軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第39話 藍黒の哀哭

喉の奥で、困惑が低い唸りとなって漏れる。

振り上げられた爪が、空中で彷徨う。

(……なぜだ?)

藍黒の狼の脳裏に、ノイズが走る。

眼前に在るのは、ただの餌。

震える手足。涙を携えた瞳。

吹けば飛ぶような、矮小な存在。

それなのに、視線が吸い寄せられる。

その輝きが、思い出せなくなっていた古びた記憶の扉を叩いた。

思考を埋め尽くしていたドロドロとした飢餓感が、一瞬だけ凪ぐ。

絶望という名の泥で塗り固め、二度と思い出すまいと封印していた記憶が、ひび割れた隙間から溢れ出してくる。

『……』

かつて群れを率い、あらゆる敵を退けた『王』の姿。

種族も大きさも違う。

だが、その魂の輝きは、あの頃の黒銀と同じだった。

そして同時に思い出す。

かつての自分の姿を。

まだ体が小さく、力もなかった頃。

それでも、「強くなりたい」と願って、がむしゃらに牙を研いでいたあの頃の自分を。

どうして忘れていたのだろうか。

(俺は……)

強くなりたかった。

誰にも負けない力が欲しかった。

だが、いつからだろう。

弱いものをいたぶり、その絶望を啜ることでしか、自分の強さを確認できなくなっていたのは。

(……違う)

こんな姿になりたかったわけじゃない。

こんなことがしたかったわけじゃない。

涙が溢れる童の瞳に映り込んだのは、どす黒い泥にまみれ、世界を呪うように牙を剥く、醜悪な化け物だった。

溢れ出しそうな涙の雫がレンズとなり、その姿をさらにグロテスクに歪ませている。

ああ、なんと醜い。

これが、今の自分か。

かつて憧れた『王』とは程遠い、絶望を垂れ流す汚泥。

急激に、戦意が萎んでいくのを感じた。

怒りも、憎しみも、すべてが虚しい。

黒銀を失った悲しみだけが、胸の奥で重く澱む。

すべてが、嫌になった。

それなのに、絶望が、 藍黒(らんこく) 色の霧が全身を覆っていく。

藍黒の巨体は凍りついたように動かなかった。

視線はポポに釘付けになり、身動きひとつしない。

隙だらけの立ち姿。

だが、纏う空気はどこか哀切を帯びている。

感傷に浸る時間はない。

一瞬の静寂を縫うように、巨体の脇を疾走する。

土埃を巻き上げてスライディング。幼い体と猛獣の間に、己の肉体を滑り込ませた。

停止と同時にバールを構え、牽制の切っ先を向ける。

背には、守るべき温もりがあった。

「ポポ! 今のうちに下がれ!!」

ポポを抱き上げる。俺は振り返り、背後で構えていたガルの腕に、その小さな体を押し付けた。

「走れ! 今のうちに全員連れて離れるんだ!」

ガルが頷き、ポポを抱えて走り出す。

村人たちも我に返り、一斉に避難壕から離れていく。

藍黒の狼は追わない。

ただ、その場に縫い止められたように静止している。

「……どうしたんだ、コイツ?」

不気味なほどの静寂。

しかし、ナビ子の鋭い警告が耳に届く。

『マスター! 敵のエネルギー量が急激に上昇しています! 自身の絶望を取り込み、増幅させている模様!』

「増幅だと!?」

『このままエネルギーが増大すると、より強力な個体へと進化してしまいます! そうなれば、もう手のつけようがありません! 今すぐとどめを!』

「はい、おしまい。ってわけにはいかねぇか!」

急に戦意喪失したかと思えば、今度は進化?

理屈はさっぱり分からない。

だが、 相棒(ナビ子) の切迫した声が、事態の深刻さを物語っている。

バールを握り締め、藍黒の狼へと駆け出した。

同情も、疑問も、今はすべて不要。

目の前に、無防備な怪物がいる。

今ここで息の根を止めなければ、村が消し飛ぶかもしれない。

やるべきことは、それだけだ。

「らぁぁぁぁぁっ!!」

バールの先端に、圧縮した土砂を纏わせる。

瞬時に硬化し、それは巨大な岩のハンマーと化した。

渾身の『 岩石打撃(ロック・ブロー) 』。

質量を増した岩塊が、無防備な土手っ腹へ深々とめり込んだ。

大気を震わせる衝撃音が響き、藍黒の狼がたたらを踏む。

俺は呼吸も忘れ、ひたすらにバールを振るった。

頭を、首を、心臓を。

致命的な部位を狙って、何度も、何度も。

だが、倒れない。

打撃を重ねるたび、バールに返ってくる反動が重くなる。肉体が、急速に硬度を増していた。

まるで、絶望そのものを鎧として纏ったかのように。

「死ねッ! 死ねぇぇぇぇっ!!」

叫びながら、全身のバネを使い、魔力を込めて叩き続ける。

それでも、反応がない。

手応えはある。だが、命の灯が消える感覚がない。

それどころか、ドス黒いオーラが全身からさらに激しく噴き出していく。

『不味いです! エネルギー反応、さらに上昇! このままだと 秘銀級(ミスリル) の壁を超えます! はやく! 今のうちに殺しきってください!』

ナビ子の焦燥が伝染する。

焦りがバールを振るう手を雑にする。

だが、止まるわけにはいかない。

その時だった。

ふと、視線を上げる。そこで、藍黒の狼と目が合った。

その瞳には、もう敵意はなかった。

あるのは、深い絶望と、諦念。

――ああ。

こんな力は、要らない。

黒銀に生かされた俺が、今度は黒銀を葬った人間に殺される。

それも悪くない。

もし、あの世というものがあるのなら。

今度こそ、謝らせてくれ。

黒銀。

『エネルギー増加、停止しました!』

ナビ子の声と同時だった。

俺の一撃が、藍黒の狼の眉間を捉えた。

あれほど堅牢だった障壁は、まるで幻だったかのように消え失せていた。

バールの先端が、意外なほどあっけなく、吸い込まれるように眉間へと沈んでいく。

まるで、壊れかけた機械の電源を静かに落とすような手応え。

膨れ上がっていたエネルギーが霧散し、巨大な体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

終わった、のか?

俺はバールを引き抜き、油断なく残心を示す。

だが、藍黒の狼はピクリとも動かない。

『敵性反応、完全に消失しました。エネルギー残滓、霧散していきます』

「……マジか」

『はい。討伐完了です、マスター』

「なんだったんだ、こいつ。急に動かなくなって」

まるで、死を受け入れたような最期。

俺は汗を拭いながら、首をかしげる。

「もしかしてあれか? 変身シーン中に攻撃して倒すっていう、禁じ手やっちゃったのか?」

『……変な心配しないでください。戦いなんですから、勝てば官軍です』

ナビ子の呆れたような声に、ようやく肩の力が抜ける。

全身の痛みと疲労が一気に押し寄せてくる。

だが、それと同時だった。

傷口にへばりついていた不快な『藍黒』の靄が、朝日を浴びた霧のようにスゥッと消えていく。

途端に、細胞が活性化する熱が戻ってきた。

傷が塞がり、痛みが急速に遠のいていく。

心地よい疲れだけが残った。

勝った。

俺たちの勝利だ。

遠くから、村人たちの歓声が聞こえてくる。

俺はバールを掲げ、それに応えた。

バルガス男爵領、廃棄地域。

荒野を、二騎の影が疾駆していた。

彼らは領主軍の斥候であり、この辺境の地を定期的に巡回する 二人一組(ツーマンセル) の部隊だった。

任務は、 魔物の大量発生(スタンピード) の予兆や、隣接するゼノビア帝国の不審な動きを監視することである。

だが、今日の任務はいつもと違っていた。

領主邸に設置された魔力地震計が、ありえない規模の反応を示したのだ。

それは、 秘銀級(ミスリル) や 赫金級(オリハルコン) といった高位の探索者クラスが放つ『極大魔法』に匹敵するエネルギー反応だったという。

「……おい、見ろよ」

手綱が引かれ、蹄が砂を噛んで止まる。

視界を埋め尽くすのは、炭化した黒い残骸と、高熱で溶解し、冷え固まってガラス質に変貌した大地。

月明かりを反射して鈍く光るその表面からは、未だ陽炎が立ち昇り、尋常ではない熱量を物語っていた。

「計器の誤検知じゃなかったのか……」

「ああ。とんでもない質量の魔力が炸裂した痕跡だ。並みの探索者じゃ、こんな芸当はできんぞ」

二人は顔を見合わせ、ゴクリと喉を鳴らす。

こんな辺境で、これほどの規模の魔法を行使できる存在。

それが何であれ、領地にとって脅威であることは間違いない。

「……ん? おい、あれ」

ふと、もう一人の斥候が数百メートル先を指差した。

視線の先には、古びた集落の影があった。

「ああ、あの村か。まだ残っていたのか」

「報告では、もう住人はほとんどいない死にかけの廃村だって聞いてたが……」

彼らの認識では、そこは風前の灯火のような場所だった。

いつ滅びてもおかしくない、地図から消えかけた点。

だが、遠目に見えるその場所からは、炊き出しの煙のようなものが上がり、微かに人の気配さえ感じられた。

「……なんか、意外と生きてるな」

「人間の息吹があるな。全滅したわけじゃなさそうだ」

二人は首をかしげる。

この凄まじい魔法の痕跡と、予想外にしぶとい村。

二つの事象が頭の中でリンクしかけて、すぐに否定する。

「まさか、この魔法を撃った存在が、あそこに?」

「よせよ。こんな吹き溜まりのような村に、そんな高貴なお方が何の用があるってんだ」

「違いない。通りすがりの気まぐれか、あるいは魔物同士の争いか……」

いずれにせよ、自分たちの手には余る事態だ。

「報告するぞ! 至急、男爵様に知らせなければ!」

「了解!」

二人の斥候は馬首を返し、来た道を全速力で駆け戻っていった。

平和だったはずの辺境領に、巨大な波乱の幕が上がろうとしていた。