軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

幕間:藤野隆司の受難

湿った土と、鉄錆のような血の匂いが混ざった冷気が、喉の奥をザラリと撫でて肺を満たす。

富士山樹海ダンジョンの第十層。青白い発光苔が壁面を覆う広々とした 安全地帯(セーフティエリア) の岩肌に背を預け、 黄金級(ゴールド) 探索者である 藤野 隆司(ふじの りゅうじ) は、凝り固まった眉間を指で押し込みながら、重く熱い息を吐き出した。

視線の先では、数十人の大学生たちが賑やかな声を上げながら、野営用のテントを張ったり、携帯食料の準備を進めたりしている。本来なら、引率のプロとして彼らの手際をチェックして回る時間だ。だが、藤野の胃袋には、鉛の塊でも飲み下したような鈍い重圧が、内臓を下に引っ張るように居座り続けている。

「……あー、胃薬持ってくるんだった」

「リーダー、嫌な汗かいてますよ。そんなにガキどものお守りがキツいかねぇ」

傍らで、前衛の 武田 豪人(たけだ ごうと) が、自分の背丈ほどもある大盾を岩肌に立てかけながら苦笑する。藤野は手元の水筒を煽り、冷たい水で胃の重さを散らすように流し込んだ。

「そりゃあな。俺たち『 樹海縁(ジュカイエン) 』だけならともかく、舟木道場の連中まで巻き込んでるんだ。責任が重すぎる」

事の発端は、地元の大学教授――探索部の顧問を務める人物からの依頼だった。大学のダンジョン演習の引率を、地元の名士である舟木家に頼み込んできたのだ。

道場に出入りしている縁で、船橋が居る藤野たち 黄金級(ゴールド) のパーティに白羽の矢が立ち、さらに舟木家の門下生で構成された 白銀級(シルバー) 上位のパーティがサポートとして同行することになった。

依頼自体は、浅層と中層の境界である第十層までの往復。 青銅級(ブロンズ) がメインの学生たちにとっては適正な難易度であり、決して難しい仕事ではないはずだった。

――あの、一人の例外を除いては。

「にしても、最近の若いのは随分と血の気が多いっていうか、なんというか……」

武田の視線が、学生の集団から少し離れた場所へと向けられる。そこでは、取り巻きを連れて談笑している明るい茶髪の青年がいた。

新田 拓海(にった たくみ) 。二十二歳の大学四年生。

学生でありながら 黄金級(ゴールド) に到達した、紛れもない才能の持ち主だ。一目で高級品と分かるブランド物の防具を着込み、見栄えのいい魔石のアクセサリーをじゃらじゃらと鳴らしている。

藤野の脳裏に、ダンジョンに潜る前、ゲート前で交わしたやり取りが蘇る。

『へえ、教授が直々に依頼したって聞いてましたけど……随分と地味っていうか、強そうに見えないですね。もしかして、陰の実力者的な感じですか?』

あからさまな値踏みの視線だった。藤野は大人として波風を立てないよう、曖昧な愛想笑いでやり過ごそうとしたが、新田はさらに踏み込んできた。

『ちなみに俺、レベル267なんですけど。皆さんもそのくらいですか?』

『……そうやって、自分の手札を安易に明かすのは賢いとは言えないな。ダンジョンじゃ、何が命取りになるか分からないからね』

諭すように告げた藤野の言葉に、新田の顔から薄ら笑いが消えた。

『なんすか、それ。俺らのことを守ってくれるプロだって聞いたから、実力を確認しただけじゃないですか』

『そうだねぇ。君よりもレベルは低いかもしれない。けど、経験なら負けてないつもりだよ』

その返答を聞いた瞬間、新田はあからさまに鼻で笑い、「あっそ。頼りにしてますよ、ベテランさん」と興味を失ったように背を向けた。

自分の方が数字上は格上だ。その一点だけで、彼の中で藤野たちプロパーティは「才能がないから何年もかかってそのレベルに燻っている底辺」へと格下げされたらしい。

確かに、新田のレベル267という数字は、学生としては異常なほどの才能だ。26層以上の『中層下部』すら見据えられるポテンシャルを秘めている。

だが、藤野の眼には、新田の身を包む高級な防具の「汚れのなさ」が、何よりも雄弁に彼の実態を語っているように見えた。修羅場を潜り抜けた経験の欠如。数字という見栄えの良いカタログスペックだけを盲信し、ダンジョンという理不尽な暴力の本当の恐ろしさを知らない、青臭い立ち姿。

31層より下の『深層』―― 白金級(プラチナ) が挑むような死地へ向かうのでもない限り、16層以降の『中層』において生死を分けるのは、一時的なステータスの差ではなく、極限状態での『経験と危機管理能力』だ。

学生たちの噂話で耳にしたが、新田は高校時代、そして大学のインカレでも、帝央大探索部の桐生という男に敗北し続けているらしい。

家族の都合で上京できず地方大学に燻っているというコンプレックスが、都心の有名大学である帝央大への一方的なライバル心に火をつけ、「環境に恵まれただけの自称エリート」と敵視する歪んだ反骨心を生み出している。

だからこそ、学生という身分で黄金級に到達した自分は「特別な人間」なのだと、他者を見下すことでしか自我を保てないのだろう。

そうした若者特有の、痛々しいほどの選民意識と焦り。

ゲート前で既に確かな危機感を覚えていた藤野だったが、今回の演習はあくまで10層まで。 黒鉄級(アイアン) から 青銅級(ブロンズ) の学生にとっては適正な『浅層』の最下部だ。無茶をする余地はないと、自分に言い聞かせていた。

だが、その淡い期待は、目前で脆くも崩れ去ろうとしている。

「すみません、ここら辺で終わったら、俺らの練習になんないですよ」

不意に、野営準備を終えた新田が、取り巻きの四人を引き連れて藤野たちの前にやってきた。

彼のパーティメンバーは全員が 白銀級(シルバー) 中位から上位。学生としては破格の戦力だ。

「予定ではここで野営だ。何か不満でも?」

藤野が努めて冷静な声で問うと、新田は肩をすくめる。

「不満だらけっすよ。こんな安全地帯で寝袋広げて、何が演習ですか。俺ら、 16層(中層) あたりに行きますから」

「……待て。スタンピードからまだ日も経っていない。ダンジョンの魔力濃度が不安定だから、これ以上潜るのはやめておけ」

藤野の横から、パーティ随一の実力を持つスカウト・ 船橋 史郎(ふなばし しろう) が鋭い声を飛ばす。だが、新田は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「はぁ? もうとっくに落ち着いてるでしょ。それとも何ですか? 自分たちだと、これより下の階層じゃ俺らを守りきれないってことっすか?」

「……そう思ってもらって構わない」

船橋が感情の読めない冷たい瞳で返すと、新田は勝ち誇ったように笑う。

「ま、じゃあお宅らはここにいて大丈夫です。俺らのパーティだけで中層に行ってくるんで。他の部員たちの引率お願いします」

「おい、勝手な行動は――」

「心配しなくても、いつも潜ってる階層です。寝る時には帰ってきますよ。俺らも 十六層以降(中層) のど真ん中で寝泊まりするほど馬鹿じゃないんで」

藤野の制止を振り切り、新田たちはそのまま第十一層へと続く下り階段の方へ歩き出してしまう。

残された藤野は、こみ上げる苛立ちで口内を満たす唾液が苦く感じられ、無意識に顎の筋肉がこわばるのを自覚した。

最悪の展開だ。引率対象を危険な階層へ単独で行かせるわけにはいかないが、だからといって本隊の学生たちをここに放置して全員で追うわけにもいかない。

「……厄介なことになったな」

藤野は素早く戦力を頭の中で計算し、隣の二人に視線を向ける。

「悪いが、武田と船橋の二人で、あいつらの後ろをつけてくれないか。気づかれないように距離を開けて、いざという時の盾役と、危機検知だけ頼む」

指示を受けた船橋は、冷ややかな視線を下り階段へ向けたまま、舌打ちと共に前髪を乱暴に払いのけた。

「どうしてこうも、力を持ったガキってのは……お嬢はそんなことなかったのによ」

お嬢とは、船橋が世話になっている舟木家の御令嬢のことだ。本人は独身のくせに、彼女が小さい頃から道場で可愛がってきたらしく、二言目には「お嬢、お嬢」と口にする筋金入りの親バカ――ならぬ恩人バカである。

「大体、探索者ってのは自己責任だろ? 最初に学ぶことだぜ?」

船橋は毒づいている。

「じゃあ、辞めとくか?」

「……ま、ガキに死なれちゃ寝覚めが悪いから行くけどよ。もしなんかあっても、無理そうなら見捨てるからな」

船橋はそう言い捨てながらも、短剣の柄を叩いて立ち上がる。隣で大盾を持ち上げた武田も、困ったように笑った。

「ウチの娘には、あんな勘違い野郎じゃなくて、いい子に育つように祈るしかないな」

武田が、大盾を支えるゴツゴツとした無骨な指先で、首から下げた銀のロケットペンダントを器用に開く。そこには、満面の笑みを浮かべた三歳の娘の写真が収められていた。

「今朝もよ、出発の時に『パパ、お仕事がんばってね』って、あの小っちゃい手で送り出してくれてな。ぎゅって抱きしめると、すっごい嬉しそうな顔して、俺の顔に自分の頬っぺたをすりすりくっつけてくるんだよ。……ほんと、こんなデカい盾を持ったり、魔物を殴ったりするためじゃなくて、愛しい娘を抱っこするために俺の腕はあるってのによぉ」

血とカビの匂いが漂う薄暗いダンジョンの中で、その親バカ全開の語り口だけが、一瞬だけ陽だまりのような体温を帯びて響く。

藤野も釣られて、強張っていた頬の筋肉を少しだけ緩ませた。

船橋は小さく息を吐き、改めて気を引き締めるように声をかけた。

「……ま、親ばか武田のためにも無茶はできねぇな。行くか」

「おう」

二人の頼れる仲間が、新田たちが消えた下り階段へと足音を消して進んでいく。

藤野は彼らの背中を見送った後、冷たい風が吹き抜けるダンジョンの奥深くへと視線を向けた。

どうか、何も起きないと良いんだが。

祈るような思考とは裏腹に、藤野の胃の奥に居座る鉛の塊は、先ほどよりもさらに重く、氷のように冷たく脈打っていた。