軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話 もう、戻りません

「リーナ、頼む。もう一度──」

玄関の蝶番が鳴った時、私はミラに算術を教えていた。

りんごが三つ、みかんが二つ、合わせていくつ。ミラは指を折って数えている。五本の指を広げて「ご!」と言った声が、玄関の向こうから聞こえた声に掻き消された。

聞き覚えのある声だった。

聞きたくない声だった。

アンナが居間に駆け込んできた。顔がこわばっている。

「リーナ様、グラーフ侯爵が──」

「聞こえたわ」

立ち上がった。ミラが私の裾を掴んだ。不安そうな目で見上げている。

「アンナ、ミラを頼んで」

「ですが──」

「大丈夫」

大丈夫ではなかった。心臓が少し速い。でもそれは恐怖ではなく、不愉快なものに対する生理的な反応だ。虫が這っているのを見た時と同じ類の。

玄関に向かった。

グラーフ侯爵は、扉の前に立っていた。

一ヶ月半ぶりに見る元夫の顔は、法廷の時よりさらに痩せていた。頬がこけて、目の下に影がある。身なりは整えているが、クラヴァットの結び目が少し緩い。以前のエーリヒなら、そんなことは許さなかっただろう。見栄を張ることだけは得意な人だった。

「リーナ」

名前を呼んだ。

離縁手続き中の元妻を、まだ名前で呼ぶ。呼ばれたくなかった。その名前を、この人の声で聞きたくなかった。

「グラーフ侯爵。どのようなご用件でしょうか」

敬語で返した。距離を置く。壁を立てる。

エーリヒの顔が一瞬歪んだ。敬語が刺さったらしい。七年間、「エーリヒ様」と呼んでいた妻が、「グラーフ侯爵」と呼んでいる。その距離の意味を、この人はまだ理解していない。

「話がしたい。中に入れてもらえないか」

「玄関先でお願いします」

「リーナ──」

「玄関先で」

繰り返した。家の中にこの人を入れたくなかった。ミラがいるからだ。ミラにこの人を見せたくなかった。

エーリヒが一歩近づいた。

「もう一度やり直さないか」

言葉が来た。予想していた言葉だった。クラーラが言っていた。裁判で不利になったら、エーリヒは手段を選ばない。復縁を持ちかけて裁判を取り下げさせるのも、手段のひとつだ。

「裁判を取り下げてくれれば、今度こそ大切にする。約束する」

約束。

この人の口から出る「約束」には、何の担保もない。婚姻契約書の慰謝料条項すら気にしなかった人だ。

「お断りします」

「なぜだ。俺はこう見えても反省して──」

「七年間──」

遮った。言葉が口をついた。

「七年間、一度も──一度もですよ。部屋に来なかった人が、大切にする? 今さら?」

声が少し震えた。怒りではなかった。もっと情けないものだった。こんな言葉を、この人のために使わなければならないことが情けなかった。

エーリヒの口が閉じた。

開いた。

「それは──事情があって──」

「西棟二階の、あの部屋のことですか」

エーリヒの顔から血の気が引いた。西棟二階。クラーラと密会していた場所だ。私が知っていることを、この人は知らなかった。

「な──誰から」

「法廷でお話しします」

声が平坦に戻った。さっきの震えが恥ずかしかった。この人に感情を使うのは無駄だ。

エーリヒの目が揺れた。怒りとも悲しみともつかない、もっと情けないものが浮かんでいた。

「リーナ、俺は──」

「彼女は俺の領の経営顧問だ」

背後から、低い声が被さった。

振り返らなくてもわかった。足音で。この人の足音は、大きな体の割に静かだ。

ヴォルフ様が、私の後ろに立っていた。

いつ来たのかわからない。蝶番が鳴ったのを聞き逃したのか。それとも、裏口から入ったのか。

ヴォルフ様が一歩前に出た。私の前に立った。大きな背中が視界を塞ぐ。

「私用で来るなら、俺を通せ」

エーリヒが半歩退いた。

ヴォルフ様はエーリヒより背が高い。肩幅も広い。元軍人の体格が、玄関の狭い空間を圧している。

「レーヴェンシュタイン侯爵……なぜ、あなたがここに」

「質問には答えた。経営顧問だ。俺の領に関わる人間に、無断で接触するな」

経営顧問。

その言葉の響きが少し引っかかった。私はヴォルフ様の領地の経営顧問なのだろうか。いつそう決まったのだろう。

でも今はそれでいい。この場を収めてくれるなら、肩書きなど何でもいい。

エーリヒが唇を噛んだ。

何か言いかけた。でも、ヴォルフ様の目を見て、やめた。感情の読めない目だ。だからこそ怖いのだろう。何を考えているかわからない人間は、社交界の人間にとって最も扱いにくい。

「……覚えておけ」

エーリヒはそう言って踵を返した。覚えておけ。何を。自分でもわかっていないのだろう。捨て台詞としては三流だ。

足音が遠ざかる。門の外で馬車の扉が閉まる音がした。車輪が石畳を転がって、やがて聞こえなくなった。

ヴォルフ様が振り返った。

「大丈夫か」

「ええ。ありがとうございました」

「……すまなかった。もう少し早く来るべきだった」

来るべきだった。それはつまり、来るつもりだったということだ。今日ここに来たのは偶然ではなかったのだろうか。

聞かなかった。聞く必要はないと思った。

ヴォルフ様が外套の襟を直した。その時、手が見えた。

震えていた。

大きな手だ。剣を握っていた手。馬の手綱を引く手。私の前に敷いた外套を持ち上げた手。

その手が、かすかに震えている。

「ヴォルフ様、寒いのですか」

秋が深まっている。外套だけでは寒いのかもしれない。

ヴォルフ様が一瞬、不思議そうな顔をした。

「……いや」

それだけ言って、手をポケットに入れた。

寒くないのに震えている。なぜだろう。疲れているのかもしれない。自分の領地から馬を飛ばしてきたのなら、体も冷えるだろう。

「中でお茶でも」

「いや、俺は──」

「どうぞ。蜂蜜湯がありますわ。ヴォルフ様のお送りくださったもので」

ヴォルフ様は少し間を置いて、頷いた。

居間に戻ると、ミラがアンナの後ろに隠れていた。

アンナの服の裾を握って、顔だけ覗かせている。大きな目が不安で揺れていた。

「ミラ」

しゃがんで声をかけた。

「もう大丈夫よ」

ミラが裾から離れて、小さな歩幅で近づいてきた。

「あのひと、わるいひと?」

「もう関係のない人よ」

関係のない人。

そう口にした時、自分でも驚くほど、その言葉が自然だった。七年間の結婚が、五つの言葉で片づく。それが悲しいのかと聞かれれば──いや、悲しくない。ただ、そういうものだったのだ、と思うだけだ。

ミラが私の膝に頭をつけた。

「リーナさま、もうどこにもいかない?」

「行かないわ」

ミラの髪を撫でた。柔らかい。アンナが毎日丁寧に洗ってくれている。

ヴォルフ様が、居間の入口に立ったまま動かなかった。ミラと私を見ていた。硬い表情が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

気のせいかもしれない。この人の表情は読みにくい。

「座ってください、ヴォルフ様。蜂蜜湯を温め直しますわ」

ヴォルフ様は椅子に腰を下ろした。ミラがちらりとヴォルフ様を見た。まだ少し怖がっている。大きいから。でも、一ヶ月前のように泣きはしなかった。

アンナが蜂蜜湯を運んできた。二人分。

ヴォルフ様が杯を受け取った。一口飲んで、何も言わなかった。自分が送ったものを、自分で飲んでいる。少し変な状況だったが、指摘しなかった。

ヴォルフ様が帰った後、アンナが言った。

「侯爵様、今日は手紙も寄越さずにいらっしゃいましたね」

「……そうね」

「グラーフ侯爵がいらっしゃることを、ご存じだったのでしょうか」

わからない。ヴォルフ様はグラーフ家の動きをある程度把握している。水利権の問題で、向こうの領地に情報源があるのかもしれない。あるいは単なる偶然かもしれない。

でも、あの人は偶然で動くような人ではない。

「アンナ」

「はい」

「明日から、裏口の鍵もちゃんと閉めましょうね」

アンナが少し笑った。

「侯爵様が裏口からお入りになったこと、お気づきでしたか」

「蝶番が鳴らなかったもの」

あの蝶番は客が来れば必ず鳴る。鳴らなかったということは、玄関ではなく裏口から入ったということだ。私がエーリヒと話している間に、回り込んだのだろう。

なぜそんなことをしたのか。

たぶん、エーリヒが先に逃げないようにするためだ。玄関から入れば、エーリヒは入れ違いに逃げることができる。裏口から回り込めば、退路を断てる。

軍人の発想だ。

「変な人」

三回目だった。

アンナが笑った。「四回目ですよ、リーナ様」

数え方が違うらしい。

同日。グラーフ邸。

イレーネ・フォン・グラーフは、夕刻に書庫に向かった。

帳簿を隠さなければならない。審理で差し押さえ命令が出た。執行日の通知はまだ届いていない。だが、こういうものは突然来る。その前に──帳簿を──

書庫の扉に手をかけた。鍵を差し込む。回す。

扉を開けた。

書庫の中に、人がいた。

貴族院の紋章をつけた使者が二人。護衛の兵士が一人。帳簿の棚の前に立っている。

「グラーフ侯爵太夫人イレーネ殿ですか」

使者の声は事務的だった。

「貴族院審問官の命により、グラーフ侯爵家書庫所在の財務帳簿原本一式を差し押さえます。立ち会いをお願いいたします」

イレーネは扉を握ったまま動けなかった。

なぜ。

なぜ、今日。

通知を待ってからでいいと思っていた。まだ時間があるはずだった。

「なぜ……今日に限って……」

声が掠れた。

使者は答えなかった。事務的に帳簿を棚から取り出し、木箱に収めていく。一冊、二冊、三冊。イレーネが七年間──いや、もっと長く──書き溜めてきた帳簿が、他人の手で箱に詰められていく。

あの中には、全てが書いてある。

持参金の流用先。使途不明金の内訳。愛人への送金額。イレーネ自身が、几帳面に、一銭の狂いもなく記録した数字の全て。

記録しなければよかったのだ。

でも、記録せずにはいられなかった。記録することが、イレーネの制御だった。数字を管理していることが、この家を動かしている実感だった。

それが今、全て、持っていかれる。

使者が木箱の蓋を閉じた。封印を押した。貴族院の紋章。

「お立ち会い、ありがとうございます」

使者が頭を下げて、書庫を出ていった。護衛が続く。

イレーネは空になった棚の前に立っていた。

埃の跡だけが残っている。帳簿が並んでいた場所に、長方形の埃の跡。

指で触れた。埃が指先に付いた。

あの帳簿を、あの嫁が──。

七年間、何もしていないと思っていた。黙って座って、刺繍でもしていると。

違った。

あの女は、七年間ずっと、準備していたのだ。

イレーネの膝が震えた。書庫の椅子に座り込んだ。暗い部屋の中で、空の棚を見つめていた。

窓の外が暗くなっていく。使用人が明かりをつけに来なかった。忘れられたのか、近づくのを避けたのか。

どちらでもよかった。

暗い書庫に、一人で座っていた。