軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

二組の新婚(後篇)

アルヌの喉から、唸りが漏れそうになった。

運河の浚渫。

それは今のサクヌッセンブルク侯爵家にとっての一番の重大事であり、帝国北方にとって最大の懸案の一つだろう。

皇帝の行幸の目的が運河についての話ではないと自分が思い込もうとしていたことに、アルヌは漸く気が付いた。

だが、帝国は、いや、コンラートとセレスティーヌの二人は、この一件にどのようなに介入するつもりなのだろうか。

後押しするにせよ、妨害するにせよ、あるいはまったく別の提案をするにせよ、帝室の打てる手は限られている。

今、運河の浚渫が抱えている問題は単純だ。

大河の周辺の貴族が河族まで使って反対をしていること。

浚渫には思ったよりも大きな金額がかかること。

工事に時間がかかりそうなこと。

大別するとこの三つとなる。

三番目の問題については神か精霊でもなければどうにもできないが、残り二つについてはどうだろうか。

皇帝は、運河をどうするつもりで、どんな手を打ってくるのか。

金の問題についてが一番ありえそうな話だ。

運河の浚渫に帝室が出資することで開通後の利益を確保し、北方への影響力も誇示する。

悪くない手だ。

反対に、貴族の問題に手を入れてくるのなら、運河を潰したいときだろう。

帝室は運河の浚渫に対して重大な懸念を抱いているという〈噂〉でも流れてしまえば、反対派は勢いづき、日和見をしている中立派も旗幟を明らかにするはずだ。

アルヌは、掌に汗をかいていることに気付いた。

こんな時、オーサが手を握ってくれれば。そんなことを考えている自分に、驚く。

結婚するまでは一人でやってきたのだ。

まさか結婚した途端、自分がこんなにも誰かを頼りにするようになるとは思わなかった。

「ああ、それほど固くなる必要はないよ」

砕けた表現で、皇帝は侯爵に笑みを向ける。

チェス(シャッハ) でこれまで練りに練った致命的な一撃を繰り出すときのような笑みだ。

奇襲が来る。

そう分かっても、こちらにはそれを受ける術がない。

「……スネッフェルスの家にも、〈金印勅書〉は伝わっているね?」

妻たちの笑い声が、妙に遠くに聞こえる。

なるほど、温厚に見えて、皇帝とはやはり皇帝なのだ。

〈鷹の爪持つ三頭の竜〉の一撃は、〈北方の大鯨〉の予想だにしていないものだった。

勅書には様々なものがあるが、コンラートの口にした〈金印勅書〉は皇帝と諸侯の契約に関して発給された一連の勅書のことだ。

帝国をまとめる上で、皇帝特権をはじめ様々な権限についての取り決めがある。

帝位継承のことや、貴族に出兵を命じる陪臣召集のこと。

街道の維持に関するものや、森林の管理に関するもの。

帝国直轄都市の様々な権限に関するものもある。

諸侯や都市と交わしたものだけでなく、中にはギルドや個人に下されたものもあるという。

勅書は単体でも重要だが、現在の帝国や各領邦で施行されている法律の法源となっているものも多く、現実に拘束力を持っているものとして扱われていた。

全ての条文を諳んじているわけではないが、中には河川に関するものもあったはずだ。

アルヌの背中を、嫌な汗が伝った。

つまり、帝室はやろうと思えばいつでも運河に法的な介入が可能だという宣言なのだ。

何と答えるべきか。

先ほどの「帝室の真の友」という言葉も踏まえて、考えねばならない。

迂闊な答えはできなかった。

本来なら帝室も巻き込んで進めるべき話だったのだ。

先走った、という謗りを受けるならば、甘んじて受けねばならない。

その時、逡巡する若き侯爵の肩越しに、そっと誰かがコンラートに声をかけた。

「陛下、あまりうちの夫を虐めないでくださいね」

オーサだ。

零れ落ちた〈銀色の虹〉の髪が蝋燭の灯を反射して、煌めいている。

「いや、虐めるなどと」

コンラートの苦笑に僅かばかりの緊張が混じっているのは、オーサの声音の故だ。

北方の民、死をも恐れぬ獰猛な狂戦士の血と伝統が、オーサの口を突いて喋っているようにも聞こえる、低く、力を持った言の葉。

帝室はスネッフェルスの祖先を同盟者としたが、それはただ気が合ったということではなく、万軍をしても制することができないと考えたからという説がある。

倒せないなら味方にしようとかつての皇帝が考えた北方の荒々しい血を色濃く伝える戦姫の気魄には、アルヌでさえ畏怖覚えざるを得ない何かを含んでいた。

「夫を守ろうとする妻、新婚なのに仲睦まじいことですね、貴方」

助け舟を入れてくれたのは、セレスティーヌだ。

微笑みと共にコンラートの肩に手をかけ、会話の流れを変える。

なるほど、あちらも息の合ったよい夫婦だ。

「皆様、お待たせいたしました」

ちょうどその時、イーサクが外から新雪の入った硝子の鉢を持ち帰ってきた。

「帝国のものは雪とても皇帝陛下のもの。ぜひ、ご賞味ください」

まだ若く甘さの残る 蜂蜜酒(ミード) を雪にかけ、即席の氷菓にする。

「まぁ、素敵!」

セレスティーヌの表情が年相応の乙女の貌になった。

コンラートもそれを見て表情が和らぐ。

銀の匙で氷菓を愉しみながら、四人の会話は和気藹々としたものになった。

運河の話は、また追々。

皇帝の目配せに、アルヌは重々しく頷く。

いずれにしても皇帝の逗留は暫く続くのだ。話す機会はいくらでもある。

それにきっと、悪い話ばかりではないに違いない。

会食のはじまる前とは何もかもが変わったが、はじまる前と何も変わらぬように、四人は笑い、冗句をまじえて微笑みを交わす。

あとはただ、二組の新婚夫婦が互いの婚姻を寿ぐ小宴が、いつまでも続いたのだった。