軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 軍人と女将

銀嶺の湯——その名の通り、湯気の向こうに銀色の山脈が見える。

二週間が経っていた。壁の漆喰を塗り直し、屋根板を張り替え、浴場の岩組みを整え直した。エルザの帳面に書かれた職人の手配が功を奏して、別荘は少しずつ宿の形を取り始めている。

まだ看板は掛けていない。けれど、わたくしの頭の中では、もう完成図が見えていた。

——と、そこに。

「すまない。この辺りに湯治場があると聞いたのだが」

玄関先に、男が一人、立っていた。

◇ ◇ ◇

軍服。

それが最初に目に入ったものだった。グランツ公国の軍服——濃紺の上着に銀の釦。右肩から胸に走る縫い跡は、飾りではない。実戦で受けた傷の痕だ。

階級章は見慣れない意匠だった。外交文書でグランツ公国の軍制は扱ったが、階級章の実物を見る機会はなかったから。

背が高い。わたくしより頭ひとつ以上。日に焼けた肌。鋭い目元。だが声は、その見た目に反して、思ったより穏やかだった。

「まだ準備中でしてよ。正式な開業はもう少し先になりますわ」

「構わない。湯だけでも構わないか」

右腕を庇うように左手で押さえている。袖口から包帯が覗いていた。

(——戦傷ね)

「お怪我をなさっているのですか」

「古傷だ。この辺りの温泉が傷に効くと聞いて来た」

「……少しお待ちくださいませ」

わたくしは奥に引っ込んで、母の調合手帳を取り出した。

戦傷。深い切り傷の治癒には、硫黄泉に白檜の樹皮を加えた薬湯が適している。母の手帳にある、祖母から受け継いだ調合のひとつ。

白檜の樹皮は昨日、ハンナが裏山から採ってきてくれたばかりだ。

薬湯を調合し、布袋に詰め、露天の岩風呂に沈めた。

「どうぞ。薬湯を用意いたしましたわ。戦傷に効くと伝わる調合ですの」

「……薬湯? 傷の種類に合わせた調合か」

「ええ。お湯の成分と傷の状態によって、配合を変えます」

男の目が、ほんの一瞬だけ細まった。

「なるほど。ただの湯治場ではないらしい」

「まだ、ただの別荘ですわ」

わたくしは微笑んで、男を湯殿へ案内した。

◇ ◇ ◇

湯殿の脱衣場と露天風呂の間には、板塀がある。わたくしは帳場代わりの縁側で待ちながら、改装の図面を広げていた。

……浴場の配置は、もう少し工夫が要る。男性用と女性用を分ける仕切り壁。脱衣場から湯船までの動線。足の悪い方のための手すり——

「——この湯の配合を考えた人間は、人体の構造を熟知しているな」

低い声が、板塀の向こうから聞こえた。

独り言だった。わたくしに聞かせる意図はないのだろう。声量を落としていたが、この静けさでは嫌でも耳に入る。

(……何かしら、今の)

褒められているのだろうか。よくわからない。戦傷に薬湯を合わせるのは、母から教わった基本の調合でしかない。

もう一つ、小さな声——

「面白い」

それきり、声は聞こえなくなった。

しばらくして、男が湯から上がってきた。濡れた髪から水滴が落ちている。右腕の包帯は外されていて、古傷が露わになっていた。深い刀傷。だが、傷口の赤みがずいぶんと引いているように見える。

「良い湯だった。礼を言う」

「お役に立てたなら何よりですわ」

「——この宿は面白い。しばらく滞在させてもらう」

「え?」

唐突だった。

「部屋は空いているだろう。金は払う」

「あの……まだ正式に開業しておりませんし……」

「構わない。むしろ準備中の方が都合がいい。静かだ」

男はそう言って、玄関先に置いていた旅嚢を手に取った。もう泊まる気でいる。

(……随分と勝手な方ね)

「……お名前を伺ってもよろしいですか」

「カイだ」

「カイ様。わたくしはリディアと申します。この宿の——まだ宿ではありませんけれど——管理をしております」

「女将、で構わないか」

「……まだ女将でもありませんわ」

「なるに決まっているだろう。この薬湯を出せる宿は、他にない」

わたくしは少し驚いて、この軍人の顔を見た。無愛想に見えて、目の奥に温かみがある。

(——殿下とは、ずいぶん違う目をしている)

……いけない。

比べるようなことではないわ。

「では、お部屋を用意いたしますわね。二階の角部屋でよろしいですか」

「どこでもいい」

「山が見えるお部屋にしましょう。銀嶺の湯、ですもの」

◇ ◇ ◇

僕は執務机に積まれた書類の山を見つめていた。

慈善晩餐会が一週間後に迫っている。招待状のリスト。会場の手配書。料理の発注メモ。どれも、いつもならこの時期に全て揃っていたはずだ。

「ナターシャ、招待状のリストはどこだ」

「……え?」

「晩餐会の招待状だ。毎年この時期に、あの——」

言いかけて、止まった。

毎年この時期に用意していたのは、リディアだ。

リストを作り、招待状を書き、返信の管理をし、席順を決め、料理の好みまで調べて発注していたのは、全てあの女だ。

僕は——署名しただけだ。

「ナターシャ。お前ならわかるだろう? リディアの傍にいたんだ」

ナターシャは目を大きく見開いて、小さく首を振った。

「わ、わたしは……リディア様の書類のことは、何も……」

苛立ちが込み上げた。

「何も知らないだと? お前はあの女の侍女だっただろう!」

「……ご、ございません。リディア様はいつも、お一人で……」

ナターシャが怯えた目でこちらを見ている。

——なぜだ。なぜこんな簡単なことが、誰にもできない。

たかが晩餐会の準備だろう。あの女に頼るつもりはない。ナターシャが何とかするだろう。いや、僕がやれば——

机の引き出しを開けた。

空だった。

引き継ぎ書類は、一枚もない。