軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 法廷の初手

審理の前夜、ヴォルフ様が来た。

予告なしだった。日が暮れた頃、玄関の蝶番が鳴って、アンナが「侯爵様です」と告げた。仮住まいの蝶番は相変わらず直っていない。

居間に通すと、ヴォルフ様は椅子に座って、テーブルの上の書類に目を落とした。明日の審理のために私が並べていた資料だ。帳簿の十二枚、純潔証明書の写し、差し押さえ申請書の控え、アンナの証人宣誓書。

「揃っているな」

「ええ」

「提出の順番は」

「先に差し押さえ申請書と帳簿十二枚を出します。審問官が管理保管の正当性を判断してから、差し押さえ命令の可否に進む。純潔証明は明日は出しません。まず横領の話を固めて、白紙婚と不貞は次の審理に回します」

ヴォルフ様が頷いた。

沈黙が落ちた。

テーブルの上の蝋燭が揺れている。窓が少し開いていたらしい。立ち上がって閉めようとしたら、手が引き出しに当たった。引き出しの取っ手が緩くて、触るだけでがたがた言う。

「緊張しているか」

ヴォルフ様の声が背中にかかった。

嘘をつこうかと思った。でもこの人には通じない。

「少しだけ」

「少しか」

「……少しです」

嘘だった。かなり緊張していた。

明日、七年間の決着が始まる。始まるだけで、終わりではない。第一回審理は序盤戦だ。でも序盤の印象で裁判の流れが決まる。

ヴォルフ様が立ち上がった。帰るのかと思ったら、窓のところまで歩いて、自分で閉めた。私がさっき閉めそこねた窓だ。

「明日は俺がいる」

窓を閉めながら、そう言った。

声が低かった。いつもの低さだ。でも、窓に向かって言ったせいで、少しだけ響きが違った。

「証言台で嘘をつく奴は俺が見分ける。軍法務官は、そういう訓練を受けている」

振り返った時には、もういつもの顔に戻っていた。無表情で、感情の読めない目。

「……ありがとうございます」

ヴォルフ様は頷いて、玄関に向かった。蝶番がまた鳴った。

一人になった居間で、閉まった窓を見た。隙間風が止まっている。

手が少しだけ温かかった。引き出しに当たった手ではなく、書類を握っていた方の手が。なぜかはわからない。

朝。

鏡の前で身なりを整えた。

実家から送られてきた淡い青のドレス。地味だが品がある。派手なものを着て法廷に立てば、「侯爵家の金で贅沢をしていた女」と見られる。質素でありながら、子爵家の令嬢としての格を落とさないもの。母が選んでくれた。

髪を結い上げる。アンナが手伝ってくれた。

「ミラ、いい子にしていてね」

ミラは居間の椅子に座っている。一ヶ月前に領地で引き取ってから、少しずつ表情が出るようになった。まだ私から離れると不安がるが、アンナには慣れてきた。

「リーナさま、いってらっしゃい」

小さな声だった。練習したみたいに丁寧な発音。アンナが教えたのだろうか。

「行ってきます」

ミラの頭を撫でた。枯れ草の匂いはもうしない。昨夜、アンナが丁寧に洗ってくれた髪は、柔らかい茶色に光っていた。

貴族院の白い廊下を歩く。

七年間この日のために準備してきた。

さあ、始めましょう。

大法廷ではない。第一回審理は小法廷で行われる。それでも天井は高く、柱には彫刻が施され、床は磨かれた白い石だ。神殿に似ている。権威を示すために似せたのかもしれない。

傍聴席は十数席。まだ空いている席が多い。離縁訴訟の第一回審理は、社交界の注目を集めるほどの話題ではないらしい。

審問官席に、三人の法官が座っていた。黒い法衣。正面の第一法官は白髪の痩せた老人、左の第二法官は中年の女性、右の第三法官は禿頭の男。三名の合議制。

被告席にグラーフ侯爵がいた。

一ヶ月ぶりに見る元夫の顔は、少し痩せていた。社交界では見栄えのする顔だったが、法廷の冷たい光の下では血色が悪く見えた。隣に弁護人。その後ろに、イレーネ。

あの人は私を見た。

一瞬だけ。それから、視線を逸らした。唇の端がわずかに上がっていた。嘲りだ。まだ余裕があるつもりらしい。

原告席に座る。書類を並べる。手が震えていないか確認した。震えていない。指先が少し冷たいだけだ。

傍聴席の端に、ヴォルフ様が座っていた。

正装だった。

いつもの灰色の外套でも作業着でもない。黒い上着に白いクラヴァットを締めて、髪を整えている。侯爵の正装だ。広い肩が黒い布に包まれると、いつもより一回り大きく見えた。

──法廷に来るのに普段着というわけにはいかない。当然だろう。

そう思って、視線を戻した。

「第一回審理を開廷する」

第一法官の枯れた声が響いた。

手続きは淡々と進んだ。原告側の主張、被告側の主張、争点の整理。法廷は劇場ではない。何度も見てきた光景だ。台詞の掛け合いではなく、書面と証拠の積み上げだ。

「原告より、証拠の提出を求めます」

私は立ち上がった。

「帳簿原本の一部、十二枚を提出します。これらは婚姻中、侯爵夫人としての帳簿管理権限に基づき、使途不明金に関わる頁を管理保管の名目で保管していたものです」

書記官に帳簿を手渡す。十二枚の紙が法廷に出たことで、空気が少し変わった。

「あわせて、グラーフ侯爵家書庫に所在する帳簿原本の残余について、差し押さえ命令の発出を申請します。被申請者側による隠滅のおそれがあるため、速やかな執行を求めます」

第一法官が帳簿に目を通した。眼鏡を掛け直して、頁をめくる。

「被告側、反論はありますか」

被告席の弁護人が立ち上がりかけた。その前に、イレーネが口を開いた。

「捏造ですわ」

法廷が静まった。弁護人が困った顔をしている。当事者が直接発言するのは手続き上好ましくないが、あの人にそんな配慮はない。

「その帳簿は、この女が勝手に作ったものです。嫉妬に駆られた元嫁が、侯爵家の名誉を傷つけるために──」

「イレーネ殿」

第一法官が遮った。

「発言は弁護人を通してください」

イレーネの口が閉じた。唇が白くなっていた。怒りか、緊張か。

弁護人が立ち上がった。

「被告側としては、提出された帳簿の真正性に疑義を呈します。原告が管理保管していたと主張する十二枚が、グラーフ家の帳簿原本の一部である証拠がありません」

予想通りの反論だった。

私は手を挙げた。第一法官が頷く。

「提出した十二枚の筆跡は、イレーネ・フォン・グラーフ殿のものです。書庫に残る帳簿原本と照合すれば、同一の帳簿から抜き出されたものであることが確認できます。筆跡鑑定を申請いたします」

「筆跡鑑定ですか」

第一法官が書記官を見た。書記官が帳簿の筆跡を確認し、小さく頷いた。一目で分かるほど特徴的な筆跡なのだ。あの几帳面な字。数字が大きくなるほど字が小さくなる、あの癖。

「被告側に確認します。グラーフ侯爵家の書庫に、財務帳簿の原本は存在しますか」

弁護人が口ごもった。ここで「存在しない」と言えば虚偽になる。帳簿がない侯爵家など存在しない。

「……存在します」

「であれば、原告の差し押さえ申請を認容します」

第一法官が書記官に指示した。

「グラーフ侯爵家書庫所在の財務帳簿原本一式について、差し押さえ命令を発出する。執行日は追って通知する。差し押さえ後、神殿書記官による筆跡鑑定を実施する」

空気が動いた。

イレーネの顔から、嘲りが消えていた。代わりに、理解が追いつかない時の顔になっていた。一ヶ月半前、侯爵邸の応接間で見た顔と同じだ。

グラーフ侯爵──エーリヒは、被告席で動かなかった。表情が読めない。怒っているのか、困惑しているのか。たぶん、何が起きているのか理解できていないのだろう。この人は昔から、帳簿を一度も見たことがなかった。

「第一回審理を閉廷する。次回期日は追って通知します」

法官が立ち上がった。それで終わりだった。

あっけなかった、と思った。七年間準備してきた最初の一手が、これほどあっさり通るとは。

──いや、あっさり通ったのは、準備が万全だったからだ。裁判で派手な逆転劇が起きるのは、どちらかの準備が足りない時だけだ。

書類をまとめて、原告席を立った。

待合室の扉を開けた。

ミラが椅子から飛び降りて駆けてきた。

アンナが止める間もなく、ミラは私の腰にしがみついた。小さな腕が、思ったより強い力で巻きつく。

「おかえりなさい」

小さな声だった。でも、はっきりと。

膝をついてミラと目を合わせた。

「ただいま」

ミラの目が少しだけ赤い。泣いていたのだろうか。待っている間に不安になったのかもしれない。

アンナが後ろから言った。

「ずっと扉の方を見ていらっしゃいました。リーナ様が戻るまで」

私はミラの頭を撫でた。洗った髪が指の間をすり抜ける。

「待っていてくれたのね」

ミラが頷いた。こくりと。一ヶ月前、あの廃屋で震えていた子が、私の帰りを待っている。

廊下の向こうから足音が近づいてきた。ヴォルフ様だった。正装のまま、大きな影が廊下に伸びている。

「よくやった」

それだけ言って、通り過ぎようとした。

「ヴォルフ様」

立ち止まった。

「ありがとうございました」

ヴォルフ様は少しだけ顎を引いた。頷きとも言えないほど小さな動きだった。それから、また歩き出した。

廊下に靴音が遠ざかる。正装の黒い背中が角を曲がって消えた。

「リーナさま」

ミラが私の手を引いた。

「おなかすいた」

「……そうね。お昼にしましょう」

アンナが笑った。私もたぶん笑っていた。

エーリヒ・フォン・グラーフは、グラーフ邸の書斎で窓の前に立っていた。

法廷から戻って二時間が経つ。母は自室に籠もっている。弁護人は「次回までに対策を練る」と言って帰った。

あの女が、帳簿を持ち出していた。

十二枚。使途不明金の頁。

あの女──リーナが、七年の間にそれを書庫から抜き出していたのだ。

書庫の鍵は母が管理していた。リーナが自由に出入りできたはずがない。

いや──できたのか。侯爵夫人の帳簿管理権限。そんなものがあったのか。あったのだろう。俺は一度も確認しなかった。

そもそも俺は、帳簿を一度も見たことがない。

領地の金がどう動いているか、知ろうとしたことがない。母が全部やっていた。母がやっているなら問題ないと思っていた。

差し押さえ命令。

書庫の帳簿が、貴族院に持っていかれる。

あの帳簿に何が書かれているのか、俺は知らない。母は知っている。母の字で埋められた帳簿。使途不明金。

使途不明金。

あの金が、どこに消えたのか。クラーラとの──いや、それは別の話だ。

「……なぜ、帳簿を」

呟いた。答える者はいない。

あの女は法廷で泣かなかった。声も震えなかった。原告席に座って、書類を出して、手続き通りのことを言った。それだけだ。

七年間、あの女は侯爵邸で何をしていたのだ。

おとなしく座って、刺繍でもしていたと思っていた。

違ったのか。

傍聴席の隅で、フードを深く被った女がひとり、静かに席を立った。

誰にも気づかれず、法廷を出ていった。