メイドの矜持
作者: 丘野 境界
本文
クレイグ伯爵家。
メイドのセリは冷めないように布で覆った木盆を胸に抱え、館でいちばん北にある細い廊下を進んでいた。
背筋は真っ直ぐ、歩くペースは一定に。
石壁は夜の冷えを離さず、窓の桟には白く曇った息が張り付いている。
先に見える扉は色が抜け、蝶番がきしむたび、誰も触れたがらない古い記憶を揺らした。
指先で二度、控えめに叩く。
返事はない。
いつものことだ。
「失礼いたします」
短く告げて扉を開けた。
部屋は簡素を通り越していた。寝台、机、背の低い棚、そして薄汚れた毛布は一枚だけ。
最初の頃はここに敷かれていた分厚い絨毯や、ふわりと沈む羽布団ももうない。
窓辺の貧相な椅子に、銀髪の少女が座っている。
長い髪は目元を隠すように垂れ、背は猫のように丸い。
クレイグ伯爵家長女の、ヴィオレッタだ。
彼女は顔を上げ、セリの姿を認めると、わずかに肩の力をほどいた。
「本日の夕食となります」
セリは机に布を敷き、黒ずんだパンと温め直したスープを置く。
匙の角度を正し、水差しとコップを手の届くところへ寄せる。
「ありがとう」
「仕事ですから」
やり取りは短い。
そもそもセリはメイドである。
礼を言う必要すらないのだ。
部屋に視線を巡らせる。
昼間、ヴィオレッタはこの部屋ではなく執務室で、伯爵家の仕事を行っている。
その間に済ませた掃除は問題なく、現状は埃一つない。
よし。
セリは背筋を真っすぐに意識し、動きにも余計な音をさせないように気を付ける。
窓枠の結露を布で押さえる間、ヴィオレッタは言葉を足さなかった。
セリが出ていく時に一度だけ、小さく会釈をする。
それがいつものやりとりだ。
廊下へ戻り、メイドの控え室へと戻る。
木の扉の向こうから、同僚達の笑い声が漏れていた。
「お昼のスープ、ちゃんと薄めた?」
「ええ、あの子、また顔をしかめるわ」
「当主様のご意向だもの。私たちは従うだけよ」
誰かが得意げに囁き、誰かがそれに笑いを継いでいる。
控え室に入る。
彼女達がセリに構うことはない。
まあ、存在感が薄いというのが大きいのだけれど。
部屋の隅にある木桶に近付くと、布巾を絞って、棚に食器を戻した。
彼女達の話の輪に入ることも、顔を背けることもしない。
ただ、声が飛べば短く返す。
「セリ、今日の夕飯は貴方の担当だったでしょ?」
「スープは薄めていません」
それだけ言って、また手を動かす。
水の落ちる音、布巾が軽くなる感触、やるべき作業の順番。
事実だけが彼女の手元に残る。
クレイグ伯爵家は、先代イザベル夫人の死、そして数日後に後妻とその連れ子クロエがやって来てから、すっかり色を変えた。
というのが、古株だった先輩メイドの言葉だ。
ヴィオレッタの味方をする使用人は今の当主や後妻達に疎まれ、今はもう残っていない。
金髪碧眼の可憐な娘クロエは廊下を弾むように歩き、わざと義姉に肩をぶつけては笑う。
当主も、ヴィオレッタの婚約者であったはずの青年も、彼女の笑顔を好んだ。
ヴィオレッタの実父である当主。
そう呼ばれているが、実際は『当主代行』にすぎない。
真の権限は先代の血を引くヴィオレッタに帰属しているのだ。
しかしその当主は、視察や他家への挨拶と称して外出を重ねていた。
実務はどこへ行ったのかといえば、ヴィオレッタが担当している。
書類はすべてヴィオレッタのところへ回り、冷えた部屋と執務室を往復しながら彼女が目を通す。
その間、当主と後妻達が何をしていたかというと、やれ狩りだ茶会だパーティーだ。
使用人達の多くは、上の顔色に倣っていた。
強い者に付き、弱い者を遠ざける。
ヴィオレッタの部屋からは鏡台が消え、髪飾りが消え、やがて毛布以外の温もりが消えた。
部屋や家具、小物だけではない。
婚約の席も、いつのまにか妹へ移っていた――それもこの館の『当たり前』の一つとして。
そのたびに、控え室では、誰それが何を取り上げたと誇らしげに語る声があがっていた。
セリは、彼女達を笑わない。
だが、非難も、ヴィオレッタを慰めることもしない。
ヴィオレッタの味方はしない。
ただし、敵にもならない。
セリはメイドである。
与えられた仕事を正確に行う。
それが職務であり、他は余計だ。
◇◇◇
ヴィオレッタの誕生日が近づきつつあった。
あと一週間で、ヴィオレッタは成人を迎える。
控え室では「今年も何もないのだろう」と囁きが行き交い、残り物の安い菓子の話で笑い合う。
貴族子女の成人を祝わないことが対外的にどう映るのか、セリには分からない。
必要な知識に含まれていないので、分かろうともしない。
ただ帳面のその日に小さな印をつけ、寝具の替え時を整える。
その夜、ヴィオレッタが珍しくセリを呼び止めた。
「……お願いがあるの」
「はい」
「この手紙を、配達人に届けてもらえる? 必ず、貴方の手渡しで」
セリは、その手紙をヴィオレッタから受け取った。
宛先は王都の貴族院で、差出人はヴィオレッタ自身だ。
セリは一瞥し、黙って頷いた。
「分かりました」
「ありがとう」
「仕事ですから」
翌朝、門番小屋の前で配達人を呼び止め、封を閉じた手紙を差し出した。
「差出人の確認をお願いします」
男は顎鬚を撫で、表と裏を見比べた。
「……ヴィオレッタ・クレイグ嬢の署名だな。承知した」
配達人が受領札を出した。
セリはそれを受け取って、胸ポケットに収めた。
ここまでが自分の仕事で、ここから先は自分の仕事ではない。
セリはそう理解して配達人に一礼し、踵を返した。
数日後。
正門から、数台の馬車が入り、先頭の公爵家の紋をつけた馬車からは外套の襟を立てた男が降り立った。
他の馬車からは、多くの役人が出てきた。
公爵家は、クレイグ伯爵家の寄親だ。
その存在に、館の空気がざわめいた。
館内は大わらわとなり、当主達は当然として、セリ達使用人達も広間に集められた。
情報に通じている同僚の話によると、先頭に立つ外套の男は現公爵の弟で、役所の務めも兼ねる人物なのだという。
立派な背広を着た当主、華やかなドレスの後妻とその娘であるクロエ、そしてみすぼらしい姿をしたヴィオレッタが、男を出迎えた。
そんな伯爵家の面々の前で、男は懐から取り出した書類を読み上げた。
「クレイグ伯爵家に通達する。伯爵家の爵位は前当主イザベル殿がその権を有し、現ご当主殿はあくまで代行にすぎない。本日、嫡出の娘ヴィオレッタ嬢が成人に達したため、伯爵位は彼女に移行することとなる」
ざわめきがはじけた。
当主(代行)は顔を真っ赤にした。
「私は伯爵だ、ずっとそう呼ばれてきていたんだぞ!」
当主は声を荒らげたが、男は眉一つ動かさなかった。
「呼称がどうであれ、定めは定め。周りに言われ続け、いつの間にか自分自身が本物の伯爵と、思い込んでしまったか。哀れだな。持っている印章を出せ」
「ぐぐぐ……」
男の要請に、当主は背広をまさぐった。
印章など、長い間使っていなかったのだろう。
胸ポケットに小さな革袋の存在を見つけ、それを取り出した。
「おい」
男が声を上げると、役人達がテーブルを用意し、布を広げた。
男が書類を、テーブルに置いた
「これは、貴方が当主ではなく、代行であったことが明記された確認書だ。ヴィオレッタ嬢の爵位継承には、ここに貴方の署名と印が必要となる」
「そんなモノに、サインできるか!」
「ならば、裁判となるな」
「裁判!?」
「当然だろう。イザベラ前伯爵とヴィオレッタ嬢は血が繋がっていて、貴方は婿養子だ。ヴィオレッタ嬢の成人後の継承手続きが申請されている。貴方が当主代行である書類も貴族院にある。ここまで明らかなのに権利の委譲を拒否するというのならば、これはお家乗っ取りの容疑が掛けられているも同然ではないか」
それを遠くから見ていたセリは、なるほど先日ヴィオレッタから託された手紙はそれであったかと、理解した。
当主は諦めたのか、諦めたくなくとも役人達には逆らえないのか、歯軋りしながら書類にサインをし、印章を押した。
当主だった男はその場に崩れ落ちた。
後妻やその娘が騒ぎ立てたが、これは役人達が取り押さえた。
受け取った役人が、書類に視線を走らせた。
男もその書類を確かめ、互いに頷き合う。
男の視線がこちら、使用人達に向けられた。
「 新(・) た(・) な(・) 当(・) 主(・) の要請により、家政の刷新に先立ち、現使用人一同には一時『待機』を命じる。必要に応じ、こちらで用意した人員を派遣することとなる」
セリの周囲の使用人達がざわめいた。
控え室に戻った彼女達の表情は皆、不安そうなものになっていた。
「待機って……私達、どうなるの?」
「解雇の言い換えじゃないの?」
「紹介状は書いてくれるって言うけど……お嬢様、いえ、ご当主様にしてたことも書かれるってことでしょ……?」
「これからどうすればいいのよ……」
囁きに囁きが重なり、誰かが泣き、嘆きの声が控え室に響き渡る。
セリは棚卸しの表に印をつけ、引き継ぎのための束を整えた。
命じられれば明け渡せるよう、順番に。
待機と言うが、誰かが言っていたように事実上の解雇だろう。
ならば、自分も近い内に出ていくことになる。
蓄えはある。
余所で使用人の仕事ができるかどうかは、分からない。
他の仕事ができるかどうかは、考える必要がある。
仕事をしながら、セリは頭の中で将来について少し、思いを馳せた。
そしてすぐに、仕事に集中し始めた。
やがて裏手の石畳に車輪の音が続き、古い衣装箱や私物が運び出された。
控え室では「当主代行は実家の男爵家に戻ろうとしたが、外聞が悪いと拒否された」「後妻とクロエは平民に戻った」「元婚約者も一緒に」などと憶測が飛んでいた。
セリは相づちも打たず、引継ぎ用の束を紐で括った。
事実は仕事の邪魔をしない。
◇◇◇
数日後。
セリは、執務室に呼び出された。
今までいた使用人の多くは去り、新たにやって来た使用人達と入れ替わっていった。
執務室のドアをノックをすると、中から返事があった。
「どうぞ」
「失礼します」
新しく用意された簡素な礼服に身を包み、長い銀髪を整えたヴィオレッタが、執務机の主として座っていた。
背は伸び、目元も隠れていない。
立派な貴族令嬢の姿だ。
彼女は真っ直ぐこちらを見た。
「貴方には、残ってもらいたいの」
予想外の言葉だった。
セリはてっきり、他の元同僚達のようにクビを言い渡されるか、よくて新しい勤め先の紹介かと思っていたのだ。
ヴィオレッタは、コテンと首を傾げた。
「不思議そうな顔をしているわね」
顔に出ていたらしい。
「私はただメイドとして、当たり前の仕事をしていただけですので」
「当たり前の仕事を、当たり前にしてくれる人が必要なの。貴方は私の味方ではなかったけれど、敵でもなかった。私に対して、当たり前のメイドとして接してくれた貴方を評価しています」
ヴィオレッタの言葉に、セリの胸が少しだけ熱くなった。
しかしそれをおくびにも出さず、セリは頭を下げた。
「そういうことでしたら、承知いたしました」
「ありがとう」
「仕事ですから」
◇◇◇
公爵家の手配した新しい使用人達が増えてきた。
最初に来た使用人達の一団はベテラン揃いであったが、彼らは公爵家のメイド達であり、次第にその数は減り、入れ替わるように新人のメイドが入り始めた。
強張った表情、落ち着かない所作、戸惑いの目。
なるべく平静を装うよう教育はされているのだろうが、さすがにセリにも彼女達が緊張しているのが伝わっていた。
彼らは列を作り、控えめに頭を下げた。
「セリさん……貴方がここでの仕事を教えてくださると伺いました」
前に出た若い女が、恐る恐る言う。
セリは頷き、短く告げる。
「よろしくお願いします」
セリの仕事が一つ増えた。
若いメイド達の教育である。
掃除の順番は、端から中央へ。
埃は外から内へ追い込まない。
布は多めに、力は少なめに。
「ベッドの角はこう巻きます。手前から奥へ、最後に掌で均します」
ベッドメイク。
客間で手本をやってみせ、相手の手で繰り返させる。
うまくいかない分だけ、回数を増やす。
叱る必要があるかどうかは、結果だけが教える。
自分でもできるのだ。
大抵の子は何度か失敗を繰り返し、次第に様になっていった。
「食器は水の温度を保って。銀は先に、刃物は最後。布巾は薄く、指は厚く」
食器洗い。
言葉は少なく、指示は具体的に。
「厨房では少し熱めにスープを入れてもらっています。提供する時は熱すぎず、冷めすぎず。湯気の揺れで判断します。食器の向きは縁の柄で判断してください」
給仕。
器を持つ手は震わせず、置く時にも音を立てない。
匙の向き、皿の正面、ナプキンのかかり具合――どれも客の目に触れる細部だ。
それらを整えることで、料理の価値は崩れずに届く。
セリは黙々と示し、同じようにやってみせるよう新人に促した。
そんな日々が続いて、しばらくして。
ある日の終業後、セリはヴィオレッタから執務室に呼び出された。
「セリ。改めて、何か礼をしたいの。貴方の教育で、新しい子達の仕事もよく回っているわ」
「お気持ちだけで十分です」
「気持ちというのは結局、心と言葉だけで、形がないのよ。セリはそれで納得しているようだけど、何か形に残るモノをこちらとしては与えたい。半分は私の自己満足なんだけど、政治的には信賞必罰。ここで働いている人達にも示しにもなるわ」
「なるほど」
そういうことならば、セリにも納得だ。
働いている同僚達のモチベーションにもなるのなら、こちらも応えなければならない。
少し考えて、セリは言った。
「では、ノートを一冊いただけますか」
「ノート?」
「いちいち新しい者に同じことを説明するのは、少し面倒です。手順を書き残しておけば、読むだけで分かりますから。誰が入っても、同じ『当たり前』を続けられます」
ヴィオレッタは一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。
「……それならすぐ、用意しましょう」
紙は安くない。
けれど、当主である伯爵、ヴィオレッタはそれを許可した。
翌日、質素だが新しいノートがセリの手に渡った。
表紙は布張りで、角は堅い。
セリは最初の頁に『掃除の順番』と書き、次に『寝具』と書き、その次に『台所』と記した。行間は広く、余白を多めに取った。
余白を取ったのは、新しく気づいたことを書き足せるようにするためだ。
このノートの役目は、使用人達にとって共通する『館のルール』だ。
一度記した仕事は、何度読んでも同じでなければならない。
やがてこの『メイドの手引き』は、他家でも真似られるようになったという。
誰かが持ち込み、誰かが写し、誰かが表紙を変えて置き直す。
そして代々受け継がれていく。
まあ、セリには関係がない。
彼女の仕事は、ここで今日の頁を埋めることだ。
◇◇◇
歳月は流れる。
あれから数年が経過した。
夕刻前。
メイド長となったセリは、ホールにメイド達を並べた。
左右に、等間隔に。
普段はしないが、今日は特別だ。
館の大扉が開いた。
王城での重要会議から戻ったヴィオレッタが、二人の従者を伴いホールに姿を現した。
書類の入った鞄を片腕に抱え、凛とした足取りは、もはや冴えない銀髪の少女ではなかった。
ヴィオレッタは足を止め、静かに視線を向ける。
セリは頭を下げた。
「お帰りなさいませ、ご当主様」
「ただいま、セリ」
呼ばれて顔を上げると、ヴィオレッタはわずかに口元を綻ばせた。
「いつも、ご苦労様」
セリは背筋を正し、再び深く頭を下げた。
「仕事ですから」
ヴィオレッタは階段を上り、王城から持ち帰った書類を抱えて執務室へと消えていく。
セリは視線を落とし、仲間のメイドたちに目配せをして散っていった。
まずは、夕食の準備である。