作品タイトル不明
第81話 おじさんと、おじさん
その日の夜。俺は『湖翠楼』の離れにある特別室へと足を運んでいた。
「おお、来てくれたかミナト! さあ、上がってくれ」
純和風の引き戸を開けると、視界を塞ぐような巨体が現れた。ラフな浴衣姿に着替えたジョンが、満面の笑みで出迎えてくれる。
「お邪魔するよ。……うおっ、すげぇ部屋だな」
踏み込んだ室内の光景に、感嘆の声が漏れる。
特別室というだけあって、室内は一般的な客室の倍以上はあろうかという広さだった。
真新しい畳の匂いが香る本木の和室に、手入れの行き届いた坪庭を望む広縁。そこには専用のヒノキ風呂まで備え付けられており、ほのかに立ち昇る湯気が、視界に白い靄をかけている。
なんというか、男の憧れる『大人の秘密基地』感が凄まじい。
(いいなぁこういう部屋……テンション上がるわ)
『お気に召したのなら、マスターご自身でお造りになられてはどうですか?』
(秘密基地、か……ありかもな)
誰の視線も届かず、システムからの喧騒すら遮断された空間。壁には用途別に調整した手製の武器を並べ、磨かれた木目にもたれて一人で酒を飲む。
(自分みたいな奴には縁がない場所だと思っていたが、いざこうして来てみるとワクワクしてしまうな)
かつて空き地に廃材を拾い集めて、友人たちと秘密基地を作っていたときの、胸の奥が熱を帯びるような感覚が蘇ってくる。
昔を懐かしみながら、俺は畳を踏み締め、広縁に置かれた座卓の前に腰を下ろした。対面には、すでにジョンが胡座をかいて座っている。
「本当に、こんな素晴らしい部屋を譲ってくれて感謝しているよ」
ジョンは上機嫌に笑いながら、座卓の上にずらりと並べられた酒瓶と、色鮮やかな小鉢に盛られたツマミの数々を指し示した。
「ささやかな礼だが、今日は私の奢りだ。旅館の主人に頼んで、地元の名産品を使った極上の料理に、日本の地酒、そして私の故郷である英国が誇るスコッチも特別に用意してもらったんだ。食事は済ませているかもしれないが、まだ料理は食べられそうかい?」
「ああ、温泉に浸かったらまた腹が減っちまってね。マジでありがたく頂かせてもらうよ。……じゃあ、とりあえず一杯目はビールで乾杯するか」
「『とりあえずビール』だな! 日本人は皆そう言う。母国のパブでは最初から各々が好きなエールやジンを頼むことが多いが、全員で同じ酒を頼んで、素早く祝杯を分かち合うというのはいかにも和を尊ぶ日本らしくて素晴らしい文化だと思うよ」
「ははっ。単に喉が渇いてて、一番早く出てくる冷たい酒ってだけだと思うけどな。それじゃ、乾杯」
「乾杯!」
チン、とグラスが小気味良い音を立てる。
濃いめの甘辛いタレで照りがついた山梨名物の『鳥もつ煮』を口に放り込み、すかさずよく冷えたビールを一気に流し込む。
「うんめぇえええ!」
……控えめに言って最高だ。
「ビューティフル! この濃厚なソースと内臓の旨味が、ビールの爽快な苦味と見事に調和している。これはクセになりそうだ!」
外国から来たジョンの口に合うのか心配していたが、ばっちりだったみたいだ。
ビールを飲み切り、落ち着いたところで、ジョンが勧めてくれた『ロイヤルハウスホールド』というウィスキーをストレートで口に含む。
シルクのようになめらかで、気品のある甘い香りが口いっぱいに広がった。
「こいつはすげぇな。俺みたいな素人が飲んでも、信じられないくらい美味いってことだけは分かる」
「ははは、そう言ってもらえて嬉しいよ。そいつは元々、英国王室御用達のスコッチでね。私の母国でも一般には市販されていない幻の酒なんだが、幸い日本でなら手に入ると聞いて、知り合いに言って特別に用意してもらったんだ」
「どおりで美味いわけだ。わざわざそんなすごい酒を……ありがとな」
『ちなみにマスター。そのウイスキーは現在、世界中で日本でのみ一般への販売が許可されている特別な銘柄ですよ』
(へぇ、そんな超レアな酒を俺のために……本当に良い奴だな、ジョンは)
ナビ子の補足に内心で驚きつつ、俺は上機嫌な巨漢へと笑いかけた。
「しかし、日本酒も素晴らしいね。山梨の地酒だというこの『 七賢(しちけん) 』という銘柄も、フルーティで実にするすると飲めてしまうな。美しいサシの入った新鮮な馬刺しとも抜群に合う」
年齢も国籍も違う俺たちだったが、美味い酒と絶品のツマミ、それに『旅先での一期一会』という非日常感が壁を取り払い、会話はすぐに弾み始めた。
数杯の酒を空けた後、俺は気になっていたことを尋ねた。
「ジョン、その立派な体格……何かスポーツでもやってるのか?」
目の前の巨体に視線を向けると、ジョンは酒を注ごうとしていた手をピタリと止め、やがて肩を震わせて豪快な笑い声を上げた。
「ははは! 隠すつもりはなかったが、やはり分かるか。実は、私は探索者なんだ」
「へぇ、そうなのか。てっきりどっかのプロレスラーかとばっかり思ってたよ」
俺が軽口を叩くと、ジョンは気を悪くするどころかガハハと豪快に笑った。
「ああ。こう見えても母国ではそこそこの腕前でね。探索者ランクは『 黄金級(ゴールド) 』といったところだ」
ジョンは誇らしげに厚い胸板を張る。
「奇遇だな。実は俺も探索者なんだ。ランクも同じく『黄金級』だよ」
「なんと! それは奇遇だ。……それにしてもミナトのその無駄のない体幹と筋肉の付き方、ただの一般人には見えないと思ったが、なるほどな」
ジョンの鋭い視線が、俺の肩回りや腕の筋肉をなぞるように動く。
「まあ、今はランクとか面倒なことは抜きにして、ただの観光客同士ってことで楽しもうぜ」
「ははは、違いない!」
俺がグラスを傾けて言うと、ジョンも愉快そうに杯を合わせた。
琥珀色の液体が減っていくにつれ、二人の口が次第に滑らかになっていく。
「それにしてもジョン、随分と日本語が上手いな」
「ははは、まあね。昔から日本という国が大好きだからね。本当に、いつも期待を超えてくれる。今回部屋を譲ってくれたミナトのように……そういえば」
ジョンが何かを思い出したように、分厚い掌をポンと打ち鳴らす。
「この間だって、このあたりで起きたスタンピードのために多くの探索者が戦っただろう? それに……事態を終結させた二人の探索者は本当に素晴らしい。聞くところによると、何も要求せずに去っていったらしいじゃないか」
「案外、目立つのが嫌だっただけかもしれないけどな」
面と向かって大絶賛されると、背中に変な汗をかきそうだ。俺は誤魔化すように頬を掻き、視線をそらして相槌を打つ。
「そうかもしれないな。でも、自らの功績をひけらかさないなんて、誰にでもできることじゃないさ」
「なんか、あんたの国のトップ探索者……騎士王様もニュースで似たようなこと言って来日してたな。イギリス人ってのは、みんなそういう感じなのかい?」
「えっ!? あ、いや……ま、まぁ、そんなところだよ」
何気なく口にした言葉に、ジョンの動きが硬直する。彼は首の筋肉を強張らせ、視線を中空に彷徨わせながら、どうにか苦笑いを絞り出した。
(なるほどな。自国のトップ探索者の受け売りで熱く語ってたのを指摘されたから、気恥ずかしくなったのか)
「まぁ、でも立派な考え方だと思うぜ。騎士王様も、きっとあんたみたいに国や民を想う高潔な人なんだろうな」
フォローのつもりで笑いかけると、ジョンは太い首をうなだれさせ、口角だけを僅かに引き上げた。
「……そうあろうと努めてはいるだろうね。だが、彼とて完璧な超人というわけではないよ」
「そりゃ、当たり前だろ」
俺がウイスキーを口に運びながらあっさりと返すと、ジョンは弾かれたように顔を上げた。
「当たり前……? だが、『 天鋼級(アダマンタイト) 』だぞ? 彼らは現代に現れた神だと、何でもできて当然だと、民衆からそう思われているんじゃないか?」
「まあ、世間の奴らはそう思うかもな。それに、俺たちみたいな『黄金級』と比べりゃ、出来ることの規模もデカさもまるで違うだろうさ。でも、だからって何でも完璧なわけはねぇだろうよ」
俺は、不器用な先輩の顔を思い浮かべる。
「その人たちだって、元は俺たちと同じただの人間だぜ。家族に会えなきゃホームシックにもなるだろうし、気心の知れた友達とは、くだらないことで馬鹿みたいに笑ったりするんだよ」
「……」
ジョンの眼窩が見開かれ、張り詰めていた肩の筋肉が、ふっと力を失うように落ちる。
「……ミナトは、なんというか、変わっているな」
「そうか? 日本じゃ、みんなこのくらい自由な発言してるよ」
「そうか……そうなんだろうな。ははは!」
ジョンはどこか吹っ切れたように、今日一番の心地よい笑い声を上げた。
「……君と話していると、ひどく心が軽くなるよ」
ひとしきり笑った後、ジョンは座卓に両腕をつき、熱を帯びた瞳で俺を真っ直ぐに見据えた。
「だがミナト。君のその地に足の着いた考え方と、隙のない肉体……とてもただの黄金級とは思えない。本気になれば、もっと多くの人々を救う、誰もが憧れるようなヒーローになることだってできるだろうに」
真剣な声音で投げかけられた問い。だが、俺はゆっくりと首を横に振った。
「ヒーローなんて柄じゃないさ」
手元のグラスを見つめ、ウィスキーをちびりと舐める。
「俺は不器用だからな。世界を救うとか、国を守るとか、そういうデカいことは偉い奴らに任せとけばいい。俺はただ、自分の『手の届く範囲』にいる、目の前で困ってる奴を見捨てないで生きていけりゃ、それで十分なんだよ」
「……手の届く範囲、か」
ジョンが小さく呟き、俺の言葉を反芻するように目を伏せた。
「ならミナト、君はその『手の届く範囲』が広がったらどうするんだい?」
「いいじゃねぇか。守れる奴が増えるんだろ? 何を悩むことがある」
「じゃあ、その手の届く範囲を広げるために努力している最中に、事件が起きて救えなかったら?」
その問いに、俺は少し考えるように首を傾げた。
「ダンジョンに潜って成長しようとしてる時に、外で問題が起きたら……ってことか?」
「……まあ、そうだな」
ジョンは言葉を濁しつつも、静かに頷いた。おそらく、彼自身がこれまで何度も直面してきたジレンマなのだろう。
グラスの縁をなぞる指先が、僅かに止まる。
ふいに、異世界の村を空けていた時に起きた事件の記憶が蘇った。
俺の帰りが遅れたせいで魔物の襲撃に遭い、一度は失われてしまったポポの命。血に塗れ、体温を失ったあの小さな体に触れた瞬間の、胃の腑が鉛のように重くなる感覚は今でもはっきりと覚えている。
結果的に規格外のアイテムで蘇生させられたのは、ただ運が良かっただけに過ぎない。
だからこそ、割り切るしかないのだ。
「そんなもん、まだ俺の手の届く範囲じゃなかったってことだろ。自分を責めたって仕方がない。……まあ、一生後悔はするだろうけどな」
俺は空になったグラスを卓に置き、ジョンをまっすぐに見据えて言った。
「じゃあなんだ、子供が生まれたら一生横に張り付いて付きっ切りで面倒を見るのか? って話だ。そんな子離れできない親、ダンジョンなんかが出てくる前の時代からいないだろ。本当に守りたいからこそ、自分が外に出て稼いだり、成長したりするんじゃねぇか」
「……」
ジョンの分厚い唇がわずかに震え、やがて何かを噛み締めるように固く引き結ばれる。
「君の言う通りかもしれないな。どれほど巨大な力を手に入れようとも、人間の両腕で抱え込める範囲には限界がある。……だが、それでも私は、その『手の届く範囲』を、国全体に……一人でも多くの民に広げたいと願ってしまうのだ」
どこか自嘲するように笑うジョンを見て、俺はニヤリと口角を上げる。
「立派だと思うぜ。ただ、それを言うにはまだちょっとランクが足りないな。せめて『 秘銀級(ミスリル) 』以上にはならないとな」
「え……あ、そうか。そうだったな! 確かに大言壮語が過ぎた!」
ジョンは一瞬ぽかんと口を開け、次の瞬間には腹の底から響くような大声を上げて吹き出した。
きっとこの男は、母国で人の上に立つ、責任あるポジションにいるのだろう。
背負うものが大きすぎるが故の苦悩は、俺には理解できないが、こういう真っ直ぐな奴は嫌いじゃない。
「あんたみたいな真面目な奴がいてくれるおかげで、俺みたいな小市民が平穏に暮らせてるんだ。国を守るためにも早く昇級しろよ、ジョン」
俺はグラスを掲げ、ジョンのグラスへと軽くぶつけた。
「……ああ。ありがとう、ミナト。君と酒を飲めて本当に良かった」
ジョンは心底嬉しそうに微笑み、グラスを呷った。
その後も夜が更けるまで、とりとめのない旅の土産話や酒の話で盛り上がり続けたのだった。
◇
翌朝。
温泉宿のふかふかな布団でぐっすりと眠り、朝風呂まで堪能した俺は、スッキリとした気分でロビーへと向かっていた。
今日はこれから舟木さんの実家の道場にお邪魔させてもらう予定だ。
「おはようございます、舟木さ――」
待ち合わせのロビーでソファの近くに舟木さんの姿を見つけ、俺は声をかけようと足を踏み出す。
だが、彼女の前に立つ『二人の人物』の異様な存在感に気づき、反射的に声帯を締め、靴底を床に縫い付けた。
空間そのものを凍らせるような冷徹な空気を纏い、銀縁眼鏡を押し上げる細身のスーツの男。
その隣には、紅白の巫女装束をアレンジしたような奇抜な服を着て、底知れない圧迫感を放つ黒髪の美女が微笑みを浮かべている。
日本人なら誰でも知っている二人。
胃の腑が急速に冷え、心拍が嫌なリズムを刻み始める。
間違いない。日本の国家権力を握る最高戦力、《 海神(ワダツミ) 》と《 神籬(ヒモロギ) 》が、なぜか舟木さんの目の前に立っていた。