軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【閑話】ふしぎの国のエーファ(前篇)

居酒屋ノブには不思議なものが幾つもある。

カウンターの壁に飾られているカミダナもその一つだ。

開店前の掃除はシノブとエーファの担当だが、この木製の小さな祠だけは必ず毎日タイショーが隅々まで丁寧に清めている。

一度エーファが間違って休みの日にノブを覗いた日も、タイショーはカミダナを一人で掃除していた。一体どういうものなのかはエーファには分からないが、タイショーのその様子を見て以来カミダナには特別の敬意を持って接するようにしている。

エーファの住む城壁近くにも、アールヴを祀った古い祠があった。

そこには近所の年寄衆がパンや果物を備えていたが、ノブのカミダナにも御供え物はある。

お店に出すより上等の澄んだサケと、青々と葉の茂る木の枝。

そして、一枚の油揚げだ。

エーファはノブに来るまでこの油揚げという食べ物を知らなかった。

母親に聞いても知らないというので、タイショーやシノブの故郷の食べ物なのだろうと勝手に思っている。

その油揚げを必ず毎日一枚。一度間違って切らしてしまった時は、タイショーが慌てて別のものを用意していた。

どうしてカミダナに油揚げをお供えするのか。

ずっと気になっていたエーファは昨日、シノブに理由を尋ねた。

「それはね、エーファちゃん。神さまの御使いの大好物が油揚げだからよ」

神さまの御使いというと、教会の天井画に描かれている翼のある天使のようなものだろう。荘厳な情景の中に遊ぶあの天使たちの好物が油揚げというのも、何だか妙に面白い。

エトヴィン助祭はあまり守っていないが、教会には肉を食べてはいけない日がある。その日は必ず助祭がノブに逃げてくるので面白い。

天使たちもきっと、肉を食べてはならない代わりに油揚げを食べているのだろう。天使だって、パンとワインと野菜ばかりでは飽きるはずだ。

引き戸を開けて箒で掃除をしていると、春の風が心地いい。

ほんのつい最近まで冬だと思っていたが、季節はもうすっかり春だ。日によっては陽射しに汗ばむことさえある。

タイショーは仕入れ、シノブは趣味の散歩に出掛けているので、今のノブにはエーファ一人しかいない。

思わず昼寝をしてしまいたくなるぽかぽかした陽気の中、エーファは丁寧に店の中を掃き清めていく。

カウンターやテーブルの下、壁際のような汚れをついつい見落としがちなところを重点的に掃除していると、店だけでなく自分の心も綺麗になるような気がする。

開店前の掃除は大変だが、楽しみもあった。

カウンターの中に、タイショーの用意してくれたおにぎりがあるのだ。

朝食をエーファが食べて来ていないということを知って、準備してくれるようになった。

毎日、海苔を巻いた大振りのおにぎりが三つ。

中の具は日によって違うが、どれも美味しい。エーファのお気に入りは牛肉と玉ねぎを甘辛く炒めたのが入ったものと、焼きたらこ。それと、シーチキンマヨネーズのおにぎりだ。

タイショーに言わせるとシーチキンマヨネーズは邪道のおにぎりらしいのだが、シノブの大好物なのでしぶしぶ作ってくれる。

一通り掃き掃除も終わったので椅子を下して拭き掃除に移ろうとしたところで、視界の端を、何か白いものが横切った。

「何?」

驚いて箒を構えるエーファの前に現われたのは、小さな白い狐だ。

口にはカミダナに備えてあった油揚げを咥えている。

白い狐はエーファを一瞥すると、小さく鼻を鳴らし、裏口の方へと走り去っていった。

「待って!」

あの油揚げはノブにとって大事な油揚げだ。

神さまの御使いに備えていたものを勝手に持って行かれたら、後でどんなことになるか分からない。教会で聞く説話にも、神さまへのお供えを疎かに下ばかりに天罰を下されたという話が幾つもあった。

「待ちなさい!」

箒をテーブルに立て掛け、エーファは白い狐を追う。

カウンターの裏を抜け、食材やレイゾーコのある一角を抜けると、狐がするりと裏口を抜けていくのが見えた。

普段は鍵がしっかりと掛かっているのだが、シノブが風通しのために少し開けて行ったのだ。

エーファは迷った。

裏口からは絶対に出てはいけないと、タイショーにもシノブにもきつく言われている。理由は教えてくれないが、きっとこの裏通りは治安が良くないのだろう。

古都は衛兵の多い街だが、それでも物騒な場所はいくつもある。

エーファと同じくらいの年の少女が人攫いにあったこともあるのだ。

追った方がいいのか、追わない方がいいのか。

追えば、自分が危ない。ひょっとしたら運悪く人攫いに捕まってしまうかもしれない。

でも、追わなかったらどうなるだろう。たまたま神さまの御使いが今日の油揚げが食べたかったら大変だ。ノブに天罰が下されはしないだろうか。

自分が危険な目に遭うことと、この居酒屋ノブが天罰を下されること。どちらが嫌かなんて、考えるまでもなかった。

迷っている時間はあまりない。

こうしている間にも、狐はどんどん遠ざかっていく。追いついて、油揚げを取り返さないと。

エーファは覚悟を決め、扉を開けた。

臭い。

最初に感じたのは、強烈な臭いだった。

いや、臭いのではない。何だか息苦しいのだ。

思わず立ち止まるエーファの目の前を、何故か馬のいない馬車が凄い速さで通り過ぎていく。

街の雰囲気も表通りとはまるで違う。

巨大な石をくりぬいて作ったのか、継ぎ目や木目の全くない建物。

どの家も窓にはガラスがはめ込まれ、地面も砂利やタイルではなく、灰色ののっぺりとした道がどこまでも続いている。

ここは本当に裏通りなんだろうか。

古都ではなく、全く世界の全く違う場所に放り出されたような気がして、エーファは急に不安になった。

だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

まだ微かに見える狐の尾を頼りに、エーファは走り始めた。