作品タイトル不明
第70話 誘い
ラガルド殿下からの提案。
想定外の言葉に私は思わず呆けてしまう。
(グザヴィエ殿下を裏切れと……? そもそも、私がここへ来たのはラガルド殿下を止める為であり、グザヴィエ殿下の為なのに)
その提案を私が呑む訳がない事は少し考えればわかる事だ。
一体何を企んでいるのか。
そんな疑念を抱き、ラガルド殿下の顔を観察すれば、彼は笑みを深める。
「何を躊躇っている? 僕は王族だ。お前の婚約者よりも多くのものを与える事が出来る。お前の存在は僕の利と成るし、お前自身の度胸や気質も気に入った。だからこそこうしてお前の口が利けるようにしている訳なんだが」
ラガルド殿下の視線が『夢の香霞』へ向けられる。
『断ればどうなるか分かるだろう』と、言っているようだった。
私が返答に迷い黙ろうと、変わらずどこか愉快そうに振る舞う彼の様子を窺い、私はある推測を立てる。
彼は恐らく――どちらでも構わないのだ。
簡単な言葉で私が寝返る事を本当に信じているような考えなしなわけではない。
普通に誘うだけでは私が断るだろう事も理解しているだろう。
その上で、私が首を縦に振るのであれば『夢の香霞』を用いず利用し、私がグザヴィエ殿下への忠義を尽くして断れば、『夢の香霞』で操ろうとしている。
どう転んでも自分に利がある。
そう確信しているからこそ、彼はこの誘いの結末ではなく、その過程を――私がどう反応し、どう返答するかだけを楽しんでいる。
(どう返答しても私の立場は悪くなる。なら、口を閉ざし、少しでも時間を稼ぐ事を優先したいところではあるけれど……)
思考を巡らせ、口を閉ざしていると、ラガルド殿下の目が鋭く光った。
「すぐに答えが出ないという事は、余計な事でも考えているな? 知っての通り、僕だって暇ではない」
ラガルド殿下は『夢の香霞』を握りながら言う。
「――十秒だ。後、十秒で答えが出なければ僕はその沈黙を拒絶と捉える。……十、九」
突然示された時間制限に胸が早鐘を打つ。
ラガルド殿下は十から数字を下がり始めた。
(……そう、簡単にはいかないわね)
提示された、十秒の時間制限。
これをどう活用する事が最善か、私はすぐに答えを見出す。
「六、五……」
着実に下がる数字を聞く。
それでも私は――何も、答えなかった。
私がすべきことは、一秒でも多く時間を稼ぐ事。
何もせずとも与えられた時間を有効に活用しない手はない。
その上で、よりラガルド殿下の足を止めさせるならば十秒ぎりぎりで、彼に寝返ったふりをすればいい。
『貴方様の提案を魅力的に感じたので、やはり乗ります』と。
信じてもらえないかもしれないし、結局は私の発する言葉の意図など悟られて洗脳に踏み切られるかもしれない。
だが、他の選択肢と比べて、稼げる時間の見込みは最も長いはずだ。
(それでも『夢の香霞』を使われてしまえば、呼吸を止めて身を引くしかないわ。最も恐れるべきは、私が洗脳される事なのだから。ただ……彼が見逃してくれるとも、思えないけれど)
私は覚悟を決め、ラガルド殿下の動きを注視する。
――お前の婚約者よりも多くのものを与える事が出来る。
思い出されるのは先程のラガルド殿下の言葉。
私は数秒後、この言葉に賛同しなければならない。
一方で、私の感情的な部分はその事実を拒絶したがっていた。
たとえ嘘であっても、彼の言葉に同意する事など、したくはない。
(出来る事なら……彼の存在を、否定したくはない)
脅しで人の心を揺さぶり楽しむような、邪悪で傲慢な目の前の男がヴィーより多くのものを持っている。
そんな事はあり得ないと、確信していた。
彼と過ごしてきた人生の大半。
そこで得た思い出や喜びの量など、数え切れるものではない。
だからこそ、嘘でもその事実を否定しなければならない事を苦痛に感じているのだ。
……彼の事を、愛しているからこそ。
「三、二」
けれど、感情に流されて選択を誤る訳にはいかない。
私は自分の想いを胸の奥底に押し留めた。
「一……」
そして、口を開く。
***
研究棟前で繰り広げられる混戦。
カミーユはその中で洗脳された数名の騎士と相対していた。
(早く、ニコレット様を追わなければ)
実力差のお陰で命の危機を覚える事はないが、明らかに様子がおかしい味方の命を簡単に奪うことも出来ない。
味方の意識を奪う機会を窺いながらも、カミーユが痺れを切らしていた、その時の事だった。
一つの人影が小さな戦場に飛び込んだ。
ニコレットが警戒を促していた、ラガルドが用いた魔法陣の方角とは逆から。
混戦へ真っ直ぐと突っ込んだその人物は、凄まじい速度で騎士達の間を擦り抜け、迷いなく研究棟へと近づく。
多くの騎士の横をすり抜けるのは左手に剣を持ち、黒い外套を身に纏った男だ。
突き進む彼が騎士達の脇を通り過ぎてから、ほん僅かな時差を伴った後。
その軌道上に立っていた騎士――洗脳されている側の騎士だけが次々と意識を失って崩れ落ちた。
それはカミーユが対峙していた騎士達とて例外ではなかった。
(速――)
自分の場所へ近づく男に気付いたカミーユが思わず身構える。
しかしその頃には既に外套の男はカミーユの隣に立っており、その背後では操られた騎士らが倒れていた。
驚きから、カミーユは視線だけを隣に立つ男へ向ける。
男は特にカミーユへ声を掛ける事はせず、研究棟へ続く扉に手を掛けた。
目深に被られたフードの下から、紺色の髪が僅かに覗いていた。
「っ、待て――」
騎士の装いではない、素性の知れない相手をカミーユが呼び止めるも、相手がそれに耳を傾ける事はなかった。
ニコレットが離れる際、閉め切っていなかった扉を開けた男はそのまま内部へと足を踏み入れ――一瞬にして姿を消したのだった。
***
「一」
最後の数字が数えられる瞬間、私は口を開く。
そして『承りました』という言葉を吐こうとした、その時。
トッ、ととても軽い足音が背後から聞こえた。
それに気付き、振り返った途端、私の体が浮き上がる。
視界の中、第三者の姿が映り込んだ。
私の背後に回り込んだその人物はあっという間に私を抱き寄せた。
視線を上げれば、深く被っている相手のフードの下が良く見えた。
紺色の髪に金色の瞳。
別の人物を連想しそうな特徴を持った相手。
けれど――よく見知った顔が、そこにはあった。
(――ヴィー)
普段の底抜けな明るさを消した、どこまでも真剣な面持ちの婚約者の姿がそこにはあった。