拭うことすら、しない。
手が、素手だ。医師も理髪外科医も、普段着のまま。しかも何かに触れた手で、そのまま傷口に触れる。
巻かれる包帯は、使い回しだ。洗われた記述も、乾かされた形跡もない。ただ、当てるだけ。そこに何が入るかなど、考えられていない。
別の記録。
「膿、良好」
そう書かれていた。私は指を止めた。
……良好?
膿が出ることを、良い兆しとしている。体の悪いものが外へ出ている、と。だから、傷を閉じない。むしろ開き、膿を押し出す。その後傷を焼く、若しくは油を流す。そして、そのまま衰弱して死ぬ。
理由は、いくつもある。
まず一つ。 熱で焼けば、確かに血は止まる。だが同時に、肉も深く死ぬ。 生きている部分まで焼き潰せば、そこはもう戻らない。広がった傷は、ただ腐るだけだ。
二つ。 熱と油は、傷を塞いでいるようで、実際には閉じていない。 表だけを焼き固め、中に残った膿や血を閉じ込める。 逃げ場を失ったそれは、内側で腐り、やがて全体を侵す。
三つ。 焼いた傷は、治りが遅い。 本来なら塞がるはずの場所が、焼かれたことで動かなくなる。 だから長く開いたままとなり、その間に汚れが入り続ける。
そして、最後。 焼くことで弱った身体は、そのまま持たない。 痛み、熱、血の減り――それらが重なり、耐えきれずに落ちる。
別の欄。
「迅速に処置」
その文字が何度も出てくる。麻酔がないから、患者は暴れる。だから速さが求められる。切る、縫う、終わらせる。それは丁寧さも、余裕もない。
私は報告書を閉じ、静かに机に置く。
「……こんな事をしていたら、当然だな」
小さく呟く。死ぬべくして、死んでいる。
私は顔を上げた。
暴動後の怪我の処置を、あの時は現場に任せたままだった。しかし。
「やり方を変える」
控えていた医師が、わずかに身じろぎした。
私は続けた。
「切る前に、洗え。手も、道具も、傷もだ」
医師が眉をひそめる。
「……洗う、とは」
「湯でいい。できれば、沸かせ。布もだ。使う前に、必ず煮ろ」
答える。
「傷だが、膿は溜めるな」
「……出すのですか」
「ああ。必要なら、切ってでも出せ。だが、終わったら塞げ。焼かずにな」
医師の表情が、わずかに変わる。
「……焼かずに、ですか」
「ああ。油も使うな」
私は一歩、踏み出した。
「速さはいらん。死なせる速さなら、意味がない」
静かに言う。
空気が張り詰めた。医師は、しばらく黙っていた。やがて低く言う。
「……それで、助かるのですか」
私は一瞬言葉を切った。そして静かに言う。
「……では、どうすれば納得する」
医師はわずかに言いよどんだ。
「それは……実際に、助かった例があれば」
「ある。マルク」
名を呼ぶと、控えていた彼が一歩前に出た。迷いはない。
「見せろ」
マルクは無言で外套を解き、衣をずらした。
露わになったのは、かつて矢を受けた腕の傷だ。医師たちが息を呑む。
「……これは」
「矢傷だ。開き、強い酒で洗い、縫った」
私は淡々と言う。
一人が思わず身を乗り出した。
「縫った……?」
声には、はっきりとした動揺が混じっていた。
「馬鹿な……閉じれば、膿が――」
「汚れたまま閉じるから、腐る」
私は遮った。
「だからだ。針は火にかけ、糸も布も煮ろ。手もよく洗え。使う前に、汚れを落とせ」
医師たちは、言葉を失っていた。私はマルクの傷を指で示した。
「見ろ」
縫い跡は残っている。だが、腫れはなく、膿んだ痕もない。皮膚は滑らかに閉じている。
「……こんな傷は、見たことがない」
誰かが、かすれた声で言った。私は答える。
「縫うことが肝ではない。汚れを残さぬことだ」
静かに視線を巡らせる。
「その上で閉じれば、死なない」
沈黙が落ちた。
やがて、最初に口を開いた医師が、ゆっくりと息を吐いた。
「……試します」
それは、疑いではなく、決意だった。
私は頷いた。
「記録しろ。全部だ。どれだけ膿が出たか、いつ止まったか、誰が助かり、誰が死んだか」
間を置く。
「一つ残らずだ」
医師は、ゆっくりと頷いた。
「……承知しました」
それが、始まりだった。
医師視点
患者は三人。いずれも膿を持つ傷だった。先日の暴動に巻き込まれた者達だ。
一人は農夫で、腿の深い裂傷。一人は若い男で、腕の腫れ。もう一人は、荷運びの男で背に膿の溜まり。
これまでなら迷いはなかった。開き、押し出し、焼く、それで終わりだ。
殿下の言葉が、頭に残っている。
湯を沸かし、道具を入れる。布も沈める。
――本来なら、殿下の言う“強い酒”を使うべきなのだろう。だが、あれは高い。量もない。傷一つに使えば、それだけで小さな家が一つ傾く。
理髪師が、鼻で笑った。
「酒をかけるだと? 飲むものだろうが」
誰も、反論しなかった。効果が分からぬのに、あれを使う者はいない。
今回は違う。
「……道具を煮ろ」
理髪師が、嫌そうに顔をしかめた。
「刃が鈍ります」
「構わん。そのまま使うよりは、ましだ」
理髪師は、舌打ちこそしなかったが、納得もしていない顔だった。
処置に入る。まず、農夫。傷を開くと膿が滲む。
「……ここまでは同じだ」
理髪師が低く言う。我は頷いた。
「だが、押し潰すな。流させろ」
温めた湯をかける。ゆっくりと、流す。
理髪師が、手を止めた。
「……弱すぎる」
「いい」
そう言って、続けさせる。出るものは出し、無理に絞らない。それが、今回のやり方だった。終えた後、焼かない。
理髪師が口を歪め、言葉を選ぶように言った。
「……焼かねえで……止まるんですかい」
「焼くな」
我は首を振る。
理髪師は顔をしかめたが、何も言わず、布を当てた。――煮た布だ。
翌日。まず、臭いが違った。これまでの膿の匂いとは違う。重く腐るような臭気が、薄い。
「……弱い」
思わず、口に出た。理髪師も、鼻を鳴らす。
「……確かに」
顔をしかめる様子はない。
三日目。
腫れが、引いていた。
「……早いな」
理髪師が言う。疑いの声ではなく、確かめる声だ。我は傷を覗き込む。膿はあるが、溜まっていない、流れている。
「……押していないのに」
理髪師が呟く。
五日目。
農夫は、足を動かした。まだぎこちないが、動いた。これまでなら、熱を持ち、赤く腫れ上がり、やがて黒ずんでいた頃だ。
「……おかしいな」
理髪師が低く言う。
「悪くなっていない」
「そうだな」
我は記録を書きつける。
手は、止まらない。
七日目。
三人とも、生きていた。それだけで、異常だった。
一人は、膿が引き始めている。
一人は、腫れがほぼ消えた。
一人は、すでに立ち上がっている。
これまでのやり方なら、少なくとも一人は死んでいた。
我は筆を止めた。
……結果は、重なった。同じやり方で、同じ変化。明らかに、今までと違う。
我は、ゆっくりと息を吐いた。
「……奇跡ではない。現実だ」
誰に向けたわけでもなく、呟く。
横で、理髪師が腕を組んでいた。
しばらく黙っていたが、やがて言う。
「……やりやすい」
意外な言葉だった。我は顔を向ける。
「何がだ」
理髪師は、肩をすくめた。
「焼かなくていい。押し潰さなくていい」
少しだけ、口元を歪める。
「始めの手間は増えたが……死なねえ」
短い言葉だった。だが、それで十分だった。
私は報告書を読んだ。
頁をめくるたび、同じ記述が現れる。
「洗浄」 「煮沸」 「焼かず」 「膿、減少」
場所、医師、理髪師が異なっても、結果は同じだった。私は指を止めた。
「……広まっているな」
呟く。
命じたのは、ほんの一部だ。 だが、記録は写され、語られ、真似られる。
一度助かった者がいれば、周囲は必ず問う。 どうやったのか、と。
そして答えは、単純だ。道具を洗う、 煮る。傷口は流し、焼かない。それだけだ。
だからこそ、広がる。
特別な技ではない。 選ばれた者だけが出来るものでもない。 誰でも、やればいい。それが、何より強い。
私は静かに頁を閉じた。
だが、外では、違う言葉が使われている。
「奇跡だ」
「神の御業だ」
苦笑が漏れた。
「……好きに言わせておけ」
小さく呟く。理解される必要も、頼られる必要もない。人は理由を欲しがり、 説明できぬものを、神に預ける。
それでいい。
私は報告書を机に置いた。
「……人が、生きればいい」
それだけだ。