軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第35話 足場の上で

半年が経った。

そう言うと短い。だが、俺にとってのこの半年は、たぶん昔の三年分くらいの密度があった。

東都財閥本館で、あのいかにも地味で長ったらしい名前の部屋――特殊基幹機能統合室準備室、通称「統合室」の話がまとまってから、季節は二つ変わった。最初はみんな仮称だの準備室だの言っていたが、結局いまでもそのまま呼んでいる。正式名称としては長すぎるくせに、逆に長すぎるから便利なのだと御影は言っていた。

実際、便利なのだろう。

少なくとも、あの部門が回り始めてから、俺の周りの空気は明らかに変わった。

工房は、前より静かになった。

人の出入りが減ったわけじゃない。出入りする人間と物の“意味”が変わったのだ。

前は、持ち込まれて、試して、通して、売る。そういう小回りの効く現場だった。いまも本質は変わらないが、その周囲に増えたものが違う。認証端末、搬送箱、記録、保管ルール、接触管理、順番待ちの調整。見た目は相変わらず町工場の延長みたいな顔をしているくせに、中でやっていることは前よりずっと重い。

研究棟の方はもっと露骨だった。

入退室は二段階認証、試料保管庫は三層管理、搬送ルートは固定、持ち出し申請は統合室経由。前なら、気心の知れた連中が「ちょっと見せて」「あとで返す」で済ませていたものが、今は全部文面と順路とタイムスタンプの上を通る。

不便になったかと言われれば、不便にはなった。

でもその不便さが、今の俺たちには必要だった。

白い円盤は、結局、白い円盤のままだった。

社内ではいくつも呼び名がある。分離膜一号、特殊処理無機多孔体系案件、前処理材A系統、医療周辺試験材。言っている側の部署によって名前が違う。だが、天城も神代も柏木も、気を抜くと結局「白い円盤」と言う。だからたぶん、あれはしばらく白い円盤のままだ。

そしてその白い円盤は、この半年で静かに、しかし確実に“医療の周辺”へ食い込んだ。

いきなり治療機器ではない。そんな派手なことはしていない。やっているのはもっと地味だ。

高価検体の前処理。

特殊毒性モデルでの選択除去。

極端に高価な試薬系の損耗低減。

血液浄化補助へ向かう前段の分離確認。

いずれも、救命の顔ではない。

だが、現場には十分刺さる。

刺さるからこそ厄介だった。

問い合わせの質が、前よりずっと悪くなったのだ。

共同研究希望。評価打診。見学希望。秘密保持前提の意見交換。将来的な優先供給に関する非公開相談。どれも文面は上品で、どれも礼儀正しい。だが、上品な顔をしているだけで、中身はほとんど同じだった。

席をくれ。

順番を寄越せ。

今のうちにこちらを覚えろ。

半年もこういう文面を見ていれば、嫌でも分かるようになる。

「久世さん」

声をかけられて顔を上げる。

研究棟の会議室だった。偏光ガラスの向こうに午後の光が白く滲んでいる。机の上には紙より端末が多く、壁際には施錠された搬送箱が二つ並んでいた。この会議室も、半年前よりだいぶ空気が硬くなった。

正面には天城。

右に神代。

左に柏木。

壁際には統合室付きの資産保全担当、佐伯が立っている。

佐伯はこの半年で何度も顔を合わせたが、いまだに「同じ部屋にいると空気が少し冷える人」のままだ。目立たないくせに、いると分かる。財閥本流が寄越してきた人間は、だいたいそういう質感をしている。

「聞いていますか」

「聞いてるよ」

「なら結構です」

天城はそう言って画面を切り替えた。映し出されるのは、医療並行運用の進捗だ。

一号案件。高価検体系前処理。

二号案件。特殊毒性物質モデル。

三号案件。血液浄化補助へ向かう前段評価。

どれもまだ“周辺”だ。

でも、その周辺だけで充分すぎるほど世界がざわつき始めている。

「まず一号案件ですが」

柏木が端末を操作しながら言う。

「高価検体系前処理の損耗率が、想定よりきれいに落ちています。繰り返し試験でも挙動は揃いました。研究施設側の反応も悪くありません」

「悪くない、で済ませていいのか?」

俺が聞くと、柏木は少しだけ肩をすくめた。

「研究者としては、すごく嫌です」

「でも、評価担当としては“悪くない”です」

「正直でよろしい」

神代が口元だけで笑う。

「こういうのは、派手な数値より嫌な再現性の方が効きますからね。五回やって五回、きれいに同じ顔をする方がずっと怖い」

「現場は、もう怖がり始めていますよ」

天城が静かに言った。

「昨日の問い合わせ、見ましたよね」

「ああ。“意見交換の機会を賜れれば幸いです”ってやつだろ」

「その後ろです」

天城は文面の該当箇所を拡大した。

非公開協議。

優先評価枠。

供給可能性。

中長期連携。

相変わらず上品な文面だった。上品な文面だが、半年も見ていれば分かる。

これは研究の話ではない。

席順の話だ。

「綺麗な顔で来るなあ」

俺が言うと、天城はわずかに口元を緩めた。

「ええ。まだ順番を守るつもりがある段階です」

「その言い方だと、そのうち崩れるみたいだな」

「崩れるところは出ます」

即答だった。

「ただ、思ったより遅いです」

神代が頷く。

「東都が順番を売っているからでしょう。断られているのではなく、待たされている。あれは人を我慢させます」

「それでも、嗅いでるやつは増えました」

佐伯がそう言って、一枚の資料を前へ滑らせた。

委託搬送先への不自然な問い合わせ。

研究棟近辺での迂回した確認。

海外研究機関の顔をした、妙に洗練された見学打診。

どれも軽い。どれも礼儀正しい。どれも、今はまだ事件ではない。

でも、こういうのは事件の前に出る。

「搬送の階層を、一段上げます」

佐伯は低い声で言った。

「現行でも回っていますが、検体系の価値が見え始めた以上、いまのルートは長い。途中の手を減らしたい」

「理由は?」

天城が確認する。

佐伯は少しも迷わなかった。

「抜かれると一番困るのが、加工前後比較の成立する検体だからです。試料そのものより、比較の成立した状態を持って行かれるのが面倒だ」

「同意です」

俺が先に答えると、天城がこちらを見た。

「久世さんも、そこですか」

「そこだろ。素材や機材は見ても分からないやつには分からない。でも、比較が取れる検体と評価結果の束は、一回抜かれると話が早い」

神代が嫌そうな顔をした。

「研究棟側の手間はまた増えますね」

「増やす」

佐伯が言う。

「引き渡し時刻の固定化、車両系統の二重化、担当者の絞り込み。あと、一定期間は研究棟側の持ち回りも減らします」

「不便ですね」

「必要です」

「分かっています。嫌だと言ってるだけです」

神代のその言い方に、会議室の空気が少しだけ緩んだ。

半年前なら、こういう会議はもっと張り詰めていた。

今は違う。張り詰めてはいるが、みんなが何を守って何を動かしているか分かったうえで話している。そこが少し違う。

「で」

俺は机の上の端末を指で軽く叩いた。

「白い円盤の医療並行運用は、このまま続ける。そこはいい」

「はい」

天城が頷く。

「三号案件、血液浄化補助の前段評価も維持で?」

「維持でいい。ただし、表向きは最後まで“前処理材”から出ない」

「了解です」

「あと、問い合わせ窓口。あれ、そろそろ一本じゃ足りないだろ」

天城が即座に応じる。

「ですから、いま二層に分けています。表向きの学術照会と、守秘前提の非公開打診」

「ただ、それでも最近は二層目の入り口に来るのが早くなった。向こうも学習しています」

「なら三層目を作るか?」

そう言うと、天城は少しだけ考えた。

「いずれ必要です。ただ、まだ早い」

「今の段階で露骨に三層目を作ると、“そこに本体がある”と宣言するようなものです。もう少し、こちらの都合で詰まらせたい」

「相変わらず性格悪いな」

「褒め言葉として受け取っておきます」

いや、褒めてないんだが。

でも、まあ天城らしい。

会議はさらに三十分ほど続いた。医療並行運用の進捗、搬送ルートの改訂、問い合わせの振り分け、研究棟側の負担軽減、統合室経由の一次返答文の見直し。

内容は地味だ。

ひたすら地味だ。

だが、その地味さこそが、この半年で俺たちが作った足場だった。

全部終わる頃には、窓の外の光が少し斜めに傾いていた。

「以上です」

天城が端末を閉じる。

「半年、よく回った方ですね」

「よく回った、で済ませるには、だいぶ胃に悪かったけどな」

「それは分かります」

珍しく、天城が素直に言った。

「ただ、去年の今ごろに比べれば、かなり“形”になりました」

「白い円盤の医療並行運用も、統合室の接触管理も、資産保全も、研究棟の分離運用も。少なくとも、場当たり対応ではなくなった」

「そうだな」

俺は椅子に深く座り直した。

去年の今ごろ。

たった半年しか経っていないのに、妙に遠い。

あの頃は、目の前に来た球をどう打ち返すかで精一杯だった。

今は違う。

球を打ち返すだけじゃなく、どこに立って、どの線を残して、何を先に通すかを考えている。

少しだけ、前に進んだ気がする。

いや、正確には――

ようやく“前に出られる足場”ができたのかもしれない。

その時だった。

ふと、会議室の空気が少しだけ止まった。

誰も何も言っていないのに、同じことを考えたのが分かる。

半年、守って、通して、待たせて、回してきた。

それは良かった。必要だった。

でも、それだけで終わる話じゃない。

次が要る。

「……なあ」

俺は天井を見たまま口を開いた。

「半年、守る線は引いたよな」

「はい」

天城が答える。

「稼ぐ線も、まあ、細いけど通った」

「ええ」

「だったら次だ」

そこで俺は顔を上げた。

「向こうが投げてくるのを待つだけじゃ、もう駄目だろ」

神代が静かにこちらを見る。柏木も、佐伯も、天城も。

「次は、こっちから探しに行く」

言葉にした瞬間、自分でも妙にしっくりきた。

そうだ。

守るために器を作ったんじゃない。

前に出るために作ったんだ。

天城が、ほんの少しだけ目を細める。

「探索線、ですね」

「そうだ」

「具体案は?」

「まだこれからだよ」

俺は苦笑した。

「でも、方針は決める。白い円盤の医療並行運用はそのまま回す。護衛と搬送の線も一段上げる。統合室の器も使う」

「その上で、止まってた拾う線を動かす」

「それは賛成です」

天城の返事は早かった。

「守る線ばかり強くすると、いずれこちらが鈍る」

「統合室も研究棟も、いまなら“拾って持ち込まれたものを回す器”として機能します」

神代も頷く。

「研究側も最低限の余裕は作れます。全部を守りに振るより、探索がある方がむしろ自然です」

柏木は少し考えてから言った。

「その代わり、次に持ち込まれるものは今まで以上に評価初動を整えたいですね」

「白い円盤と還り箱でだいぶ学びました。最初の観測を丁寧にやれば、後で楽になる」

「それは助かる」

「はい。もう“偶然と気合い”で走るのは嫌なので」

「お前それ、半年前の俺たちに喧嘩売ってる?」

「半年前の私たち全員にです」

そこは否定しないんだな。

佐伯が短く口を開いた。

「探索線を再始動するなら、事前に最低限の条件だけは固めてください」

「持ち出す基準。記録の基準。外に見せる基準。そこだけ決まっていれば、こちらは動けます」

「分かった」

俺は頷いた。

「じゃあ、それも含めて次の会議だな」

天城が端末を開き直す。

「では、次回は探索線再始動の前提整理を議題に入れます」

「医療並行運用の維持。搬送階層の引き上げ。探索線の再始動。次の三本ですね」

「そうだな」

俺はそう言って、少しだけ笑った。

「ようやく、こっちから動く感じになってきた」

会議を終えて工房へ戻ると、夕方の空気が少しひんやりしていた。

工房の中には、前よりずっと物が増えた。

EEL-RXの評価戻り。

EEL-TCの試作パネル。

施錠された搬送箱。

保管棚。

認証端末。

どれも珍しくない。半年前なら、どれか一つで何日も頭がいっぱいになっていたはずなのに、今は全部が“回っている前提”の景色に変わっている。

椅子に腰を下ろして、スマホを机に置く。

「イヴ」

【はい】

「半年、何とかなったな」

【肯定。現時点での秩序構築は妥当です】

「相変わらず言い方が固い」

【久世恒一は曖昧な賞賛より、用途のある評価を好みます】

「そんなことまで分析してるのか」

【当然です】

可愛げはない。

だが、まあ、こいつは最初からそうだ。

「白い円盤の医療線も、統合室も、護衛も搬送も、だいぶ形になった」

【はい】

「で、だ」

俺は天井を見ながら言う。

「次は探す」

【妥当です】

これも即答だった。

【守る線と稼ぐ線を維持したまま、拾う線を再起動するべき時期です。現在の恒一は、受動的処理能力より能動的探索欲求の方が飽和しています】

「言い方」

【観測結果の整理です】

思わず笑う。

「まあ、否定はできないな」

【ええ。できません】

そうだ。できない。

半年で、いろいろ固まった。

金も動いた。

器もできた。

順番も売れるようになった。

守る線も引けた。

なら、もう十分だ。

向こうが投げてくる案件を待っているだけじゃない。

こっちから次の遺産を探しに行く。

今度は、そのための足場がある。

昔なら、拾って、起動して、売っていた。

いまは違う。

拾ったものを通す器も、守る仕組みも、ある程度こっちで持てている。

だったら。

「……次は、探す番だな」

【肯定】

スマホの向こうで、イヴの声はいつも通り平坦だった。

【守るために作った足場なら、その上で前に出るべきです】

その言い方は、ちょっとだけ気に入った。

工房の薄い照明の下で、机の上の端末や搬送箱や試作品を見渡す。

半年で、ずいぶん景色が変わった。

だが、まだ終わりじゃない。

むしろここからだ。

足場は固まった。

器もできた。

白い円盤も、ようやく社会へ触れ始めた。

なら次は、その先へ行く。

守るだけじゃない。

待つだけでもない。

こっちから動く。

そう決めると、不思議なくらい気持ちが軽くなった。

怖い話は増えた。

面倒も増えた。

会う相手の格も、昔に比べれば笑えるくらい上がった。

でも、その全部をひっくるめても、いまの俺はたぶん、少しだけ面白がっている。

それならまだ進める。

椅子から立ち上がり、机の上のメモ帳を引き寄せる。

ページの真ん中に、一行だけ書いた。

――次の遺産を探す。

短い。

でも、たぶん今はそれで充分だった。