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婚約破棄されましたが、悪女の証拠がないのは私のせいではありません

作者: 江合 花果

本文

王立学園の大広間に、ざわめきが満ちていた。

中央に立つのは、王太子エドワード・ルイス・アーレント。

金髪、端正な顔、腕を組んで仁王立ち。

その前に呼び出されたのが、公爵令嬢アリア・フォン・セルヴァンテス。

黒髪、静かな目、今この瞬間だけは心底うんざりした顔をしていた。

「アリア・フォン・セルヴァンテス!」

エドワードが声を張り上げた。

「汝の悪行、この場で明らかにし、婚約を破棄する!」

アリアは一秒、目を閉じた。

(来た。とうとう来た。半年前から来ると思っていたが、本当に来た)

深呼吸をして、目を開けた。

「承りました。では悪行の内容と証拠をお示しください」

「その前に!」

エドワードが人差し指を突きつけた。

「お前はクロエの笑顔が俺に向けられるのが許せなかったんだろう! 俺がクロエと話すたびに嫉妬で顔を歪めて、婚約者である俺を独り占めしたくて、クロエに嫌がらせをしたんだろう! 正直に言え!」

大広間が静まり返った。

アリアは三秒間、エドワードの顔を見た。

(笑顔が俺に向けられるのが許せなかった)

(独り占めしたくて)

(私が)

(エドワード殿下を)

(……待って。この六年間、一度でもそんな感情になったことあったっけ)

(ない)

(一度もない)

(むしろ公務で顔を合わせるたびに帰りたかった)

「殿下」

「なんだ」

「六年間の婚約期間中、私が殿下に恋愛感情を向けたことが一度でもありましたか。目を見て話したこと、自分から声をかけたこと、食事に誘ったこと。一度でも」

エドワードが口を開いた。

何も出てこなかった。

「ないですよね」アリアは言った。「そこから全部間違っています。証拠の話に移りましょう」

少し話しておかなければならない。

クロエ・マルタンについて。

平民の出身ながら、この国の記録史上三番目に高い魔力値を持って生まれた少女だ。

王立学園への特待生入学は満点合格、以来ずっと学年成績三位以内をキープしている。

魔術師国家試験の予備試験は、現時点で首席通過が確実視されていた。

教師陣が「百年に一人の逸材」と囁き合い、魔術管理局が早くも将来の主席魔術師候補として注目している。

顔立ちも整っていた。

茶色い髪に眼鏡、いつも実習用ローブ姿だが、隠しきれない品がある。

ただし本人は、自分がそういう存在だと思っていない。

思っていないから、今もこの騒動を腕を組んで眺めながら、

(迷惑だ)

という顔をしていた。

エドワードが初めてクロエに声をかけた日のことを、クロエはよく覚えている。

図書室で勉強していたら突然隣に座られ、「平民でありながら学年三位とは大したものだ、俺が引き立ててやる」と言われた。

クロエはその日から図書室の利用時間を変えた。

エドワードが新しい時間帯を把握するたびにクロエは別の場所に移った。

これが半年続いていた。

「クロエを笑顔にできるのは俺だけでいい!」エドワードが続けた。「なのにあの子が俺を避けるのは、お前が裏で何かしているからだ! 嫉妬に狂ったお前が!」

「殿下」アリアは言った。「私が嫉妬しているという前提が崩れているので、その先の話が全部宙に浮いています」

「崩れていない! 婚約者なら当然――」

「では証拠の話をしてください」

「俺はまだ気持ちの話を」

「聞きました。要約すると『俺のことが好きなはず』ということですよね」

「そうだ!」

「それは要約ではなく殿下の希望です。証拠の話をしてください」

「皆、前へ!」

エドワードが取り巻き四人に呼びかけた。

騎士団長の息子レオン、宰相の息子フィリップ、魔術管理局局長の息子オスカー、大商会の息子マークが、神妙な顔で前に出た。

(全員出てきた)

(アリアは内心で頭を抱えた)

(四人全員か。多いな。長くなるな。覚悟しよう)

「レオン、証言を」

「はい」レオンが胸を張った。「僕はクロエさ……クロエが笑顔を向けてくれたことがある。あの笑顔は全人類への宝だ。それをアリア様が嫉妬で曇らせようとしているのは許せない」

(全人類への宝)

(証言の冒頭が全人類への宝だった)

(先が思いやられる)

「全人類への宝の話は結構です」アリアは言った。「具体的な悪行の内容をどうぞ」

「……アリア様がクロエを廊下でにらんでいました」

「にらむというのは」

「廊下を歩くクロエの方向を見ていました」

「それは『見ていた』であって『にらんでいた』ではないですよね」

「目つきが鋭かった」

「生まれつきです。親に言ってください。次の方」

「待ってください」レオンが言った。「クロエの笑顔の話をしてもいいですか」

「駄目です。フィリップ」

「僕もクロエの笑顔が忘れられない」フィリップが言った。「図書室で一度目が合った時、ほんの少し微笑んでくれた。あれは僕だけへの微笑みだと思う」

(また笑顔の話から入った)

(なんで全員笑顔の話から入るんだ)

「証言から入ってください」

「アリア様がクロエの借りていた本を先に返却させたという話を聞きました」

「誰から」

「レオンから」

アリアは一瞬、目を閉じた。

「今レオンの証言を聞いたばかりですよね。内容は廊下で見ていたという話でした。その人物の又聞きが証言として成立すると思っていますか」

「……でもクロエの笑顔の件は」

「一切関係ないです。オスカー」

「クロエは天才です」オスカーが言った。「魔力値も学業成績も完璧なのに、実習ローブ姿でも輝いている。そんな彼女が僕を避けるのはアリア様のせいだと確信しています」

「根拠は」

「じゃなければ避ける理由がない」

「あなたが単純に嫌われている可能性は検討しましたか」

「……していない」

「なぜ」

「僕はそこそこ良い男だと思っているので」

(そこそこ良い男)

(自己評価だけは高い)

「そこそこ良い男かどうかと、好かれるかどうかは全く別の話です。マーク」

「クロエの笑顔に値段をつけるとしたら」マークが言った。「王都一の大商会を継ぐ僕でも買えない価値があると思う。それをアリア様が――」

「証言を」

「……アリア様がクロエの実験道具を動かしたと聞きました」

「誰から」

「エドワード殿下から」

「殿下からの話は殿下に聞きます」

アリアはエドワードを見た。

「殿下、それはどこからの情報ですか」

「……皆から聞いた」

「皆というのは今ここにいる四人ですか」

「……そうだ」

アリアは大広間全体を一度見回した。

在校生が全員、固唾を飲んで見ている。

「つまり」アリアは言った。「殿下が四人から聞いた話を四人に流して、四人がそれを証言として持ってきた。情報が一周して殿下に戻ってきています」

「…………」

「うわさの一人歩きです。以上ですか」

「…………」

「以上ですか、と聞いています」

「……以上だ」

「では殿下、直接の証拠をお示しください」

「皆、証拠を出せ」エドワードが四人を見た。

誰も何も出さなかった。

「……出せ」

「殿下こそ」レオンが言った。

「俺が持っていたら最初から出している」

「てっきり殿下がご用意を」

「俺は断罪する側だ。証拠は皆が集めるものだろう」

「いや、そういう話でしたっけ」フィリップが首を傾げた。

「そういう話だったと思うんですが」オスカーが言った。

「俺はてっきりレオンが」エドワードが言った。

「私はフィリップが持っていると」

「俺はオスカーが魔術方面で」

「私は具体的に何を集めればいいか分からなくて」

「マークは商会のコネで」

「そもそも何の情報を集めるのかが」

「だから誰が担当だったんですか」

「最初にそれを決めるべきでしたね」

「今それを言いますか」

「でも誰も言わなかったじゃないですか」

「殿下が仕切ると思っていた」

「俺はお前たちを信頼していた」

「信頼と丸投げは違うのでは」

「丸投げではない信頼だ」

「その違いは」

「信頼は気持ちで丸投げは行為だ」

「結果は同じでは」

五人が大広間の中央で、小声でがやがやと言い合っていた。

アリアは正面を向いたまま、しばらく待った。

待った。

まだ続いている。

待った。

まだ続いている。

アリアは静かに、しかしはっきりと言った。

「……なんでやねん」

大広間が、しん、となった。

「え」とエドワードが言った。

「失礼しました」アリアは姿勢を正した。「申し上げたいことは一点です。証拠の担当が誰だったかは今決めなくていいです。結論として、証拠がない。ということですね」

「…………」

「はっきり確認します。証拠は、ない。そういうことですか」

エドワードが絞り出すように言った。

「……今は、ない」

「今後出てくる予定はありますか」

「…………」

「ないですね。分かりました」

アリアは大広間全体を向いた。

「では進めます」

「あの」

クロエが腕を組んだまま前に出た。

「確認していいですか。私、アリア様に嫌がらせをされた覚えがないんですが」

エドワードがクロエを見た。顔が輝いた。

「クロエ! 怖かっただろう、もう安心しろ。俺がいる」

「怖くないです」

「え」

「全然」

「で、でも、あんな冷たい令嬢に」

「アリア様は冷たくないです。図書室で魔術理論の話をした時、非常に的確な意見をいただきました」

「し、しかし、クロエが俺を避けているのは」

「あなた方五人全員から毎日話しかけられて、勉強と研究の時間が削られていたので距離を置いていました」

エドワードが「それは」と言いかけた。

「私が避けていたのはアリア様のせいではなく、あなた方のせいです。五人まとめてお断りします」

「まとめて」

「はい、まとめて」

クロエはアリアの方を向いた。

「アリア様、ご迷惑をおかけしました。来週、新しい魔術理論の書籍が図書館に入るそうです。一緒に読みませんか」

「行きます」アリアは即答した。「火曜の午後でよければ」

「完璧です」

エドワードが取り残されたような顔をした。

アリアがちらと振り返った。

「殿下、まだ何かありましたか」

「…………」

「なければ、まとめます」

「申し上げます」アリアは大広間全体に向かって言った。

「本日の件を整理します。証拠なし。証言は全て伝聞か又聞き、かつ情報源が全て同一。被害者本人からも被害の申告なし。以上が本日判明した事実です」

声がよく通った。

「本日の件は公の場での糾弾です。証拠のない告発を学園の大広間で、在校生全員の前で行いました。この場にいる皆様全員が証人です。冗談や勘違いで済む話ではありません。私の家は公爵家です。父は然るべき対応を取るでしょう」

エドワードの顔色が変わった。

「そ、それは、話し合いで」

「話し合いの段階はとっくに終わっています」

「しかし」

「なお」アリアは続けた。「婚約破棄については、喜んでお受けします。ありがとうございます」

「……え?」

「半年前から申し出ようと思っていましたが、こちらから言うと角が立つので待っていました。二週間前に父と弁護士を交えて手続きの準備を終えています」

「に、二週間前から!?」

「いつ来るか分からなかったので少し早めに準備しました。お待たせして申し訳なかったです」

(申し訳なかったです、じゃない)とレオンが思った。

(準備がいい……)とフィリップが思った。

(僕たちが準備できていないのに……)とオスカーが思った。

マークは黙った。

アリアは五人を静かに見回した。

「皆さんも長い時間ありがとうございました。証拠の担当は最後まで決まりませんでしたが、お疲れ様でした」

五人が沈黙した。

(お疲れ様でした、で締めるな)と五人全員が思ったが、誰も言えなかった。

翌日、エドワードは父王に呼ばれた。

執務室に入った瞬間、国王の顔を見てエドワードは足が止まった。

生まれてこの方、父がここまで怒っているのを見たことがなかった。

「座れ」

低い声だった。

エドワードは椅子に座った。

「経緯は全て聞いた」国王は言った。「証拠なし、証言は伝聞、被害者本人からの否定、婚約者への公開名誉毀損。これが事実か」

「……はい、ですが」

「黙れ」

エドワードが黙った。

「セルヴァンテス公爵はすでに動いている。法的手続きに入った。相手は公爵家だ。お前が個人でやらかしたのではなく、王太子がやらかしたことになる。王家の権威と国内の政治秩序にかかわる問題だと分かるか」

「…………」

「返事をしろ」

「……分かります」

「分かる頭があってなぜやった」国王は言った。「聞けば半年間、教師の報告を握り潰し、側近の諫言を無視し、挙句に証拠もなく公開糾弾をしたと。何度も止まれる場面があった。なぜ止まらなかった」

エドワードは何も言えなかった。

「王太子の地位を返上しろ」

静かな声だった。しかし執務室に、よく響いた。

「父上」

「今すぐではない。だが、このまま継がせる気はない。お前には王としての判断力がない。証拠も確認せず、感情だけで動いた。それを止める側近も育てられなかった。王太子として失格だ」

「……それは」

「反論があるなら証拠を持ってこい」国王は言った。「お前が昨日、セルヴァンテス嬢に言われた言葉をそのまま返す」

エドワードは何も言えなかった。

執務室の広さが、今日ほど恐ろしく感じたことはなかった。

処分が下ったのは一週間後だった。

エドワードは王太子教育課程の全停止、公務参加の無期限禁止、学園出席停止処分。後継者選定が改めて行われる旨が宮廷内に通達された。

実質的な廃太子だと、誰もが分かった。

レオンは騎士団長の父から廃嫡を告げられた。騎士団への入団も白紙。家を継げない以上、貴族子弟としての将来は消えた。

フィリップは宰相の父が政敵に足元を掬われる口実を作ったとして、家の中枢から切り離された。宰相家の跡継ぎから外れ、地方の分家に籍を移すことが決定した。

オスカーは魔術管理局局長の父が職責を問われた。王太子の暴走に息子が加担し、公爵家との軋轢を生んだことへの連座だ。オスカー自身は魔術師資格の取得を無期限保留とされた。

マークは大商会の父が、公爵家との取引停止を通告された。連鎖的に複数の貴族家との取引にも影響が出る。父は激怒し、マークを勘当した。

五人全員が、それぞれの場所で床を見つめた。

エドワードだけが、ひとり執務室の冷たい空気を思い出していた。

一か月後、図書室にアリアとクロエがいた。

新しく入荷した魔術理論の書籍が、二人の間に広げてある。

「この第三章の仮説、穴があります」クロエが言った。

「第二章の補足実験が足りていないですよね」アリアが返した。

「そうなんです。ここをすっ飛ばして結論に飛んでいる」

「著者の名前を見ましたか。王立魔術院の長老です。誰も突っ込めなかったんでしょう」

「突っ込みますよ私は」

「頼もしいです」

二人は顔を見合わせて、少し笑った。

「そういえば」クロエが言った。「縁談、どうなりましたか」

「二十三件のうち二十二件はお断りしました」

「一件残っているんですね」

「隣国との外交担当をされている辺境伯のご子息から来ていて」アリアは少し間を置いた。「三年前の夜会で一度だけお話したことがあるんですが、その時に私が読んでいた本を覚えていてくださって」

「どんな本ですか」

「法律の専門書です。夜会に持ち込む本ではないんですが、退屈で鞄から出してしまって」

「分かります」

「その方が、『夜会で法律書を読む令嬢は珍しい、面白い人だと思っていた』と文に書いてくださって」

クロエが眼鏡の奥の目を細めた。

「返事は出しましたか」

「出しました。先週、二通目が届いて」

「何と」

「『今度の夜会は退屈になりそうなので、面白い本を持ってきていただけると助かります』と」

クロエが少し笑った。

「それは良い人ですね」

「そう思います」アリアは言った。「なんでやねん、と思わない人は貴重なので」

「確かに」

「あの発言は少し反省しています」

「でも全員が思っていましたよ、あの場で」クロエは言った。「声に出したアリア様が一番正直だっただけで」

アリアは窓の外を見た。

「そうですね。まあ」

ページをめくった。

(半年、長かった)

(でも)

悪くない終わりだった。

いや、終わりではなく。

悪くない、始まりかもしれなかった。