軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

水炊きと仲のいい夫婦(後篇)

「その主役が、こんなところに居ていいんですか?」

突然水を向けられて、カウンター席の人物が思わず噎せ返った。

アルヌ・スネッフェルス。

今まさに人々の話題に上っているサクヌッセンブルク侯爵その人である。

隣には妻であるオーサの姿もあった。

いつもより控えめな恰好で来ているのは、お忍びということだろう。

それを慮ってか、周囲の人々も新婚の二人を囃すような無粋はしない。

アルヌが少し肩を竦めて見せる。

「シノブ、新婚の夫婦にも息抜きは必要だ。特に遠方からの身分の高いお客や、家系図でしか名前を見たことのなかった親類縁者の接待できりきり舞いになった後なんかは、ね」

ま、それもひと段落したからここにいるんだけど、とアルヌが鍋に貝杓子を入れようとすると、隣のオーサがにっこりと笑った。

「その収支報告の確認と諸々の支払いはこれからですけどね」

誰かさんが見栄を張って盛大に酒と肴を振舞ったから、顧問官たちが難しい顔をしていましたよ、と新妻は付け足す。

うぐ、とアルヌの手が止まった。

いつの時代もどこの地域も、宴というのは下準備と後片付けが大変なのだ。

予算の半分はビッセリンク商会のロンバウトが出してくれたが、残り半分といっても莫大な金額である。宴には付き物の予定外の支出も重く圧し掛かっていた。招待状を送っていない貴族が押し掛けてきた時、それを素気無く追い返すような真似は、サクヌッセンブルク侯爵家のような家格では許されないことなのだ。

それだけではない。

帝都からは新聞記者や物見高い見物客が多数、訪れた。

古都では見かけないが帝都やその他の大都市では当たり前になりつつある新聞の存在は、アルヌもよく知っていたようで、彼らの世話にも随分と人手と金を使うことになったそうだ。

硬骨な記者は「こういう買収まがいの接待は受けない」と頑張っていたようだが、既に春とはいえまだ肌寒い。宿のない記者たちには近くの街の商人の家に泊まれるように斡旋する気の利いた文官見習いがいたそうで、そのことでも侯爵領の評価は高まったらしい。

「披露宴が終わって、漸く一息付けると思うと、どっと疲れて来たな」とアルヌが嘆息すると、隣に座を占めるオーサが肘で脇腹を優しく突いた。

「何を言ってるんですか。式と披露宴は、結婚生活の幕開けですよ。終わったのではなくて、はじまったのです」

そう言われてしまうと、さしものアルヌもぐうの音もでない。

今日の二人の注文は「胃にやさしいもの」だ。

しのぶからしてみれば超人的な胃袋を持つ二人だけれども、三日三晩続いた宴会での暴飲暴食はさすがに堪えたのだろう。

しかも、宴席の中心となる料理はアルヌの強い希望で天ぷらだった。

春野菜から魚介類、揚げられるものは何でも揚げたのではないかと思われるほどのレパートリーは、居酒屋のぶを訪れる客たちによると大したものだったそうで、遠方からの客たちを満足させるに足るものだったそうだ。オーサ考案のおでんの大根の天ぷらもたっぷり作られたというから、その中心にいた新郎新婦が胃を休めたいというのも無理からぬことだろう。

信之が考えた末に出したのは、キャベツの水炊きだった。

水炊きといえば、白菜。

そういう先入観がしのぶにもあったのだが、試してみると思わぬ味の深さに驚いた。

キャベツを使うことで水分が出にくく、味が濃いままにできる。もちろん白菜の水炊きも美味しいが、今日はこちらだ。

昆布出汁を引いてキャベツと鶏肉を煮るだけ、という単純さとは裏腹に、鶏の強い味わいが楽しめる逸品だ。

昔、ゆきつなで修業していた料理人の一人が北九州出身で、白菜の代わりにキャベツを使う水炊きをまかないで作ったことで、しのぶも信之も気に入ったのだった。

時間をかけて鶏をしっかりと煮込まないといけないので本当はまかないには不向きな料理だが、どうしても食べて貰いたかった、という彼の気持ちも理解できる。

単純に見えて、奥が深い。

鶏肉を水からじっくりと煮出していくので、キャベツと鶏肉の滋養が溶け込んだスープを味わう汁物料理になるのだ。

更にキャベツには胃の調子を整える成分が、たっぷりと含まれている。

披露宴で胃腸に疲れの貯まったアルヌ達にはちょうどよいはずだ。

「これは……美味いな」

一口、汁を啜ってアルヌが嘆声を漏らす。

「オーサも、ほら」

妻の分もとアルヌがよそってやると、オーサも答えるようにアルヌの皿に具材を盛ってやる。

くつくつと煮える鍋を前に、二人の姿は侯爵閣下とその夫人ではなく、初々しい新婚夫婦のそれでしかない。

はふはふ。

ずずずっ。

甘みのあるキャベツ。

軟らかく煮えた鶏肉。

そして、澄み切った黄金色のスープ。

二人は言葉を交わすこともなく、ゆっくりと水炊きを口へ運んでいく。

言葉を厭うているのではなく、敢えて言葉にする必要がない、ということだろう。

時折、湯気を挟んで視線を交錯させるだけで、意図が伝わっているようだ。

「……いい夫婦だね」

片手に四皿ずつの料理を運びながら、リオンティーヌが独り言つように呟く。

確かに、お似合いの夫婦だ。しのぶもそう思う。

ひとくちに「お似合いの夫婦」といっても、実際にはいろいろな夫婦があることをしのぶは知っている。

外から見て、お似合いの夫婦。

自分たちはお似合いだと思っている夫婦。

そして、本当にお似合いの夫婦。

それらは似ているようで、実は少しずつ違うものだ。

けれども、アルヌとオーサの二人は、本当のお似合いの夫婦のように思える。

例えば、水炊きのキャベツと鶏肉のような。

お互いがお互いのよさを引き立て合い、周囲にもよい効果を与える。

どちらかにどちらかが負担をかけすぎることなく、自然体で付き合って、事足りる関係。

オーサが何も言わなくても、アルヌがすぐに皿にスープを取ってやる。

そういう自然な所作に、支え合う二人の関係性が見て取れるのだ。

「そういえばシノブさん、あの絵、見に行きたいですね!」

皿の山と泡まみれで格闘しながらエーファが声を掛けて来たのは、あの絵のことだ。

レオナルトが披露宴でのアルヌとオーサを描いた一幅の絵画。

まだ着色はされていない素描だというのに、観る者を惹き付ける美しさがあるのだという。

居酒屋のぶでフーゴと食事をしている時はひょろりとした青年としか思えなかったのだが、実は優れた画家だったというから驚きだ。

「完成したら、皆で見に行かないとね」

それはきっと、とても素晴らしい絵になっているに違いない。

忙しく働きながら、しのぶは絵の完成した姿をぼんやりと頭に思い浮かべるのであった。