作品タイトル不明
第83話 恋バナ
「恋、バナ……?」
ジュリエンヌの言葉にアンセルムは唖然とする。
数秒の間呆然としていた彼はハッと我に返ると眼鏡を押し上げて席を立とうとする。
「失礼します」
「ちょっと、待ちなさいアンセルム」
「女性陣の中に一人放り出された男の肩身の狭さをご理解いただきたい。おまけに色恋絡みの話の相手など、俺には荷が重すぎます」
「ただの恋バナに貴方を巻き込むわけがないでしょう? 普段の私の相談や、よく知りもしない方の噂を面白おかしく話したい訳ではないわ」
「では、俺がこの場に居なければならない理由は一体何だというのですか」
「ニコレットの話なのよ」
腰を浮かせていたアンセルムの動きが止まる。
彼の視線はジュリエンヌから、俯いていたニコレットへと向けられた。
視線を泳がせたりそわそわとしたりと、落ち着きがないニコレットの頬は僅かに赤らんでいた。
目を見開いたまま固まったアンセルムは数秒程ニコレットの様子を無言で観察した後、深く息を吐いてからもう一度席に着く。
「お伺いしましょう」
「話が早くて助かるわ」
真剣な面持ちで話を促すアンセルムへ、ジュリエンヌが微笑みを返す。
それから彼女はニコレットの名を呼び、自らの口で語るよう促す。
「お忙しい中、申し訳ありません。その、一度確認をしておきたいと思ったのですが――重すぎる愛情というものについて、どうお考えになりますか」
この言葉を聞いた時、アンセルムの頭を過ったのは少し前に床に這いつくばって無様な姿を晒す友人の姿だった。
思わず、鋭く息を呑み、顔を強張らせる。
グザヴィエは彼の婚約者への傾倒具合から距離を置かれたのではという冗談を言っていたが、もしや本当にそうなのか……そんな考えが浮かんだ。
(これは、ご愁傷様……)
故に友の恋が成就しない未来を勝手に思い描き、遠い目をした。
しかし彼はすぐに、真実がそうではない事を悟る。
ニコレットは確かに困っているような顔をしていたが、そこに不快感や嫌悪感は感じられなかったのだ。
(――いや、嫌っている訳ではなさそうだ。これは寧ろ……)
「ニコレット嬢。どうしてそのような事を気になさっているのですか?」
聡明で且つ、誠実なニコレットをアンセルムは尊敬している。
何より、クロエと彼女を初めて会わせた日の、二人きりの会話で少なからず心を救われた事もあったし、以降もクロエと仲を深めてくれている事もある。
そんなニコレットへ、強い感謝の念もあった。
だからこそ、アンセルムのこの時の問いは日頃よりも随分と柔らかな声色で、その面持ちも非常に優しいものであった。
それを感じ取ったのか、ニコレットがゆっくりと顔を上げる。
アンセルムは僅かに微笑みながら、彼女の顔を覗き込んだ。
「最近、他の生徒が好いてもいない相手から向けられる重い愛情は寧ろ心が離れるだけだ……という話をしているところを聞きまして。男性もそうなのかと思い、お伺いさせて頂ければと……アンセルム様?」
「ああ、いえ、失礼」
ニコレットの話を聞いている内、優しい表情をしていたアンセルムの目が遠くへ向けられる。
(以前からそういった節はあったが……やはりあいつの本心には微塵も気付いていないのか)
ニコレットが鈍すぎるのか、ヴィクトルの日頃の行いのせいなのかは議論の余地があるが、どちらにせよ言えるのは、ヴィクトルの本心をニコレットが全く汲み取っていないらしいという事だ。
「人の心理として、場合によってはあり得るとは思います。ただ全てに当てはまる訳ではない……というのが俺個人の見解ではあります。しかし、俺が気になっているのはその疑問を抱いたきっかけそのものではなく、何故、今のニコレット嬢が不安げなお顔をされているのかという事です」
「ええっと、その」
アンセルムからの問いかけに、ニコレットはまたもや視線を泳がせる。
彼女の中にある回答にアンセルムはある程度察しはついているものの、当事者を置いて話を進めるべきではないと、会話を誘導させる。
「私は婚約者であるヴィーの事を大切に思ってはいるのですが……この気持ちは私が偶然聞いた『重い』に該当するのではないかと思って」
想定していた回答だ。
しかしアンセルムの心は少々荒ぶっていた。
全てを知っている身からすれば不要な心配でしかなく、寧ろ不安を抱える彼女にもどかしさを覚えてしまう。
貴女の気持ちが重いというのならば幼少から初恋を拗らせ続け、王太子であるグザヴィエに『気持ちが悪い』と言わしめるヴィクトルの想いはどうなるというのだろう。
そもそもとして、『好いてもいない相手から』という前提が異なるのだから、たとえニコレットがアンセルムの想像以上に想いを拗らせていたとしても、ヴィクトルが嫌がる可能性など皆無なのだ。
「私のこの気持ちは、もしかしたら彼の迷惑になっていたのではと思ってしまって」
自身が抱える悩みを打ち明けるニコレットの赤らんだ頬や恥ずかしそうに言い淀む姿は、恋心に翻弄される乙女そのものだった。
だからこそ、アンセルムは思う。
(これは……やはり脈アリなんじゃないか……?)
長年、ヴィクトルの一方通行な恋心を見て来て、尚且つ成就する事はないだろうと勝手に憐れんでいたアンセルムとしては突然の状況の進展に驚きや喜びを抱いていた。
だがここでヴィクトルは心の底からニコレットを愛しているのだと告げ口をしたとしても、彼女は『剣術バカ』としてのヴィクトルについての言及としてしか捉えないだろう。
故にアンセルムはニコレットへ何と声を掛けようか悩んでしまったのだが、そこでジュリエンヌが口を開く。
「ニコレット? 先程から言っているけれど、彼のあの距離感は普通の婚約者同士であっても近すぎるくらいなのよ。あれで本当は煩わしく思っているなんて、あり得ないでしょう?」
「普通ならそうなのだと思います。しかし……彼は『剣術バカ』ですし、深く考えていないだけという事も考えられますし」
「バカで片付けられる距離感ではないわよ、あれは。それに、彼がベタベタとしているのはニコレットにだけだし」
「でも」
ジュリエンヌはヴィクトルが隠している本当の顔を知らない。
だからこそニコレットは煮え切らない返事しか出来ないのだろう。
「ニコレット嬢」
アンセルムはジュリエンヌへ助け船を出すべく、ニコレットへ話し掛ける。
「何も考えていなかろうと、逆に何か考えがあって仲の良いふりをしていようと……」
彼は酷く神妙な面持ちで、噛み締めるように、ニコレットへ言い聞かせる。
「――嫌悪を抱く相手に抱き着いたりはしません」
仲の良いふりをするだけならば、声を掛けたり口説いたり、照れたり……そういう芝居をわかりやすくするだけでいい。
寧ろ仲の良い婚約者だからという理由だけで人前で堂々と相手を抱き締める距離感の方が不自然まであるのだ。
その事実を示唆するアンセルムの言葉。
それを受けたニコレットはハッとし、ゆっくりと目を見開く。
それから彼女は非常に真剣な顔で考えを巡らせ、そしてもう一度驚いたような顔をして
「た、確かに……」
と、しみじみと呟いたのだった。