軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

土鍋豆腐

低く垂れ込めた雲間から微かに陽が覗いた。

四頭立ての馬車の車窓を、一面の雪景色が後ろへ後ろへと流れていく。冬の陽射しを照り返す雪原はきらきらと輝きはじめ、眩しいほどだ。

古都を目指す馬車は雪の道を静かに北へ向かう。風もなく、とても静かだ。

マクシミリアンの視界の端を、何かが駆けて行った。

鼠兎だ。

真っ白な冬毛の鼠兎は初めて見る。

「ねぇ、見て!」と声を上げそうになって、寸でのところで押し黙った。

馬車の隣席に座る“妻”は反対側の車窓に顔を向けて、眠っていた。

いや、本当は眠っていないことをマクシミリアンは知っている。夫婦喧嘩の間は口を利かないとヒルデガルドは頑なに誓っているのだ。

頑固者、と口の中で唱え、窓に向き直る。

せっかく見つけた鼠兎はもう雪原の白に紛れて見えなくなっていた。

諸侯の子として生まれついたが、マクシミリアンにはまだ政治が分からない。

日々の政務は重臣たちが全部やってくれるから、マクシミリアンのすべきことはほとんどなかった。執務室の大きな机に座って書類に署名をすることと、重要な手紙に封蝋を捺すことだけだ。後は報告を聞いて頷くだけ。これは多分、政治ではない。

何せ、十一歳になったばかりだというのに妻を娶るのが政治というものなのだ。分かろうとはしてみるが理解は追いつかなかった。

一歳年上のヒルデガルドは流れるような金髪に青い瞳の可愛らしいお嫁さんだが、マクシミリアンと同じで、まだ子供だ。

綺麗なドレスを着て社交界では立派に挨拶して見せるヒルデガルドのお気に入りはふわふわのクッションと甘いお菓子で、どちらかがないと途端に不機嫌になる。

それに、頑固だ。とても。

ちょっとしたことで喧嘩になると、ほとんど口もきいてくれない。

結婚する前は夫婦喧嘩なんて莫迦莫迦しいと思っていたものだが、今では日常茶飯事だ。

「マクシミリアンより私の方がお姉さんなんだからね」と大人ぶって見せるならもう少し折れてくれても良いのになと思いながら、謝るのはいつもマクシミリアンだ。

それでも普段なら二、三日で仲直りするのだが、どいうわけか今回は長引いている。

「ねぇマクシミリアン」

「なんだい、ヒルダ」

やっぱり起きていたな、それなら声を掛けて白い鼠兎を見せてあげれば良かった、と思いながら返事をする。

「これからどこへ行くの?」

「古都だよ。あの居酒屋」

「ほんと?!」

笑顔でこちらに向き直るが、慌ててまた窓の方に視線を向けた。夫婦喧嘩中だったことを思い出したらしい。こういう反応が可愛いから、無理をしてここまでつれてきた甲斐がある。

「本当だよ。何か美味しいものでも食べよう」

だが返事はない。

そっと顔を覗き込んで見ると、クッションに顔を押し当てて頬をぷっくりと膨らませている。

「行きたくないの?」

「マクシミリアン、私のこと食べ物で釣れるような安い女だと思っているんじゃないでしょうね」

ガタンと馬車が揺れた。

「そんなことはないよ」

「じゃあどうして用事もないのに古都へ行こうなんて言い出したの?」

ああもう、とマクシミリアンは心の中で毒づいた。気持ちは分かる。分かるのだが。

大人の夫婦はみんなこんな風に夫婦喧嘩をしているのだろうか。世の中の夫婦の中でも我が家だけが特殊なのだろうか。

「喧嘩のことは関係ないよ。ヒルダがいつも頑張ってくれているから、僕なりのプレゼントだよ」

「プレゼント?」

「そう、プレゼント。ヒルダにはいつも笑顔でいて欲しいからね」

口先だけではない。本心からそう思っている。出会いは政略結婚だったが、マクシミリアンはヒルデガルドに心の底から惚れているのだ。

もちろん、怒った顔より笑顔でいてくれた方が嬉しい。

だが、返事は予想したものと違った。

「……それってやっぱり、料理で釣れるって思っているんじゃないの?」

「ち、違うよ」

慌てて否定するが、もうヒルデガルドは返事もしてくれない。むすりとしたままクッションを可愛い拳でボスボスと殴り続けるだけだ。

花か首飾りでも贈ればよかったか、とも思うが、それもそれで物で釣っているようで気が引ける。

結局は真心が伝わればいいのだが、喧嘩をしている状態ではそれが一番難しいのだ。だからプレゼントという形に乗せて伝えようとするのだが、今回はそれが裏目に出た。

女心は本当に難しい。

まだ十一歳だというのに、夫婦喧嘩についてだけはどんどん詳しくなっていく。

この喧嘩を無事に解決できたら、夫婦喧嘩の対処について一冊本が書けるかもしれない。

そんな下らない妄想を弄んでいる内に、聳える古都の城壁が丘陵の向こうから頭を覗かせた。

「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」

大市で来た時と違って、今日の居酒屋ノブは通常営業だ。木と漆喰でできた店はいつ見ても異国情緒に溢れている。平民の酔客がみんな楽しそうに酒や肴に舌鼓を打っていた。

考えて見ればマクシミリアンがこういう場所に顔を出すのははじめてのことだ。

お付の者は馬車に残してきたので、夫婦だけでの食事ということになる。

「二人、入れますか?」

「大丈夫ですよ」

確かシノブという名の女給仕の案内でテーブル席に座る。ヒルデガルドのために椅子を引いてやると、ほんの少しだけ驚いたような表情を見せた。普段は召使いのやることだ。こういう反応を見るのも悪くない気分だ。

外の寒さが嘘だったかのように暖かな店内で腰を落ち着けると、期待と空腹とで早く何かを腹に詰めたくなる。ただ、どういう具合に注文していいのかが分からない。

「ヒルダ、こういうところではどういう風に注文したら良いんだろう?」

前回来た時は何も頼まずとも料理が出てきたはずだが、今日は違う。

周りの客を見ると銘々に好きなものを頼んでいるようだが、どう頼めばいいものなのか。

店員ではなくヒルデガルドに聞いたのは、彼女が無類の教えたがりだからだ。

しかし今日はいつもと少しばかり様子が違う。

いつもなら何か聞くと姉さん女房風を吹かせるヒルデガルドだが、もじもじと俯くばかりで何も言おうとしない。夫婦喧嘩の延長戦かとも思ったのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。

「ヒルダ、ここではどういう風に料理を頼んだらいいんだい?」

「……知らない」

「でも、ヨハン=グスタフ叔父さんとよくここに来てたんでしょう?」

元はと言えばヨハン=グスタフとヒルデガルドがこの店を見つけたのが全ての始まりだった。今では居酒屋ノブの名前は帝国貴族の間でも少しは知られたものになっていて、お忍びで足を運ぶ貴族もいるという。

「……いつも、アンカケユドーフが出てきてたから」

「ああ、そっか……」

妻の偏食はマクシミリアンも身に沁みて知っていた。

食べられないのではなく、好き嫌いだ。

食べようと思えば食べられる。ただ、気に食わなければ絶対に口にしない。祖父の代から仕える司厨長が匙を投げるほどの偏食ぶりだが、機嫌のいいときは比較的なんでも食べる。

よほど甘やかされて育ったのだろうという者も家中にいるが、マクシミリアンはゆっくり解決すればいいと思っていた。

齢十二で嫁いできたのだ。気に食わないこともあるだろうし、思う所もあるだろう。

「ご注文はどういたしましょう?」

声を掛けてきたのはシノブではなく、まだ少女のような給仕だった。年の頃はマクシミリアンやヒルデガルドとほとんど変わらないのではないか。前に来たときエーファと呼ばれていたはずだ。

「まだ決まっていないんだけど……そうだ、何かヒルダに、妻に似合った料理を頼む」

「畏まりました」

ぺこりとお辞儀をすると、エーファは料理人に注文を伝えに行く。

好みでも尋ねられるかと思ったが、そんなことはなかった。拍子抜けだ。

アンカケユドーフ以外の物を、と頼むのを忘れていたが、まぁいいかと思い直す。ヨハン=グスタフによればこの店は無理難題にも応えてくれるという事だから、今のような注文でも何とかしてくれるかもしれない。

別にアンカケユドーフが出てきても良いのだ。ヒルデガルドの機嫌がそれで直るのなら、何が出てきても構わないというのが今のマクシミリアンの嘘偽らざる気持ちだった。

店内を見回す振りをしながら、ヒルデガルドの方を盗み見る。

そっぽを向いたままの彼女だが、先ほどよりは落ち着いて見えた。馴染みの店に来て少し気分が楽になったのだろうか。この歳で嫁いでくるというのは、気も張り詰めるものなのかもしれない。

暫く店の喧騒に耳を傾けていたが、痺れを切らしたようにヒルデガルドが口を開いた。

「ねぇ、マクシミリアン」

「なんだい、ヒルダ」

「今日はどんな料理が出てくると思う?」

まさか何でもいいと正直に答えるわけにもいかない。

せっかくヒルデガルドの方から話しかけてきたのだから、何とか話を続けなければならない。

「何が出てくるんだろうね」

「もう、それを何か考えようって言ってるのよ?」

「この店に来た回数はヒルダの方が多いんだから、ヒルダが分からないなら僕にも分からないんじゃないかな」

「またそうやってはぐらかす」

また、と言われてハッとする。言われてみれば確かに思い当たる節は多い。年上のヒルデガルドを立てようとして、自分の意見をはぐらかすことはこれまでもあった。

でもそれは、相手を尊重したかったからだ。

「はぐらかしているわけじゃないんだけどな」

「私はね、マクシミリアン。相手の顔色を窺って自分の意見をはっきり言わないような旦那さんのところへお嫁に来たわけじゃないんだからね」

こちらへ向き直ったヒルデガルドにそう言われてしまうと、ぐぅの音も出ない。

青い大きな瞳でじっと見つめられると、心の底まで見透かされているような気がする。

「そ、それは……」

何か言おうとしたところで、エーファが何かを運んできた。

「今準備しますから、少し待ってくださいね」

アンカケユドーフのときに使った卓上焜炉よりも一回り大きい。エーファがカチカチと操作すると、真ん中に青い火が輪になって灯った。その上に、焼き物の鍋が据えられる。

「手作りドナベドーフです。このまま少しお待ちください」

「ドナベドーフ?」

ドーフということはアンカケユドーフの親戚のような料理だろうか。鍋には牛の乳酪に似たものがひたひたと満たされている。ミルク粥のようなものが出てくるのだろうか。

温められて鍋から立ち上り始めた香りは、どことなく豆に近いという気がする。

暫く待っていると、表面に薄い膜が張り始めた。エーファはそれを器用にハシでさっと掬うと、取り皿に盛ってショーユをかけ、ヒルデガルドの前に置く。

「ユバです。どうぞ召し上がれ」

自分の分はないのかと聞こうとして、やっぱり止める。すぐにもう一皿用意してくれたからだ。

その様子を見られていたのか、ヒルデガルドがクスリと笑う。

「心配しなくても二人分あるわよ、マクシミリアン」

「分かってるよ」

気まずさを誤魔化すようにしてユバを口に含む。今まで食べたことのない不思議な食感だ。

なるほど、こういう料理なのか。ミルクのようなこのスープを温め、ユバを掬って食べさせる。

これは気の利いた趣向だ。ヒルデガルドも、美味しそうに目を細めている。

もうちょっと食べたい。そう思いながら待つのだが、どういうわけか表面は固まってこない。

それどころか、エーファは鍋のミルクを薄めるようになにかの汁を加えて蓋を閉め、火を消してしまった。

「まさかこれでお仕舞いかい?」

「いえ、もう少々お待ちください。出来上がるのに少し時間がかかるんです」

テーブルの上で料理を仕上げるという趣向にはアンカケユドーフのときも驚いたが、今回もそうなのだろう。不思議な存在感のある鍋を挟んでヒルデガルドと向き合っていると、どういうわけか自然に笑みがこぼれてくる。

「ごめん、ヒルダ。僕が悪かった」

「マクシミリアン、何を謝ってるの?」

「料理の前に、仲直りをしておきたくなったんだ」

その言葉にヒルデガルドが冗談めかして頬を膨らませてみせる。

「貴方っていつもそうね。謝れば許してもらえると思ってるんでしょ?」

「そんなつもりはないよ。でも、悪いことをしたら謝らなきゃ」

「じゃあ、何が悪かったと思ってるの?」

それはと口を開きかけて少し考え込む。

この数日ずっと喧嘩をして口もきかなかったが、そもそもの発端は何だったんだろうか。どうにも思い出せない。

「ご、ごめん。何で喧嘩してたんだっけ?」

「ほらまた謝る」

口調に反して、ヒルデガルドの口元にはもう微笑が戻っている。

「なんてね、私も忘れちゃった」

とても些細な切っ掛けだったということだけは何となく憶えているのだ。結局、二人ともよく分からないまま喧嘩を続けていたということになる。

「あー、莫迦莫迦しい。マクシミリアン、私お腹が空いちゃった」

「僕もだよ、ヒルダ」

ちょうどいい具合に、エーファが鍋の蓋を取りに来た。

蓋を開けると、中にはスープではなく、トーフが出来上がっている。

「さぁ、ドナベドーフの完成です。お二人で召し上がってください」

「二人で? 好きによそって食べればいいのかな?」

「はい、ご自由にどうぞ」

これはなんだか面白い。ヒルデガルドの分も取り分けた後で、自分の分も皿に盛り付ける。ちょっとこぼしてしまったが、気にしない。何せ鍋にはまだまだいっぱいのトーフがある。

レンゲで掬って口に運ぶ。

「……美味しい!」

ふわふわのとろとろ。それでいて舌触りは滑らか。

淡白な味わいだが、どんどん食べたくなる。

「美味しいね、マクシミリアン」

「そうだね、ヒルダ」

最初はヒルデガルドの分を注ぎ分けてあげていたのだが、途中から争奪戦の様相を呈してきた。

何せ朝から二人ともほとんど何も食べていない。取り合うように食べながら、あっという間に鍋の底に最後の塊が残るだけになった。

「最後の一口ね」

「……ヒルダ、悪いんだけど」

「あら珍しい。マクシミリアンが自己主張するなんて」

「たまには良いだろう?」

カイジャクシを取ると、ヒルデガルドがマクシミリアンの皿に手ずからトーフを注いでくれる。

二人で微笑み合うと、この数日の喧嘩はなんだったのかという気分になった。

後ろの席で大きな笑い声が起こる。向こうのテーブルでもドナベドーフを食べているようだ。

この店で一つの鍋を囲めば、貴族も平民もない。皆、美味しいものを愛する客だ。

「また食べに来たいね」

「もちろん。次は最後の一口は私が貰うわ」

そう言ってまた二人で笑い合う。

こんな日を、ずっと二人で作っていこう。そんなことが頭をふと過ぎった。