作品タイトル不明
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第三王子は、わずかに頷いた。
「物資の往来は、表向きの理由に過ぎません。人の往来。情報の往来。立場の往来。それらすべてを含みます」
その視線が、使節長へ向く。
「そして、その“立場”を最も強く固定する手段が――婚姻。しかし」
一瞬、室内が張り詰める。
「王族の婚姻は、取引には用いません」
きっぱりと言い切った。
「貴国が求めているのは血縁ではなく、裏切られない保証のはずだ」
そのとき、使節長が低く言った。
「血縁こそが、最も確実な保証だ」
室内の空気が張り詰める。
「姻戚となれば、裏切りは自国の血を裏切ることになる。これ以上の担保はない」
正論だった。侯爵でさえ、反論を思いつかない。
だが第三王子は、静かに首を横に振った。
「いいえ」
穏やかな声だった。
「血縁は、感情に依る保証です」
使節長の眉が動く。
「感情は、時に国益よりも軽くなる」
誰も口を挟めない。
「歴史を見れば、姻戚同士で刃を向けた国はいくらでもある」
淡々と続ける。
「ですが、軍事同盟、交易、技術交流、文化交流――国の根幹に関わる約が絡み合えば、裏切りは感情ではなく、国そのものを損なう行為になります」
視線をまっすぐ向ける。
「人の情ではなく、国の仕組みで縛る。それこそが、真に裏切りの起きにくい形です」
沈黙。
「婚姻よりも、はるかに強い保証になります」
使節長の表情が、初めて動く。
「軍事同盟と文化交流条約を結びましょう。文書で、形で、残る保証です。加えて、農産物および農業技術の相互交流も条文に盛り込む。人と文化と産業が行き交う関係こそ、裏切りの起きにくい真の同盟となります」
理は、あまりにも明快だった。
だからこそ、反論の余地がない。欲しいものを、見抜かれている。しかも、奪う形ではなく、差し出されている。
使節長の声音が変わる。
「……ほう」
その後の協議は、もはや押し付けではなかった。
条件のすり合わせだった。
数日に及ぶ協議の末、隣国はすべての条件を飲んだ。結果は、想像を超える大成功だった。
だが、公式発表は違った。
「第一王子殿下のご英断により、第三王子が任を果たした」
功績は、すべて第一王子へと帰された。
第三王子は何も言わなかった。
淡々と報告書を提出し、静かに一礼して、その場を去る。弁明も、主張も、誇示もない。
その背を見送ったとき、侯爵の胸に、重いものが落ちた。
――なぜだ。望んだ結果のはずだった。第一王子の評価は上がり、第三王子の手柄は表に出ない。
計算通り。思惑通り。それなのに、胸の奥がざわつく。
昔、宮廷で笑った、無能な王子。何もできない男。王家の駒にもならぬ、価値の薄い存在だと。そう、信じて疑わなかった。
だが――あの協議の場で、誰よりも余裕を持っていたのは誰だった。
あの大国の使節を、交渉の席に引き戻したのは誰だった。
押し付けられるはずだった条件を、対等な条約へと変えたのは誰だった。
第一王子ではない。自分でもない。第三王子だ。
侯爵は、知らず拳を握りしめていた。
失敗させるために整えた舞台だった。恥をかかせ、評判を地に落とすはずの席だった。
それなのに。あの男は――
その舞台で、王の資質ではなく、為政の技術を見せつけてしまったのだ。
廊下を歩きながら、第三王子は小さく息を吐いた。
久方ぶりの、大きな交渉だった。緊張はない。高揚もない。ただ、思考を使い続けたあとの、鈍い疲労だけが残っている。
三日前。この役目を命じられてから、定時という概念は頭から消えていた。
文官を集め、資料を洗い、過去の条約を読み返し、隣国の産業、軍備、交易路、過去の外交姿勢を洗い出す。
気づけば時刻は深夜に近づいている――そんな日が、二日続いた。
不本意ではあったが、仕方がない。大局を考えれば、必要な労力だった。及第点、だろう。
そう、静かに自己評価する。
条文の詰めは、文官たちに相当な負担をかけたはずだ。自分と同じように、ここ数日まともに休めていない者もいるだろう。
帰ったら、まず労いの言葉をかけよう。
差し入れも必要かもしれない。甘味の方が喜ばれるだろうか。
焼き菓子なら、手も汚れずに済む。
ふと、そんなことを考える。
視線を上げると、夕陽が廊下の窓から差し込んでいた。
もうこんな時間か。
だが、これで終わった。
明日からは、また定時で帰れる。
小さく頷く。
それでいい。
それが一番いい。
無理は、長く続けるものではない。
必要な時にだけ、すればいい。
自室の扉が見えてくる。
今日も、無事に一日が終わった。
ただ、それだけのことだった。