軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

鼠と竜のゲーム(肆)

何故ここにいるのか。

娘のヘンリエッタの姿を目にして、はじめにゲオルクの脳裏に過ったのはそのことだった。

幻だろうか。いや、それにしてはあまりにも姿がはっきりとしている。

ゲオルクは震える手でラガーのジョッキを取り、口を付けた。乾きが抑えられなかったのだ。

侯爵との舌戦には、ほぼ敗けていた。

誰の目から見てもそうだろう。

確実な敗北が明らかであってなお、ゲオルクはまだ勝利を諦めていなかった。

侯爵と騎士の討論とは言え、ここは公的な場ではない。あくまでもただの居酒屋での話だ。

もしもこの場所に皇帝その人が臨席していたのであればともかく、酒の席での言葉は酒の席での言葉に過ぎない。どうとでも言い繕えるはずだ。

酒の席での言葉の勝敗に侯爵ともあろう者が固執すればするほど、醜態に見える者もいる。

けれども、その目論見は 脆(もろ) くも崩れ去ってしまった。

今のゲオルクには、戦い抜くだけの芯がない。

ヘンリエッタに「嘘だ」と言われた瞬間に、塩の柱に熱湯をかけたかのように、溶けて落ちた。

「お父さん」

「へティー」

娘が行方不明になったのは、冬のはじめのことだ。

郎党だけでなく近隣の貴族にも手伝ってもらって探したのは、誘拐を疑ったからだった。

〈鼠の騎士〉としてのゲオルクの悪名は帝国北方に広く轟き渡っている。

貴族の子女の誘拐は帝国のどんな法律に照らしても重罪だが、ゲオルクへの復讐のために誘拐に手を染めようとする人間がいないとも限らない。

いや、間違いなくいるだろう。

ゲオルクが憶えているだけでも、〈鼠の騎士〉に人生を破滅に追い込まれた人間は両手と両足の指の数でも数え切れない。

自暴自棄になって重罪に手を染める 奴儕(やつばら) の存在を、ゲオルクは疑わなかった。

自分はそれだけのことをしてきた、という自覚はあったのだ。

誘拐は許せなかったが、誘拐した人間の考えることはよく分かった。

ゲオルクが他者から奪うことが自力救済なら、どこかの莫迦が復讐のためにヘンリエッタを攫うのもまた、自力救済に違いない。

「へティー、無事だったのか!」

誘拐は難しい犯罪だ。

まず目的となる人物を攫うのが手間だ。

そして、身代金や条件を受け取ろうとすると、更に難易度が上がる。

人質が手の内にあったとしても、交渉のために相手側と接触することは不必要に自分の手がかりを与えることになるからだ。

世の中で犯罪とされることに手を染めてきたゲオルクだが、誘拐には手を出さない。面倒な上に危険が大きく、労力に見合わない。

もちろん、単純に済ませる方法もある。見せしめにしてしまうのだ。

冬のはじめにいなくなったヘンリエッタをゲオルクが諦めたのは、そのせいだ。

最悪の結果が明らかになっていないのは、雪のせいだろうと思った。

帝国北方の雪は、深い。

全てを覆い隠す雪の中には色々なものが隠されている。

もしもゲオルクが見せしめのために誘拐に手を染めるなら、雪の中に隠す。根雪が溶けて全てが明らかになった頃には、下手人を遠くへ逃しておくことができるからだ。

北国の雪が溶ける頃には。

それ以上のことを考えないために、ゲオルクは運河浚渫反対の策謀に邁進した。

妻亡き今、ゲオルクにとって家族はヘンリエッタしかいない。

奪うことに専心している間だけ、娘のことを忘れていられたのだ。

いや、それも違う。

違うのだ。

自分が本当に娘を愛しているかどうかを考えるのが怖かったのだ。

ゲオルクが奪うのは自分のためだが、それは娘のためでもある。そのはずだった。

もしもゲオルクが娘を愛していないのだとしたら、自分は何のために奪うのか。

娘のため、娘との生活のため、娘と生活する自分のため。

奪う理由が根幹から失われてしまうことに、ゲオルクは恐怖した。

奪うために奪う。

目的もなく、ただ奪うために奪っているのかもしれない。

疑念は日に日に大きくなり、胎の底にどす黒い塊となって溜まっている。

そして、ヘンリエッタの「嘘よ」という言葉に、怖れは真実となってゲオルクの前に現れた。

自分は奪うために奪っていたのだ。

崩れ落ちそうになるのを堪えながら、ゲオルクは最愛の娘に手を伸ばした。

手を伸ばしたのなら、娘が最愛のものになるのだ、と自分に弁解するために。

しかし、伸ばした手からヘンリエッタは逃れた。

「何故だ……?」

「お父さん、誘拐犯から要求があります」

「誘拐犯?」

娘の言葉に、理解が追い付かない。

娘の後ろに立っている片眼鏡の男が誘拐犯なのだろうか。

「誘拐犯というのはどこの誰だい? お父さんがどんな方法を使っても懲らしめてあげる」

できる限りの優しい声でゲオルクは娘に尋ねる。

だが、視線は片眼鏡の男に向けたままだ。

この男が誘拐犯であるのなら、絶対に許さない。何があっても、全てを奪い尽くす。

男は軽く咳払いをすると、口を開いた。

「私はゲーアノート。徴税請負人です」

「徴税請負人風情が、何の用だ? お前がヘンリエッタを誘拐したとでも言うのか?」

まさか、とゲーアノートは一笑に付す。

「いえ、私は一時的な保護者として、ヘンリエッタ嬢をお預かりしていただけです」

そうなのか、と視線で尋ねると、ヘンリエッタが頷いた。

「そうだったのか。それはありがたい。だが、一時的な保護とやらはお仕舞いだ。ヘンリエッタは私のところへ戻る。万事解決だ」

ゲーアノートは重々しく、首を横に振る。

「そうはいきません。まだ誘拐犯との交渉が済んでいない」

ゲオルクは苛立ちを隠さずに、ゲーアノートに指を突きつけた。

「交渉だと? ああ、いいだろう。交渉でも何でもしてやろう。これでも〈鼠の騎士〉と言えば、少しは名が通っている。娘を取り戻すためなら、どんな交渉だってしてやるさ」

なるほど、とゲーアノートが頷く。

「交渉事は得意ということですから、敢えて言うことではないかもしれませんが、一つだけ助言をさせて下さい」

「助言?」

「ええ、いつものようにごねてもいいことはありません。誘拐犯の言葉に、耳を傾けて下さい」

「だから、その誘拐犯というのは誰なんだ!」

激昂するゲオルクの前に、ヘンリエッタが歩み出た。

その表情は、これまでに見せたことのない、毅然としたものだ。

「誘拐犯は、わたしです」

ヘンリエッタはそう言って、自分自身を指さした。

「……は?」

「お父さん、わたしがわたしを誘拐したの」

真っ直ぐ父を見つめるヘンリエッタの視線に、ゲオルクは気圧された。

この気魄は、間違いなく〈鼠の騎士〉の娘だ。

自分で自分を誘拐する。

他人にこそ妙なことに聞こえるかもしれないが、外ならぬゲオルクにはヘンリエッタの考え方が手に取るように理解できた。

交渉したい相手にとって最も大切な物を奪い、返して欲しければ要求を呑めと迫る。

それこそ正に、ゲオルクの人生そのものだ。

口元が自然と緩み、笑みがこぼれる。

奪ってばかりだと思っていた自分だが、娘に引き継げているものが、確かにあったのだ。

たとえそれが、奪うということであったとしても。

「……分かった。要求を聞こう」

「要求は、三つ」

右の人差し指と中指と薬指とを立て、左手は腰に当てる。

胸を張ったヘンリエッタの表情には、ふざけているような気配は微塵もない。

当たり前だ。

恐らくは一人で計画し、子供の足で北のウンターベルリヒンゲンから古都までやって来たのだ。

それだけの策謀が、遊びやおふざけであるはずがない。

「さぁ、へティー。いや、ヘンリエッタ。欲しいものはなんだい? 甘いお菓子か? お金か? 新しい母親が欲しいとでもいうのか?」

ヘンリエッタは首を横に振ることさえしなかった。

母親譲りの鋭い狼歯が、ちらりと覗く。

家臣の中には狼歯を不吉と見做す者もいたが、関係ない。

あれの母親も、強い女だった。

「一つ、ゲオルク・フォン・ウンターベルリヒンゲンは、お母さんの墓参りをすること」

幼いが、それでも凛とした声が居酒屋に響く。

誰も嗤わない。

嘲笑できるはずがなかった。

帝国北方にその名を轟かせる〈鼠の騎士〉から娘を攫って脅そうという大悪党の言葉だ。 恭(うやうや) しく拝聴するしかない。

「二つ。ゲオルク・フォン・ウンターベルリヒンゲンは、悪いお父さんであることをすぐに止め、いいお父さんになること」

妻の墓参りと、いい父親になるということ。

どちらも、ゲオルクの胸に刺さる要求だ。

いい父親というのは、父親として家庭を顧みるというだけの意味ではあるまい。

今の稼業から綺麗に足を洗い、善良に生きろということだ。

これではまるで、裁判ではないか。

いつか誰かに裁かれると思っていたが、まさか自身の娘に裁かれるとは想像していなかった。

「三つ」

ゲオルクは娘の瞳をしっかりと見据える。

思えば、ヘンリエッタの顔をつぶさに見つめるのなど、いつぶりのことだろうか。

怖かったと言えば、嘲弄されるかも知れない。

そう、娘が怖かったのだ。

ゲオルクが奪ったものの中で最も価値のあったもの。

奪われたものながらに、ゲオルクを愛してくれたもの。

日に日に亡き妻に生き写しに成長していく娘が、怖かったのだ。

娘に否定されることが、怖かった。

想像するだけで、背筋が凍り付きそうになる。

否定され、生活が壊れてしまうことに耐え切れなかった。

だから自分から遠ざけたのだ。

壊れてしまえば、もう壊れることはないのだから。

「三つ目の条件は?」

ヘンリエッタに、先を促す。

どんな裁きの言葉も、受け容れる覚悟ができていた。

他の誰でもない自身の娘に裁かれるのなら、それは本望だ。

「……お父さんはこれから、私と一緒にごはんを食べること」

出された条件に、息を呑む。

誘拐犯の言い渡した条件は、重く、鋭く、ゲオルクの胸に突き刺さった。

一緒にごはんを食べる。

嗚呼、と自然に溜息が漏れた。

下された判決は、これまでに自分が課せられるかもしれないと想像したどんな刑罰とも違う。

なんという裁きだろうか。

禁錮でも、懲役でも、追放でも、鞭打ちでもない。

娘は、ただ、ごはんを一緒に食べろという。

たった一人で家を出て、遙か古都まで自分を誘拐した娘の、それが要求なのだ。

何故、とは思わない。

寂しい思いをさせてきた。

独りで食事をさせるのが常だったし、それが当たり前のことだと覚え込ませようとしていた。

しかし、それだけの理由で娘がこの条件を出してきたわけではない。

自分では遠ざけていたつもりでも、ヘンリエッタにはゲオルクのことがよく見えていたのだ。

奪いたいのは、満たされないから。

満たされない飢えと渇きを埋めるために、娘を遠ざけ、奪ってきた。

それが更に飢渇を重いものにしていたのだ。

ゲオルクは、口を押さえた。

居酒屋の客や店員に、〈鼠の騎士〉の嗚咽など、聞かせることはできない。

ああ、いや、そういう心配も、もうしなくていいのだ。

これから、ゲオルク・フォン・ウンターベルリヒンゲンは、善き父親として生きる。

裁きは下され、ゲオルクはそれに服することに決めたのだから。

そのための償いもする。

軽々と赦されることではないし、贖罪は険しいものになるだろう。

財産を手放すことになる。家屋敷、家財、武具、馬、芸術品に蓄えた金穀。書画骨董も、全て。

それでも賠償に不足することは間違いない。

だが、心は晴れやかだった。

もう奪うために奪うことをする必要はない。

奪いたくなることはあるかもしれないが、それに抗う理由もある。

自分の力では、決して救えなかった自分自身が、今救われたのだ。

ゲオルクは誘拐犯の目を、いや娘の目を真っ直ぐに見つめた。

口を開き、大きく深呼吸をする。

誰かに心から謝罪をするのは、ひょっとするとはじめてかもしれなかった。

「分かった。いや、分かりました。もうしません。だから、娘を返して下さい」

謝罪と懇願。これほど〈鼠の騎士〉に似つかわしくないものもない。

恭しく誘拐犯に頭を垂れると、ヘンリエッタが重々しく頷いた。

一拍おいて、娘がゲオルクに飛びついてくる。

まだ幼く、小さな身体を、ゲオルクはしっかりと抱き留めた。

北方には、〈鼠が竜を産む〉という古い俚諺がある。

小さく弱々しい鼠が、強く尊く気高い竜を産む。莫迦げた言葉だと思っていた。

しかし、今ゲオルクの目の前にいるのは、間違いなく〈鼠の産んだ竜〉だ。

自然と笑みが漏れる。

このゲーム(シュピール)は、〈竜〉の圧勝に終わった、というわけだ。

「無事だったか?」

「うん」

「怪我はないか?」

「うん」

「ひもじくなかったか?」

「うん!」

ヘンリエッタの話は、尽きることがない。

古都へ行く舟に忍び込んだこと。

舟が河賊に襲われそうになったが、船主の機転で助かったこと。

船着き場から、肉屋を探して歩いたこと。

一人でも怖くなかったけれど、お腹は空いたこと。

いつの間にか、二人とも泣いていた。

泣きながら、笑っていた。

人前で涙を見せるような恥ずかしい真似が、自分にできるはずがない。ついさっきまでは、そう思っていたというのに。

今この場所で、娘と一緒に泣いていることが、どうしてこんなに幸せなのだろう。

どうしてこんなに、暖かいのだろう。

「それで、運河浚渫に反対する、という話なんだが」

ひと段落したとみて、アルヌが話しかけてくる。

今にして思えば、侯爵に舌戦を仕掛けるなどとはとんでもないことをしたものだ。

「ああ、それはもう、結構です」

見ての通り、とゲオルクは苦笑し、それから真面目な表情になって、陳謝した。

これも償わねばならないことの一つだ。

「本当に申し訳なかった。妨害については、お詫びします」

「そのことなんだがな……」

今更何を言うのだろうか。

自領から遠く離れた古都で娘と再会した後だ。

どんなことを言われても、今のゲオルクは驚かないという自信がある。

何故かテーブル席の方に何かを確かめるように視線を向けてから、侯爵はゲオルクに小さな声で耳打ちする。

悪戯っ子が自分の悪事を打ち明けるような、そんな表情だ。

「運河浚渫は、中止の方向で動いている」