作品タイトル不明
50
私は会計官を捕らえさせた。縄をかけられたまま、男が前へ押し出された。灰色の外套は泥に汚れているが、背筋は折れていない。
印章箱が運ばれる。
痩せた指先が、黒革の小箱に触れた。
私は、言った。
「開けよ」
男は顔を上げた。怯えよりも、怒りがあった。
「それは我が王の印章である」
「承知している」
「捕虜の身であろうと、私は王の臣だ」
縄が軋む。
「これを使わせるというなら、私は裏切り者となる」
静かだが、はっきりした声だった。私は彼を見下ろす。
「裏切りとは何だ」
「主君に仇なすこと」
「主君とは、誰だ」
「王だ」
「民ではないのか」
彼の視線が揺れた。
「王は民を守る」
「ならば今、守られているか」
私は一歩、印章箱から離れた。
「触れぬ」
男が眉をひそめる。
「奪わぬ」
「……何だと」
「食料も、印も。ここにあるものは、今まで通りお前たちのものだ」
幕舎の空気が張りつめる。
「我らは略奪のために来たのではない」
沈黙。
「ただし、条件が二つある」
男の目が細まる。
「第一。三割を周囲の村へ分配せよ。市場に流すのは残り七割」
「……村に戻すと?」
「人は、飢えれば暴れる。暴れれば王は軍を引く」
沈黙。
「第二。市場に流す七割。減少分は収穫減と表記。麦は二割減らす。ワインは三割薄める」
男の顔色が変わる。
「三割も水増しをして、わからぬはずがない。王の名のもとに、あからさまな不正を働けというのか」
「質を落とすだけだ。毒は入れぬ」
「欺きだ」
私は静かに言う。
「だが、民は食える」
男の目が鋭くなる。
「王の意思に反する!」
私は一歩近づく。
「貴様……国を崩すつもりか」
私は低く言う。
「崩すのではない」
「商人は軍を、軍は商人を。王家の印さえ信用を失う。それでもか!」
私は答えなかった。
「選べ」
「選ぶとは?」
「国に殉じて物資を我らに差し出し、国賊となるか」
一拍。
「国を裏切って民を食わせ、英雄となるか」
幕舎の空気が凍る。
「殉じれば国賊、裏切れば英雄……なぜ私に」
「お前は知っているからだ」
「何を」
「この流れが、どこから来て、いずれ誰の首を締めるか」
男の肩が、わずかに落ちる。
「……私は、会計官だ」
「だからこそだ。剣は敵を斬る。だが帳簿は流れを変える」
長い沈黙。
「……記す文言は」
「王命により再配分」
「王命ではない」
「いずれ王は、それを選ぶ」
縄に縛られたまま、男は印章を持ち上げる。
蝋が溶ける。印章が落ちる。小さな音。
だがその瞬間、敵国の流れは、わずかに曲がった。
帳簿は正しく。中身だけを狂わせる。
毒は入れない。入れるのは――疑念だ。
一部始終を見ていたマルクは、声を出さなかった。
――殿下は、奪わないことで、奪う以上のものを得てしまった。
……おそろしいお方だ。
補給基地を制した夜。
ひとりの商人が幕舎に通された。外套は質素だが、指輪は高価。目は油のように光る。
「命が、惜しくはないのか」
私は問うた。
「惜しくない命など、ございません」
男は笑う。
「だが、利の匂いがするならば、危険は計算に入れるのです」
「何を商う」
「交易市で塩と穀を扱っております」
「なぜ我らに」
「税が三度上がりました。次は商人の首が上がるでしょう」
男はさらりと言った。
「殿下が庫を落とされたと聞きました。火を放たなかった、とも」
「燃やせば人は飢える」
「飢えは、長引きます」
男は頷く。
「だが流通を支配すれば、戦わずとも市は立ちゆきません」
「お前は何を望む」
「二つ」
指を二本立てる。
「ひとつ。税率の保証。ひとつ。軍による押収の停止」
大胆だ。
「敗戦を前提にしているのか」
「前提にしておりません。備えております」
商人は王を信じない。だが、流れは読む。
「私に何を差し出す」
「情報を」
即答。
「倉の実数。軍の横流し。王都への密使の経路。そして――市で誰が最初に裏切るか」
「裏切る?」
「利を選ぶ、と申したでしょう」
私は目を細めた。
「危険だぞ」
「承知しております」
男は静かに言う。
「殿下が道を見るならば、私はその道を歩く者です」
沈黙。
「よかろう」
私は言う。
「だが覚えておけ。私は商人のために戦うのではない」
「存じております。殿下は戦を終わらせるために戦う」
男は頭を下げた。
「ならば私は、戦後も残る流れに賭けます」
その夜、彼は帰った。
そして数日後。
都市で騒ぎが起きた。
「王家の印が押された小麦の量が少ない!」
商人は怒る。
「軍が横流ししたのではないか」
王家は怒る。
「商人が抜いたのだろう」
軍は怒る。
「我らを疑うか」
市場は止まり、倉は閉じ、噂が噂を呼ぶ。
誰もが誰かを疑う。やがて一人の商人が拘束された。
それが火種だった。石が飛び、刃が抜かれ、
都市の門が閉ざされた。王は丘の軍に帰還を命じる。
「都を守れ」
丘は空く。我は川を渡り、その丘に立つ。
敵は自らの胃袋を疑い、自らの民を斬った。
我らは剣を抜かない。だが戦は、傾いた。
戦争は今日や明日には終わらない。
国の争いなら、なおさらだ。丘を得ても、城を落としても、憎しみが残る限り刃は鈍らない。
敵が長く戦い続けられるのは、あの市が富を生み、兵糧と銀を流し続けるからだ。ならば奪うべきは城壁ではない。流れだ。
優秀な商人を送り込む。剣を振るう者ではなく、帳簿を操る者を。騎士の中にも、算盤に長けた者はいる。
より商才に長けた者が市を制し、富を国に運ぶ。
利が交われば、人は同じ卓につく。卓についた者は、容易く刃を抜かぬ。
丘は取った。
だが私が見ていたのは、丘ではない。
その先に延びる、一本の道だ。
――戦争を、終わらせるための。