軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

いつもそばにあるもの(後篇)

考えてみれば、老境に差し掛かるまで、領地のことに汲々とし続けた人生だった。

小麦も上手く育たぬ土地では、民草の糧は僅かな ソバ(ブトヴァイツェン) と馬鈴薯ばかり。

ソバは挽いて粉にしたものをガレットに焼くか、そのまま煮て粥にするか。

どちらも素朴な味わいの食べ物だが、領地の外へ売って金に換えるのは難しい。

自然、領民や近隣の領地に暮らす人々は生計のために他の稼業に手を出している。

漁師や猟師、出稼ぎ労働者に鋳掛屋や舟宿など。

〈河賊〉も、その一つだ。

グロッフェン男爵も〈河賊男爵〉などというありがたくもない仇名を奉られ、恐れられ、色々な面倒ごとにも巻き込まれた。

「そう言えば改めてご結婚おめでとうございます」

「ありがとうございます。新婚生活というのはよいものですね」

「いえ、侯爵。それは違いますぞ」

と、言うと? とアルヌが訝しげな顔を浮かべる。

男爵の持論は、こうだ。

「新婚に限らず、結婚生活はいつもよいものです。健やかなるときも、病めるときも」

そして、死別した後でさえも。同じ時を過ごしたという事実は永遠に不滅だ。

「ははぁ、それは」とアルヌが応じた。きっとまだ、理解はしていないだろう。

「御馳走様、じゃな」とエトヴィンが頷いた。

「ああ、聖職者であるエトヴィン助祭には関係のないことだったな」とアルヌ。

はて、とバルタザールは首を捻る。

「そうなのですか?」

エトヴィンがさりげなく視線を逸らした。

「教導聖省の 聖職階層(ヒエラルヒー) を上らなければ、確か妻帯は禁じられていないはず」

確かそういう話を昔聞いたことがある。

「お待たせしました!」

運ばれてきたのは、温かな湯気の立ち上る深皿の スープ(ズッペ) 料理だった。

どことなく海の香りを感じるスープには 麺(ヌーデル) がたっぷり入っており、上に卵が二つ浮かんでいる。

「ほほう、これははじめて見る料理じゃのう」

「双月そばです」

店の常連だというエトヴィン助祭も見たことがないというのなら、珍しいものなのだろうか。

双月と聞けば、なるほど。

名にし負うだけのことはあり、汁に浮かぶ卵は帝国を照らす二つ月を象っているのか。

風流だな、と思わず口元が緩んだ。

日々の糧を得ること、民を食わせるために一生懸命で、食に美を見出すなど、忘れていた。

フォークを差し出されたが、アルヌもエトヴィンもハシというカトラリーで食べるようなので、バルタザールもそれに習うことにする。

両掌でドンブリを包み込むように持つと、温かさがじんわりと伝わってきた。

手指が温まるにつれ、緊張に凍り付いていた心も解れてくるのが分かる。

「……それでアルヌ殿、今日お招きいただいたのは?」

問わずとも、概ね予想は付いた。

〈河賊〉のことを、責められるのであろう。命まで取られることはないかもしれない。だが、覚悟だけはしておいた方がいいと思っていた。

古都と複数の商会、サクヌッセンブルク侯爵家をはじめとした古都周辺の諸侯が運河を開削する必要があるのは、貴族による河川への税と、河賊だ。

今ではほぼ影響力がないとはいえ、グラッフェン男爵バルタザールを害すれば、内外に対して強い意思を示すことができる。

アルヌの瞳を見つめると、予想に反してきょとんとした顔をしていた。

「ご挨拶の機会がなかったので……それだけでは問題が?」

他意はない、と帝国北方最強の動員力を持つ諸侯の若き当主は言っている。

そんな莫迦な、とバルタザールは両の肩の力が抜けるのを感じた。今日、早朝の祈祷の場で妻に恐怖を吐露したのは、なんだったのか。

ああいや、自分が〈河賊男爵〉という仇名に拘り過ぎただけだったのかもしれない。

なんだか、全てが莫迦莫迦しくなってしまった。

断罪しようとする大諸侯と罪を背負った老貴族ではなく、この場にいるのは若い侯爵と年老いた男爵の二人だということだ。

「さ、早く食べないと、せっかくの料理が冷めてしまう」

エトヴィンに促されるままに、双月ソバにハシを伸ばす。

温かいというよりも熱いスープが、喉を滑り落ちた。

胃の腑が、温かい。

アルヌとエトヴィンの二人のやり方を真似ながら、麺を口へ運ぶ。

「ん!」

思わず、声が出た。

小麦の麺かと思っていたが、これは違う。

「ソバか!」

麺になっていても、この香りは間違いようがない。

「ええ、本日お越しになる方の領地ではソバが名産だと伺いまして」

それまで黙々と作業に没頭していた料理人が説明する。

ソバと小麦を混ぜ、麺にしたのだという。

麺を入れたスープ料理は耳にしたことがあったが、ソバを使うのは見るのも食べるのもはじめてのことだ。

ズズ、ズズズ……

汁を啜り、ハフハフと麺を手繰る。

温かい。

はじめはハシで麺を食べるのに苦労したが、少しコツを掴むと口に上手く運べるようになる。

素朴な味わいだ。

ソバ粉を使ったガレットも好きだが、これはまた違ったよさがある。

妻にも、食べさせたかった。

ドンブリに二つ並んで浮かぶ卵が、夫婦に見える。

そこからの話は、自然に弾んだ。

二人が胸襟を開いて話すのをエトヴィンが上手く誘導するので、話題は尽きない。

互いの領地のこと。

運河のこと。

大河の周辺に領地を持つ諸侯のこと。

アルヌの大伯父のこと。

そして、二人の妻のこと。

祖父と孫ほどに年の離れた二人だったが、不思議なほどに話が合った。

妻を亡くしてから、これほど会話を楽しんだことはなかったはずだ。

エールも口を滑らかにし、バルタザールはついつい話し過ぎたと思うところまで話してしまう。

それに応じてか、アルヌもかなり突っ込んだ話をバルタザールに話して聞かせた。

開削工事を妨害する者がいるなどという話を、バルタザールは今日はじめて耳にした。

しかし、思い当たる名前がある。

運河の開削を望むものは多い。

その一方で、運河が通ることによってこれまでの生活を続けることができなくなる者もいる。

利害の対立するところに現れて、自分の利益を得る者。

「〈鼠の騎士〉かもしれんな……」

「ああ……」

その名前に、アルヌも心当たりがあるようだった。

ゲオルク・フォン・ウンターベルリヒンゲン、またの名を〈鼠の騎士〉。

鼠のようにこそこそとやって来ては、面倒ごとを種に金を毟り取っていくという噂の騎士だ。

小さな領地を大河のほとりに持っていたはずだが、バルタザールも久しく顔を合わせていない。

運河の開削という大きな話に、絡んでくる恐れは十分にあった。

「ま、そんなことよりも」

エトヴィンがハシを改めて手にする。

「儂はスープの卵はこうやって食べるのが好きじゃな」

黄身にハシを入れると、つぷり、と中身が溢れ出た。

もう一つの黄身も、同じように。

とろとろとスープに広がったところを、エトヴィンはすっと飲む。

スープとよく混じって美味いに違いない。

だが、バルタザールにはなんとなく黄身を潰すのが忍びなかった。

ドンブリを捧げ持つと、二つ並んだ黄身をそのままに飲み下す。

ごくり。

口の中で、濃厚な黄身の味とスープの味とが入り混じり、得も言われぬ満足感に包まれた。

自分でも不思議なくらい、安らかな気持ちだ。

その後も少し歓談して、店を出た頃には陽はもうとっぷりと沈んでいた。

虚空には、卵の黄身のような月が二つ、並んで浮かんでいる。