軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

兄と弟(前篇)

冬だというのに、〈馬丁宿〉通りには嘶きが溢れていた。

馬だけではない。馬車も、人も、押し退け合う様にして動き回っている。

大商会の徽章の入った馬車が目立つが、素性は色々だ。

耳聡い者達にとって、平原を埋める白雪も、馬車の轍の泥濘みも、さして問題ではないらしい。

アルヌは、何かが起こりそうな時の活気が好きだ。サクヌッセンブルク侯爵としても、一個人のアルヌとしても、どちらの意味においてもという意味だ。

喧噪の中を潜り抜ける様にして、目当ての店のノレンをくぐる。

「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」

いつもの店に、いつもの挨拶。

この店に来るとサクヌッセンブルク侯爵アルヌ・スネッフェルスから、ただのアルヌになれる。

だからアルヌは居酒屋ノブに来るのが好きだ。

侯爵としての日常とは別の日常が、ここにはある。

今日の来店がいつもと少し違うのは、隣にいるのが弟ということだ。

マグヌス・スネッフェルス。

血を分けたアルヌの実弟で、サクヌッセンブルク侯爵家の重臣筆頭。

マグヌス(大きい) なんていう名前が付けられたのは生まれたときに随分と大きな赤ん坊だったからだという話だが、長じてはアルヌとよく似た風貌に育った。

仲のいい兄弟だ、とアルヌは思っている。

だが、少しだけ気後れする部分がないでもない。

「兄さんと居酒屋に来たのは、はじめてだな」

マグヌスに言われて、アルヌは驚いた。

「……そうだったかな」

そうだよ、と弟が苦笑する。

帝国北部の各地を旅していたマグヌスと会うのに、アルヌは居酒屋ノブを指定した。

美味しいものでも食べながら話を聞きたいと思っただけのことだ。

いや、理由は他にもある。

兄と弟は、今ではもうただの兄と弟ではいられないからだ。

サクヌッセンブルクの屋敷で会うという形になると、兄と弟ではなく、どうしても主君と家臣という形になってしまう。

今、屋敷には両陛下が逗留しておられるのだ。

紹介するときには、どうしても臣下という形にならざるを得ない。

それは、何となく嫌なのだ。

侯爵家の兄弟である以上、けじめは付けなければならない。

だが、避けられる部分ではできる限りそういう堅苦しさを抜きにした機会を持ちたいとアルヌは思っていた。

ちなみにコンラート陛下は到着してからというもの、食事時にアルヌ達と一緒に過ごす以外は、ずっと方々に手紙を書き続けている。心は誰よりも自由でも、仕事からは自由になれない。それが帝国を統べる皇帝の悲しさなのかもしれない。

少し暇が出来れば、古都も散策して貰えるのだが。

「ここは何でも美味いけど、特にテンプラが美味い」

「へぇ。それは楽しみだな」

弟は、凄い。

アルヌは本気でマグヌスのことを尊敬している。

自分がマグヌスの立場だったら、と考えると、とても同じようには振舞えない。

「今日のお通しは海老 真薯(しんじょ) のお吸い物です」

塗りの美しい椀を開けると、澄んだ スープ(ズッペ) と 団子(クヌーデル) が入っている。

このところ、居酒屋ノブのオトーシはスープが多い。寒い日が続くと、こういう心配りが殊更にありがたく感じられるものだ。

手早くシノブにラガーとテンプラを注文する。

気心の知れた店というのは、多くを語らなくてもいいのが楽だ。

これが帝都のちょっとした格の店ならいちいち注文を細かくする必要がある。

帝国諸侯に連なる身であれば、そういう堅苦しさを我慢しなければならないのかもしれないが、アルヌには向いていない。

一口啜ると、ふんわりと身体の中から温まる。

最近気が付いたのだが、ノブで出す澄んだスープには柑橘の皮が浮かんでいることがあった。

汁を味わうときにこれが口元へ来るようにして啜ると、香りがぐっと引き立つのだ。

「温まるね」

マグヌスの眼鏡が、湯気で曇っている。

「ああ、北は寒かっただろう」

寒かったけど、楽しかったよ、と椀を傾けながら弟は笑った。

屈託なく笑われると、アルヌの胸は微かに痛む。

侯爵になる前、アルヌは吟遊詩人の修業をしていた。

父の懇請も無視して、見聞を広めるために世の中を旅して回る日々。

その間、マグヌスは領地経営に腕を奮い、アルヌの代わりを務めてくれていたのだ。

代わりを務める、というと少し語弊がある。

重臣団の中にはマグヌスをこそ、次代の侯爵にという声があっただろう。

アルヌが旅から旅の日々を送れば送るほど、マグヌスを侯爵の後継者に推す声は次第に大きく、無視できないほどになっていったはずだ。

はずだというのは、アルヌがその声を耳にしたことがないから、全て想像である。

侯爵家の重臣団は弁えた者が多いし、何よりも武断の家柄が多い。

本当にアルヌを廃嫡してマグヌスを後釜に据えるつもりが少しでもあるのなら、本人の耳に入るようなへまをするはずはなかった。

幸か不幸か、アルヌには吟遊詩人の才覚がない。

稀代の吟遊詩人、クローヴィンケルにきっぱりと断言されたのだから、全くないのだろう。

そして、アルヌは侯爵になった。

アルヌ・スネッフェルスの人生としては、それだけのことだ。

だが、マグヌスから見ればどうだったのだろう、といつもアルヌは悩んでしまう。

兄が侯爵を継ぐと突然宣言した時、マグヌスは笑って祝福してくれた。

それまで自分の自由を殺して代役に徹した弟が、文句の一つも言わずに後継者の座を譲る。

アルヌには、多分真似できないだろう。

自分がマグヌスの立場なら、祝福はしても、何か一言は言ってしまうに違いない。

過激派の家臣を糾合し、兵を集めて侯爵になってしまうこともできたのだ。

もちろん、マグヌスはそんなことをしないだろうが。

一言も責められないというのは、それはそれでつらいものだ。

「お待たせ! テンプラの盛り合わせだよ。どんどん揚げていくからね!」

リオンティーヌが運んできたテンプラとラガーのジョッキを受け取る。

アルヌには更にチェイサーのグラスもついてきた。

このヤワラギミズという水を飲むと、酔いが回りにくいと教えてもらったのだ。

「それでは改めて」

マグヌスがジョッキを受け取る。

「 乾杯(プロージット) !」

「 乾杯(プロージット) !」