軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

お姫さまとアップルパイ(後篇)

「あ、そうですか……」

応えてしまってからセレスは、思った以上に自分が落ち込んでいることに驚いた。

遠路はるばるラ・パリシィアからやって来たのは何だったのだろうか。もう揚げ物の口になっていたのに、計画が全て狂ってしまった。

しかし、ここで気落ちしている場合ではない。

侍女が踏ん張ってくれているとはいえ、抜け出したこともいずれは露見する。そうなる前に、何か美味しいものを食べなければならなかった。

だが、何を頼めばいいのだろう。ジャン=フランソワの報告書ではサラダも美味しいとか書かれていたが、せっかくここまで来てサラダだけしか食べずに帰るというのはなんだか負けたような気がする。どうせなら思い出に残るようなものが食べたい。

「 シノブちゃん、こちらのお嬢さんにもコレを出しておやりなよ」

隣席に座る銀髪の女性が女給仕に声を掛ける。年の頃ははっきりと分からないが、纏う雰囲気はどことなく騎士物語に登場する魔女のようだ。手に持っているのは何かのパイらしい。

「そうですね、お詫びも兼ねて」と呟き、シノブと呼ばれた給仕は厨房からパイの載った皿を取り出してきた。

「串かつはご用意できませんので、お詫びにこちらのパイをどうぞ」

「え、でも、私……」

戸惑ってみせるセレスだが、視線はパイに釘付けだ。古都に入るまでの旅程では飽きるほどに馬鈴薯とザワークラウトと腸詰を食べさせられた。甘味などラ・パリシィアを出てから一度も口にしていない。

「遠慮しないでください。当店からのお詫びです。お代も頂きません」

セレスの脳髄は高速で事態を分析する。今ここで断れば、店員や客に怪しまれはしないだろうか。カウンターの奥で酒杯を傾けている僧形の老人はともかくとして、この銀髪の女性はなかなか観察眼が鋭そうに見える。

王女摂政宮セレスティーヌ・ド・オイリアが古都を訪れていることは秘中の秘だが、勘付いている者は既にいるだろう。となれば、ここは敢えて街娘セレスとしてパイを受け取るのが最善ではないか。いや、最善である。これは浅ましい食慾に負けたのではなく、高度な政治的な配慮の結果として、パイを受け取るのが唯一最善最良の選択肢として残ったから受け取るのである。

思わず唾を飲み込みそうになるのを堪えながら、セレスはシノブに微笑む。

「そういうことなら、お言葉に甘えて頂戴します」

「ではどうぞお召し上がりください。アップルパイです。お口に合えばいいんですが」

コトリと目の前に置かれた皿の上で、パイの表面は艶やかな光沢に包まれている。

パイはラ・パリシィアでも最近流行りはじめた調理法だ。パイ生地を使った菓子の腕を競い、多くの菓子職人が次々と新しい菓子を発明している。舌の肥えた貴族たちのパーティを彩る菓子は今や社交界に欠かせぬものとなっている。

林檎のパイと言って思い出すのはジャルジーだ。

タルト生地の上に林檎煮を並べ、パイ生地で閉じ込めて焼き上げる。東王国の貴婦人でこれを喜ばない者はいないと言われた傑作だった。

しかし目の前にあるこのアップルパイは少し違うようだ。

パイ生地に包まれた林檎から微かに漂うワインの香りが鼻腔をくすぐる。なるほど、林檎のジュースではなく、ワインで煮込んだということだろう。女子供向けの菓子ではなく、大人も楽しめる上品な菓子に仕上げたと言うつもりだろうか。

パリパリとした触感を楽しみながらフォークをパイに切り入れる。林檎がしっとりとしているのは予想通りだが、思ったよりも香りが甘い。

ワインだけでなく、砂糖もふんだんに使っている、ということだ。砂糖の生産地や交易路の大半は現在東王国が直接抑えているはずだが、この居酒屋は一体どこから手に入れたのだろうか。

ダメだダメだとセレスは自分を叱責する。

今の自分はセレスティーヌ・ド・オイリアではなく、ただのセレスだ。街娘が古都に接続されている交易路や交易団の流れについて考えたりはしないものだ。今はただ、目の前のアップルパイに注目する。それが乙女と言うものだ。

「……まずは一口」

後れ毛を小指でかき上げながら、パイを口いっぱいに頬張る。王城では決して許されないが、街娘である今はむしろ行儀悪く食べることこそ流儀である。

「あっまーい!」

思わず頬に手を当てて、周りの目も気にせず声を上げてしまった。

林檎がたっぷりの砂糖とワインで煮詰められたコンポーネントというのは予想通りだが、表面に光沢のある生地も何か果物を煮詰めたシロップが塗られている。

甘い。破壊的に甘い。でも、単純な甘さではなく、旨みを伴った甘さだ。

食感も素晴らしい。まだ温かいパイ生地のサクサクした歯触りの後に、くったり煮込まれた林檎の柔らかさがどこまでも優しい。

「お口に合いましたか?」

「はい、とっても美味しいです!」

心の底からの賛辞に、シノブも料理人も銀髪の女も僧形の老人に意味ありげに微笑んでいる。

「……シノブちゃん、そろそろアレの出番じゃないかの」

「……そうですね」

シノブの口角が妖しく歪む。素朴な笑顔の底から覗く悪意に満ちた微笑。いったい、これからなにが起こるのか。そう身構えていると、アップルパイの上に白い塊がぽんと置かれた。

「さ、冷たい内に早く食べてください」

冷たい? アップルパイはむしろ温かかったはずだと思っている目の前で、白いものがとろりと溶け始めた。まるで川の中へ落とした雪塊のように。

氷菓!

それは東王国王女摂政宮のセレスティーヌ・ド・オイリアでさえ生涯に一度しか食べたことのない至高の珍味。まさかこんなところにあるはずはないと思いつつ、細身のスプーンに持ち替えて手早く口に運ぶ。

その瞬間、口の中に幸せの味が蕩けた。

乳酪を特別な方法で冷やした結果得られるという究極の菓子が、どうしてここにあるのか。それは問うまい。ただただ、今はこの出会いに感謝したい。美味しいと言うことがこれほど幸せなことだとは思わなかった。

考えて見れば、クシカツがなくてよかったのかもしれない。あれば氷菓にありつけなかった。

そんな風にぼやぼやしている間にも白い幸せの塊は段々と姿を変えていく。ダメだ。早く食べないと。だが、どうしてシノブはせっかくの氷菓をアップルパイの上に載せたのだろう?

瞬間、セレスの脳を稲妻が走り抜けた。

スプーンに持ち替えたのを再びフォークに持ち直し、そして……

「これは、一緒に食べろと言うことですね?」

周りの四人がにやにやとしながら頷く。

氷菓を削るように取りながら、パイ生地と下の林檎を少し乱暴に切り分けた。

パクリ。

トロサク甘しっとり美味しい!

幼い頃から英才教育を施されたセレスはかなりの国のかなりの言葉に精通しているつもりだが、今のこの味を端的に表す語を知らない。

二口、三口と食べ進め、あっという間に皿は綺麗に空になってしまった。

満足感と寂寥感が入り混じり、言葉となって口を突く。

「……美味しかった」

「それはよかったです」

微笑むシノブに例を言い、セレスはそっと立ち上がった。

「もうよろしいんですか?」

「ああ、あまり長居すると、決心が鈍ってしまいそうだから」

そう言うとセレスは眼鏡を外し、硝子戸を引き開ける。既に暗くなった<馬丁宿>通りには、それと分からぬよう変装した近衛の騎士が数名、佇んでいた。

セレスはその中で最も専任の老騎士に声をかける。

「待たせたな」

「いえ。こちらの方こそ、お探しするのに手間取り面目次第もございません」

「侍女は責めるな。あれは全て私の命だ」

「承知しております」

どうやってここを見つけたのだろう、と思ったが、古都にきたのだから例の報告書の店に行くということくらいは誰かが気が付くだろう。王都に残してきた官僚も優秀だが、こちらに連れてきた者たちもまた優秀だ。セレスティーヌと同じくジャン=フランソワの報告書の密かな愛読者であるラ・カタン上級伯辺りは今頃地団太を踏んでいるかもしれない。

「さ、帰ろう。やらねばならぬことは山積みだ」

「気晴らしは御済みですか。なんでしたらもう二、三軒は目を瞑っているようにとラ・カタン殿に仰せ付けられておりますが」

「もう十分。それよりも今は時間が惜しい」

「畏まりました」

暗がりの道を、雪を踏み締めながら往く。

甘く蕩けるような日々は今日終わるのだ。最後にああいうものが食べられたことを、乙女セレスは雌月に深く感謝した。