軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三話 家は、粗末にされたことを覚えています

王宮からの使者は、ひどく寒そうな顔をしていた。

実際、寒かったのだと思う。外は雪で、王宮の暖炉は昨夜から最低限しか働いていない。使者の外套には霜がつき、手袋の指先は白くなっていた。

「ミリア・ハーシェル嬢」

彼は玄関先で、できるだけ威厳を保とうとしていた。

「王太子殿下のご命令です。ただちに王宮へ戻り、厨房機能を復旧させなさい」

わたしは返事の前に、家令へ目を向けた。

「温かいお茶を一杯お願いします。使者様の手が冷えています」

使者は一瞬、言葉を失った。

「そのような気遣いでご命令が変わることは」

「命令とは別です。冷えたまま話すと、怒鳴り声になりやすいので」

グレン様が横で小さく咳をした。

笑ったのかもしれない。

お茶が運ばれてくるまでの間、わたしは玄関の敷石に手を置いた。昨夜、グレン様に礼を言われた玄関は、少しだけ機嫌がいい。使者の靴についた雪を吸いすぎないよう、敷石の精霊に頼んでおく。

こういうことは、誰にも見えない。

けれど、見えないからといって不要ではない。

「ミリア嬢」

使者はお茶を一口飲んでから、少し声を落とした。

「王宮は混乱しています。朝食のパンが半分しか焼けず、王太子殿下の寝室の扉が開かず、浴室の湯が水になりました。建国祭の翌日に、このような失態は許されません」

「そうでしょうね」

「分かっているなら」

「ですが、わたしは昨夜、王宮常駐を解かれました」

「婚約は破棄されましたが、加護の使用については」

「王宮における《家守》業務は、王太子妃教育の一環として無償で行っておりました。婚約破棄により、その根拠は消滅しています」

使者の顔が引きつった。

書類の話は、王宮の人々が嫌うものだ。けれど暮らしを支える仕事ほど、曖昧にすると踏み倒される。

「では、王宮は正式に雇用契約を結びます。報酬も出すとのことです」

使者は急いで言った。

「パン窯の精霊だけでも戻していただきたい。殿下は昨夜のことを一時の行き違いだと」

荷馬車の中で、パン窯の精霊が低く唸った。

丸い体から、ぽふん、と煙が出る。怒っているというより、傷ついているのだ。五年間、毎朝まだ暗いうちから火を起こし、粉と酵母を抱え、王宮の食卓を支えてきた。

その仕事を、いらないと言われた。

精霊ごときに意思はないと、笑われた。

「ごめんなさい」

わたしは使者へ頭を下げた。

「戻るかどうかは、この子が決めます」

「精霊の意思など、確認のしようがありません」

「あります」

わたしはパン窯の精霊に向き直った。

「戻りたいですか?」

パン窯は、首を横に振った。

「戻りたくないそうです」

「そのような子どもの遊びで」

「使者殿」

それまで黙っていたグレン様が口を開いた。

低い声だったが、玄関の空気が引き締まった。

「昨夜、王太子殿下は王宮の精霊に意思などないと公言された。その相手に戻れと命じるなら、まず謝罪が必要だ。命令ではなく、謝罪だ」

使者は反論しようとして、できなかった。

彼自身も、王宮の寒さを経験してきたからだろう。目に見えない相手を軽んじた結果が、今朝の混乱だった。

「……殿下に、お伝えします」

「それと、ミリア嬢は本日より私の客人だ。王宮へ連れ戻すことは認めない」

はっきりした言葉だった。

胸の奥が、少し温かくなる。

守られて嬉しいというより、仕事の価値を雑に扱われなかったことが嬉しかった。

使者が帰ったあと、グレン様はわたしに向き直った。

「すまない。勝手に客人と言った」

「助かりました」

「ならよかった。だが、客人のままでいられると困る」

わたしは首をかしげた。

グレン様は懐から一枚の書類を取り出した。昨夜のうちに用意したのか、署名欄以外は整っている。羊皮紙には、北境ノルデン辺境伯家の印が押されていた。

「正式に依頼したい。ノルデン辺境砦の家守監督官として、三か月の試用契約を結んでほしい。報酬は月金貨十枚。住居、食事、燃料、衣服はこちらで用意する。精霊の手入れに必要な費用は別枠で認める」

「金貨十枚」

思わず聞き返した。

王宮で五年間、無償でやっていた仕事だ。もちろん伯爵家の娘として衣食住はあったし、王太子妃教育の一環だと言われれば断れなかった。けれど、わたし個人の仕事として金額を示されたのは初めてだった。

「少ないか」

「多いです」

「では適正額を一緒に決めよう。私はこの仕事の相場を知らない」

その言い方が、妙に真面目だった。

分からないから安く買うのではなく、分からないから聞く。

それだけのことが、こんなにありがたいとは思わなかった。

「お受けします。ただし、条件があります」

「言ってくれ」

「砦の暖炉、寝台、厨房、井戸、浴室、厩舎、門、兵舎をすべて見ます。そのうえで、休ませるべき場所は休ませます。効率が落ちても、壊れる前に止めます」

「ああ」

「それから、兵士の方々にも協力していただきます。寝台を蹴らない。扉を乱暴に閉めない。食堂で食べ残しを床に捨てない。井戸に愚痴を言うのは構いませんが、毒づいたあとは礼を言うこと」

グレン様は少しだけ目を瞬かせた。

「井戸に愚痴を言ってもいいのか」

「井戸は聞き上手です。ため込みすぎると水が重くなるので、あとで掃除します」

「分かった。兵たちに伝える」

本気で伝えるつもりらしい。

わたしは笑いをこらえきれなかった。

「何かおかしいか」

「いいえ。たぶん、砦の井戸が喜びます」

契約書に署名をしたあと、わたしは屋敷の厨房を借りた。

北境へ向かう前に、連れてきた精霊たちを休ませる必要がある。火守りには灰を払い、パン窯には粉を少し渡し、寝台の精霊には日当たりのいい部屋で毛布を広げた。

そのついでに、屋敷の朝食も作ることになった。

厨房の料理人たちは最初こそ戸惑っていたが、パン窯の精霊が焼いた丸パンが膨らみ始めると、全員が黙った。表面は香ばしく、中は白く柔らかい。切り込みから湯気が立ち上がり、バターを落とすとじゅわりと溶ける。

「……これは」

家令が、焼きたてのパンを見つめた。

「王宮の朝食より美味いのでは」

「王宮のパン窯は、昨日まで無理をしていましたから。本来はこれくらい焼けます」

パン窯の精霊は、得意げに胸を張った。

火守りも機嫌よく火を揺らしている。厨房の空気が温まると、料理人たちの肩から力が抜けた。

グレン様は丸パンを一つ手に取り、慎重に口へ運んだ。

そして、しばらく黙った。

「お口に合いませんか」

「いや」

彼はもう一口食べた。

「北境の兵に、これを食わせたいと思った」

その一言で、パン窯の精霊が固まった。

次の瞬間、丸い体から、ぽぽぽん、と三つもパンが出てきた。照れているらしい。

料理人たちが歓声を上げた。

わたしはその様子を見ながら、ようやく実感した。

王宮を出てよかった。

ここでは、わたしの仕事が誰かの朝につながっている。

温かいものを温かいうちに食べて、柔らかい寝台で眠り、きちんと閉まる扉の内側で安心する。そういう当たり前は、当たり前にあるから気づかれない。

けれど、当たり前を守る人がいなければ、暮らしは一日で崩れる。

昼前、王宮から二通目の使者が来た。

今度は手紙だった。

封蝋は王太子殿下のものではなく、王宮管理局のものだ。グレン様が受け取り、差出人を確認してからわたしへ渡す。

「読むか」

「はい」

封を開けると、中には短い文面が入っていた。

王宮内の扉、暖炉、寝台、厨房設備の不調につき、旧担当者ミリア・ハーシェル嬢の協力を求める。

そこまでは、予想していた。

けれど最後の一文で、わたしは目を止めた。

王宮北棟、未明より原因不明の煙を確認。火災の恐れあり。

火守りが、わたしの肩で震えた。

王宮の北棟。

そこには古い客間と、使われなくなった礼拝室がある。ずっと前から煙突の傷みを訴えていた場所だ。修理予算を申請したが、見栄えのする聖女用礼服の新調が優先され、後回しにされた。

「ミリア」

グレン様が静かに言った。

「行く必要があるなら、私も行く」

わたしは手紙を握りしめた。

王宮には戻りたくない。

けれど、火事になれば関係のない使用人や客人が傷つく。火守りの子たちも、壊れた煙突に閉じ込められたまま苦しむことになる。

嫌な場所と、助けたいものは、同じ建物の中にある。

「行きます」

わたしは顔を上げた。

「ただし、今度は無償ではありません。謝罪と、正式な依頼書と、修理予算をいただきます」

グレン様の口元が、ほんの少しだけ上がった。

「ああ。それでいい」

外では、王宮の鐘が鳴り始めていた。

建国祭の余韻を祝う鐘ではない。

暮らしを粗末にした城が、自分の傷みにようやく気づいた音だった。