軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

永遠の美、一瞬の美(前編)

腰にねじこんだ 手巾(ハントゥーフ) を引き出し、額を伝う汗を拭った。

胸を開いて肩甲骨を動かし、凝り固まった背中を解す。

どれくらいの間、同じ姿勢で炉の前に座っていただろうか。

ずっと焔を見続けていた目が痛い。

二度、三度と大きく 瞬(しばた) いて、フーゴは漸く、夜の明けたことを知った。

集中している間には一切耳に入らなかった小鳥の囀りが聞こえる。

伸びをして、水差しの温くなった中身を飲み干した。

身体は、乾いた砂のように貪欲に水分を吸収する。腕を見ると、大量にかいた汗が乾いて

塩が析出していた。

フーゴは水差しを手に持つと、のろのろと工房から外へ出る。

早朝の陽光が暗がりと炎とに慣れたフーゴを鋭く突き刺し、目を細めた。

井戸から釣瓶で水を汲み、水差しに移すのももどかしく、上を向いて開けた大口に水を注ぐ。

盛大に零れ、服も濡れるが、気にしない。

春先の水はまだ冷たく、火照った身体に心地よかった。そのままもう一度釣瓶を下ろし、今度は頭からかぶる。

試行錯誤で茹だった脳髄から熱が抜け、少し視界が広がった。

徹夜したのは久しぶりのことだ。

硝子の研磨に熱中していたとき以来だろうか。

「あ」

三度目の水を汲み上げながら、気が付いた。

朝ということはそろそろロンバウトとの打ち合わせがある。

フーゴはたった今、自分自身の手でずぶ濡れにしてしまった服を見下ろした。

大きく溜息を吐き、着替えるために工房の二階へと足を向ける。

途中、作業場の隅に積み上げてある〝失敗作〟の山が見えた。

木箱に放り込んでいたのだが、溢れてしまってからは掃除するのも億劫で、その辺りに積み上げるように放置している。

本当なら全ての時間を、硝子に費やしたい。頭の中にあるものを実現するために、全てを捧げたいとさえ思っている。

それでも、満足のいくものは出来上がっていない。

いや、 満足のいく(・・・・・) 程度のものではダメなのだ。今回は。

今回だけは。

普段ならフーゴ自身が納得すればいい。けれども、今取り組んでいる作品は、別の人間に評価されなければならなかった。

レオナルトに、認めさせる。

フーゴは一昨日のことを思い出していた。

「……絵を描け、というなら、条件があります」

レオナルトは空いた椅子をフーゴの隣へ引き寄せると、会釈してから腰を下ろす。

「申し遅れました。私は聖王国の住人、フェロッヒオの弟子、レオナルトです」

フェロッヒオの名前にフーゴは聞き憶えがなかった。だが、他の三人はその名前を知っていたらしく顔を見合わせる。

「アルヌ・スネッフェルスだ」

「ロンバウト・ビッセリンクです」

それぞれが名乗り、視線が交錯した。フーゴはまた、この場に自分が交じっていいのかという想いに囚われかけたものの、自分がレオナルトの素描を出してしまったことが原因なので退席することもできない。

フーゴの隣に座を占めるレオナルトの表情は、いつも通りに飄々としたものだ。

「あなたに依頼したいのは、こちらのアルヌさん……つまり、サクヌッセンブルク侯爵の結婚披露宴の絵画です」

侯爵、という言葉に一瞬、レオナルトの表情が揺らぐが、すぐに元に戻る。

「もちろん、報酬はしっかりとお支払いします」

付け加えるように告げるベネディクタの方にレオナルトは小さく首を横に振った。

「条件、というのは金額のことではありません」

「では……?」

眼鏡を人差し指で押し上げながら、ロンバウトが尋ねる。

「まず、私は独立した画家ではありません。師匠の工房に籍を置いているので、勝手に仕事を請け負うことはできません」

その言葉に、ロンバウトとベネディクタは顔を見合わせ、頷き合った。

「早馬を出します。可及的速やかに許可が取れるように取り計らいましょう」

女秘書の凛とした言葉に、レオナルトは居た堪れない表情を浮かべる。

「いや、むしろ……師匠には隠して欲しいのです」

「……と、言うと?」

興味ありげに身を乗り出したのは、アルヌだった。

「……実は一件、大きな仕事の途中で抜け出しているのです。何と言うんですかね。ああ、フーゴなら分かると思うんだけど、精神的な行き詰まりというか」

ああ、とフーゴはすぐに得心する。

大きな仕事の時に、不意に何も手に付かなくなる瞬間が訪れた経験は、フーゴにもあった。

「ですから、条件というのは、師匠に内密にして、できれば匿って貰いたいということと、然るべき時期まで画家としての名前を伏せて欲しいということです」

この条件に三人は困惑した表情で視線を交わす。

結婚披露宴の絵画は、高名な画家にこそ描いて貰いたい。

だが、名前を出せないのならその条件は満たせないのではないか。

示し合わせた様に三人は卓の上に広げられた素描に目を落とした。

やはり、素晴らしい。

名前が出せないとはいえ、フェロッヒオの弟子である彼に頼むのが今の状態では最善の解だということは間違いなさそうだ。

フーゴは、ちょっと面白くなっていた。

友人であるレオナルトが重大な仕事をすっぽかして古都に鳥を見に来ているというのもおかしかったし、そのことに偉い人たちが振り回されててんやわんやになっているのも、不思議で面白い。

「それともう一つ」

レオナルトは人差し指を立てた。

そして、フーゴを指さす。

突然、話題の俎上に上げられて、フーゴは面食らった。

「フーゴに、作品を創ってもらいたいのです。何でも構いません。ただ……」

「……ただ?」

訊き返すフーゴに、レオナルトはとびきりの笑顔で応える。

「私に衝撃を与えるような、 逸品(・・) を創って貰いたいんです」