軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

幕間 名もなき少女の、最初のバール

去っていく男の人の背中を、私はただ呆然と見つめていた。

路地裏の闇に溶けていく、私より少し年上の男性。

名前も知らない。顔もよく見ていない。

ただ、彼が放った暴力的なまでの「力」の残滓だけが、網膜の裏側に焼き付いて離れない。

法も警察も頼りにならないこの世界で。

探索者という名の怪物が跋扈するこの東京で。

あの人は、私を襲った男たちを「カス」と呼び捨て、ゴミのように蹴散らした。

躊躇なく。

慈悲なく。

そして、何の見返りも求めず。

(……強くなりたい)

言葉が、震える唇からこぼれ落ちた。

守られるだけの弱い自分ではなく。

理不尽な暴力に怯えるだけの存在ではなく。

彼のように、誰にも脅かされない「力」が欲しい。

アスファルトにへたり込んでいた足に力を入れる。

膝が笑う。

それでも、私はゆっくりと立ち上がった。

恐怖で強張っていた拳を、白くなるほど強く握りしめる。

もう、私の足は大地を踏みしめていた。

数日後。

私は探索者協会の受付に立っていた。

大学の講義をサボり、財布の中身をすべて握りしめてここに来た。

ロビーを行き交うのは、屈強な男たちや、派手な装備に身を包んだ探索者ばかり。

場違いな女子大生である私に、好奇の視線が突き刺さる。

けれど、以前のような胃が縮むような恐怖はなかった。

「――えっと、探索者登録をご希望ですね?」

受付カウンターの向こうで、女性職員が困ったような笑顔を浮かべた。

無理もない。

どこにでもいそうな平凡な女子大生が、いきなり「探索者になりたい」と言い出したのだから。

「はい。お願いします」

「分かりました。では、こちらの書類に記入を……あ、あと、適性検査も受けていただきますね」

手続きは淡々と進んだ。

そして、装備の貸与についての説明になった時だ。

「初期装備として、協会指定の武器をレンタルできます。ショートソード、ダガー、メイス、槍……どれになさいますか?」

お姉さんがタブレットに表示された武器リストを見せてくれる。

どれも初心者向けに調整された、扱いやすそうな武器だ。

だが、私の求めているものはそこにはなかった。

「あの」

「はい? 何かご希望が?」

「……バールは、ありますか?」

「はい?」

お姉さんがきょとんとした顔をする。

周囲の探索者たちも、聞き間違いかと思ってこちらを見た。

私はもう一度、はっきりと言った。

「バールです。釘抜きがついた、鉄の棒です」

「え、えっと……それは武器ではなく、工具のカテゴリーになりまして……」

「ないんですか?」

「い、いえ、探索用の資材として販売はしていますが……武器として使われる方はあまり……」

彼女は困惑しきっていた。

当然だ。バールをメインウェポンにする探索者なんて聞いたことがない。

でも、あの人は使っていた。

あの圧倒的な暴力の象徴。

鈍い音を立てて骨を砕き、肉を抉った、無骨な鉄塊。

あれこそが、私にとっての「強さ」の形だった。

「じゃあ、それを買います。一番丈夫なやつをください」

「は、はぁ……」

結局、私は全財産をはたいて、頑丈なチタン合金製のバールを購入した。

長さ七五センチ。重量二キログラム。

手に持つと、ずしりとした質量が掌に食い込む。

冷たい金属の感触が、高揚した頭を少しだけ冷やしてくれた。

「……おい、見たかよ今の」

「バールて。解体屋にでもなるつもりか?」

「プッ、素人はこれだから」

背後で男たちの嘲笑う声が聞こえた。

彼らは知らないのだ。

この鉄の棒が、どれだけの可能性を秘めているかを。

あの人が見せた、理不尽すらねじ伏せる力を。

(見てなさい)

私はバールを握りしめ、心の中で誓った。

いつか必ず、あの人のようになると。

誰にも負けない、最強の探索者に。

渚 凛(なぎさ りん) 、二十歳。

後に「 解体屋(クラッシャー) リン」の異名で呼ばれ、日本最速でプラチナ級に到達することになる彼女の伝説は、一本のバールから始まった。

もちろん、彼女が憧れたその男が、システム補正を一切使っていない「 完全手動(フルマニュアル) 」の変人だったことを知るのは、まだ少し先の話である。