軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

トリアエズナマの秘密(弐)

翌朝、しのぶは硝子戸に大きく“本日もウナギ弁当はお休み”の貼り紙を出した。

昨日の嵐が嘘のように晴れているが、しのぶの心は晴れない。

結局泊まっていくことになったエーファとヘルミーナ、それにベルトホルトも全員が寝不足に目を腫らしている。

バッケスホーフと入れ違いにやって来たベルトホルトによって、確かにラガーは御禁制品らしいということが分かった。

「何でも先帝陛下がまだ若い頃に発見された新技術だそうでな。とにかく滅法美味いということで、帝室とごく限られた人々にしか飲めないように製造と流通を制限したらしいんだよ」

免許を持っていない者が販売した場合、莫大な違反金が科せられ、最悪の場合は死罪を申し渡されることもある。

それほどの重罪だと思っていなかったしのぶと信之は頭を抱えたが、良い解決策は浮かばない。

いや、方法はあるのだ。

簡単なことで、居酒屋のぶを諦めればいい。

表口が何故か異世界の古都に繋がっているこの店を閉め、日本で暮らせばいいだけのことだ。

怪しげな古物商のお陰で何とか古都の通貨は換金できている。貯金をはたけば、どこかにまた居酒屋か小料理屋を開く頭金くらいにはなるだろう。

だが、それはしたくないのだ。

冬の寒い時期に店を開けてもうすぐ半年。これまで店に通ってくれた常連とも仲良くなった。別れるのはつらい。

それに、エーファの問題がある。今でこそエーファの家庭はのぶからの給金で安定しつつあるが、店を仕舞えばそれもまた元通りになってしまう。

ここを明け渡さずに済む方法はないのか。

「しかしバッケスホーフのひょろひょろ親爺、よりにもよってヘルミーナに色目を使うとは…… 許せんな」

「それはヘルミーナさんが可愛いからですよ」

掌に拳を打ち付けるベルトホルトをエーファが慰める。

昨日あんなことを言われたヘルミーナは、ショックでまだ薄手の毛布にくるまっていた。

「とにもかくにも対策を練らんとな」

「でも大将、こういうことに詳しそうな人って」

常連の中には色々な人がいるが、この手の問題になると詳しそうな人は限られてくる。

「ニコラウスさんか、ゲーアノートさんか、エトヴィン助祭か……」

「何じゃ、儂の名前を呼んだかの」

丁度そこに硝子戸を引き開けてエトヴィン助祭が現われた。

いつも通りの格好だが、こんな時間からのぶに顔を出すのは珍しい。

「どうしたんですか、助祭。こんなに朝早くから」

「いや、一つ気になることがあったんじゃが…… どうやら儂の勘違いだった様じゃな」

「勘違い?」

おお、とエトヴィンは寄り添うベルトホルトとヘルミーナの方に顎をしゃくって見せる。

「昨日の晩、嵐の中をわざわざバッケスホーフ商会の手代が教会に妙な書類を持って来てな。それがベルトホルトとヘルミーナの婚姻無効調査願いじゃったもんで気になったんじゃが」

「なんだと!」

いきり立つベルトホルトをエーファと信之が宥める。ヘルミーナは毛布に顔をうずめ、今にも泣き出しそうだ。

「あのひょろひょろ親爺ふざけた真似をしやがって…… カチコミだ。ハンスとニコラウス、いや中隊全員でバッケスホーフの屋敷を後も残さずに消し炭にしてやる!」

「エトヴィン助祭、そんなものには何の効力もありませんよね?」

心配そうに見上げるエーファの頭を撫でるエトヴィンの表情は暗い。

「普通なら、何の問題もない。北の港町の教会に伺いが出されて、それでおしまいになる。ただ今回の場合はなぁ」

「何か問題があるんですか、助祭?」

「エーファちゃんのような子に言うべき話でもないんじゃが、枢機卿に一人空きができそうでな」

古都を含む教区を担当する大司教が、枢機卿になるために要路に金をばら撒いている。

バッケスホーフが大司教と通じているようなら、今回の調査願いが受理されてしまう恐れがあるというのが助祭の懸念だった。

店を重い空気が包む。

こんな時こそ、自分がしっかりしなくては。

しのぶは立ち上がると、カウンターの中へ入る。

「さ、皆さん。朝ごはんにしましょう」

これだけの人数がいるので、メニューは簡単に食べられるおむすびと御味噌汁、それにたまご焼きと炒めたウインナーになった。

おむすびを握ったのは、しのぶとエーファだ。

「塩味が効いて、なかなか美味いもんじゃのぅ」

おむすびに齧りつきながらエトヴィンが無理に明るい声を出した。

ベルトホルトの表情は固いが、おむすびをヘルミーナと半分にしながら食べている。たこさんウインナーには一瞬怯んだが、信之が烏賊ではないと説明するとお気に入りになったようだ。

味噌汁を啜りながら、信之がエトヴィンに昨日の事情を説明する。

始めから終わりまで黙って聞いていたエトヴィンが、唸るように呟いた。

「ラガーはなぁ」

「そんなにまずいですか」

膝を乗り出す信之に、エトヴィンが重々しく頷く。

「先帝陛下は大変聡明な方であらせられた。ラガーの禁制というよりも流通の制限は、いずれ帝都の特産品として売り出すために準備期間として三十年を設定されたんじゃ」

慢性的な財政難に喘ぐ帝国は換金性の高い特産品を求めていたというから、ラガーにその白羽の矢が立ったのだろう。

確かに独自製法のビールが普及すればそこからあがる利益が大きくなるというのはしのぶにも理解できる。

居酒屋のぶの鰻弁当のようなものだ。他で手に入らなければ、利益を出す方法はいくらでもある。

「しかし、思うように生産量が増やせんかったそうでな。そのままなし崩しに現在も勅書が効力を発揮し続けておる」

「撤回される見込みはないんですか?」

「どうじゃろうなぁ。今上の陛下は祖父に当たる先帝陛下のことを深く敬愛しておられるから、なかなか撤回までは難しいかもしれん。その後、ラガーの大量生産に成功したという話も聞かんしな」

「そんな……」

落ち込む信之の肩に、エトヴィンが手を置く。

「後は先帝陛下御自身でラガーの流通を制限した勅書を撤回する、という可能性に賭けるしかないのう」

「えっ」

先帝陛下がまだ生きているのか。そう聞きかけて、しのぶは危うく思い留まった。存命であることを知らなければ不敬極まりないだろう。あまり変なことを聞くとさすがにまずい。

「そうは言っても今回は望み薄じゃろうな。先帝陛下に直訴に伺おうにも、日が足りん。バッケスホーフの方が動きは早かろう」

「そんな……」

エーファが床にぺたんと尻を着く。

しのぶも色々考えてみるが、良い考えがまとまらない。そもそも、解決策があるのかどうかすら怪しいのだ。

日本に帰るか。その考えが何度も頭を過る。

その時、信之が何かを決意したように唸りを漏らした。

「とにかく、夜の部だけでも店を開けよう」

店に一番にやって来たのは鍛冶ギルドのマスター、ホルガーだ。

エーファとヘルミーナは帰しているので、店にはしのぶと信之の二人だけしかいない。

いつも通りにカウンターの真ん中に陣取ると、開口一番とんでもないことを言い出した。

「今日の市参事会の会合で、居酒屋ノブの話が俎上に上がった」

「えっ、それってどういうことなんですか?」

身を乗り出すしのぶにホルガーは渋面を作って見せる。

「決して良い話ではない。むしろ、状況は相当に悪いと覚悟してくれ」

「……ラガーの、ことですか?」

「なんだ、知っていたのか」

いつも通り何事もなく小さな懸案事項を処理していた市参事会だったが、残りの議題が北方三領邦について古都で開かれる会議に関するもののみとなった時にバッケスホーフが緊急の議題としてこの店のことを持ち出したのだという。

「参事会の会員も寝耳に水だった。この店のエールが美味いということはみんな知っていたが、まさかラガーだとは思っていなかったからね。いや、他にラガーを飲んだことがないから比べられないのも無理はないんだが」

「それでそうなったんですか?」

「君たちと面識があるのかどうかは知らないんだが、水運ギルドのゴドハルト氏がえらく君たちを擁護してね。凄い剣幕だったよ」

鰻の一件だ、ということがしのぶには直感で分かった。

ここで居酒屋のぶに何かの罰が加えられれば、折角手に入れた古都の漁業権が全く無駄になる。それを考えての援護射撃だろう。

「そもそも居酒屋の話を市参事会の議題とするのはバッケスホーフの議長としての器に疑念を抱かざるを得ないとまで言っていたな。これには私も硝子バカのローレンツも同意見だった」

「ローレンツさんも」

「アイツの家は親子二代でここの常連だからな。この店が無くなったら困るんだろう。普段は中の悪い水運三大ギルドが一緒にノブを庇ったのも面白かった」

思えば色々な人がこの店のご飯を食べ、酒を飲んでいたのだ。

こういうところで気付かされるのは不思議な気分だったが、しのぶは胸に熱いものが込み上げるのを感じた。

「とは言ってもバッケスホーフの方が一枚上手だった。あらかじめ根回ししていたみたいだな。この店は市参事会の調査の対象になる」

「そうなんですか……」

「調査担当は徴税請負人のゲーアノートだ。一度食い付いたら骨までしゃぶり尽くすような奴だからな。気を付けた方がいい」

「ゲーアノートさん、ですか」

ゲーアノートは常連だ。

しのぶのナポリタンを食べてからというもの、ときどき店を訪れては食事をしていく。特に鰻が気に入ったようで、鰻弁当は必ず三枚ずつ買っていくほどだった。

ゲーアノートなら、少しこちらに配慮してくれるかもしれない。

そんな淡い希望はホルガーに無情にも打ち砕かれる。

「ゲーアノートはえらく気合いが入っていたな。市参事会からの仕事なんて滅多にあるもんじゃない。ここで功績があれば将来も安泰だろうし。店に何度か来たことがあるという程度でお目こぼしをしてくれるような甘い徴税請負人じゃないよ」

そこまで言うと、ホルガーはお通しとエール一杯分の金をカウンターに置いて席を立った。

「私はこの店が好きだし、掛けられた嫌疑は誤りならいいと思っている。ただ、相手はゲーアノートだからな。何処かに身を隠す当てがあるなら、準備だけはしておいた方がいいぞ」

忠告に来た、ということなのだろう。

市参事会員の身分で居酒屋のぶに接触することが危険だということは分かる。下手をすると証拠の隠滅を教唆したと疑われても仕方のない行動だ。

それでも、この店に来てくれた。その心遣いが堪らなく嬉しい。

「大将、どうする?」

「どうする、とは?」

「ホルガーさんに、逃げる支度をした方がいいって言われたんだけど」

逃げることは、できる。

別の場所で店を出すことも、不可能ではないだろう。

だが、信之は何も迷っていないようだった。

「ここに店がある限り、ここでやっていこう」

「でも、捕まるかもしれないよ? 捕まらないにしても、変な評判が立ってお客さんも来なくなっちゃうかも」

信之がちらりと視線を逸らしたので、しのぶもつられてそちらを見る。

そこには神棚が鎮座していた。今日のお供えは胡麻入りの五目稲荷だ。

「その時はその時だ。ここは居酒屋だからな。お客さんがいる間は、ここでやる。どうしようもなくなったら、その時どうするか考えよう」

しのぶはその言葉に精いっぱいの笑顔で頷く。

「さ、今日もしっかり働こう」

「うん!」

噂好きの住人の多い古都ではこの一件は瞬く間に広まった。

客が来なくなることを予想していたしのぶと信之だったが、この日以降、客足は明らかに増えた。

常連だけでなく前に一度顔を見せただけの人も次々と暖簾をくぐるようになり、一息つく暇もないほどに忙しい。

だが、ゲーアノートだけは一度も店に姿を現さなかった。

そして、運命の日がやって来る。