軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【閑話】恋煩いは万病のもと(後篇)

「ま、熱も下がったし、もう大丈夫だろうね」

木の細いへらで舌を抑えながらシモンの喉を覗き込んでいたイングリドが微笑んだ。

隣で見ていたパトリツィアは、ほっと胸を撫でおろす。

パトリツィアの祖母の姉、つまり大伯母は羊飼いだった。

村の近くの曠野と冷涼な山地を行き来し、牧羊犬を相棒に羊の群れを操る。

颯爽とした姿はパトリツィアにとって憧れで、もし古都への就職が決まらなければ、羊を飼って暮らすことも考えたほどだ。

手伝いのために羊を追うのがパトリツィアは好きだった。

牧羊杖を手に山野を歩くのは、とても楽しいものだ。

犬に適切な合図を送ると放たれた矢のように走り、雲の塊のような羊の群れが形を変える。

しかし、羊飼いの仕事はいいことばかりではない。

臆病な羊や好奇心の強い羊が、ついふらふらと群れからはぐれてしまうことがあるのだ。

曠野や山には危険が満ちている。

狼や大地の割れ目、ちょっとした小川の流れさえ、羊には命取りになりかねない。

そういう羊を見ながら、大伯母はパトリツィアに教えた。

「群れからはぐれた羊はね、男と一緒だよ」

どういうことだろうか。

大伯母の夫、つまり大伯父は立派な人物だったが、同時に恋多き男でもあった。時々酒場で若い女に声を掛けては大伯母に怒られている。

それでも最後には必ず大伯母のところへ帰ってくるのだから面白い。

「アンタは今、どうして羊は群れから離れたのか、なぜ帰ってこないか考えているね?」

こくりと頷くパトリツィアを、大伯母は曠野と山とで過ごした年数の刻まれた大きな掌で優しく撫でる。

「そういう時にはね、“考える前に連れ帰る”んだよ」

理由なんか後でいくらでも本人から聞けばいいのさと、大伯母は豪快に笑った。

シモンが治ったというので〈四翼の獅子〉亭は粛々と営業を再開する。

馴染みのお客に営業再開を伝える挨拶状を送ったり、他の宿に分宿して貰っていたお客に詫びを送ったりと、普段にはない仕事も多い。

客足が戻らないのではないかという不安もあったが、今のところ反応は上々だ。

むしろ、待ち侘びていたという声が多い。

やって来る客は貴族や商人、職人と様々だ。

古都が賑やかになっているからか、冬をここで過ごす貴族も多いのだろうか。翩翻と旗を靡かせながら宿にやってくる貴族の旗の中には〈群鼠〉や〈葡萄〉など珍しいものも少なくない。

リュービクも厨房に立つだけでなく、羽根ペンとインク壺で羊皮紙相手に格闘中だ。

「珍しいな、パトリツィアが我が儘をいうなんて」

「お願いします」

執務室で封筒に蝋で封緘を捺すリュービクにパトリツィアが頼み込む。

椅子に背を預けて頭の後ろで手を組みながら、リュービクが難しい顔をした。

「従業員への賄いは料理人たちにとって自分の創意工夫を試す大切な機会だ。自分の順番が回ってくるのを心待ちにして準備している奴もいる。それを一品、自分の好きな料理にして欲しいというのはなぁ」

やはりだめなのだろうか。

上目遣いにパトリツィアが見遣ると、リュービクが苦笑した。

「ま、他ならぬ〈神の舌〉の頼みだ。何とでもするよ」

よし、と心の中で掌を握りしめる。

今の時期は手に入りにくい食材についてはあの居酒屋から分けて貰うことになった。

本当に不思議な店だが、こういう時はありがたい。

細工は流々仕上げを御覧じろ、だ。

ああ、腹が減ったと従業員たちが食堂に集まってくる。

「今日の賄いはなんだろうな」

なにせ〈四翼の獅子〉亭の賄いだから、いつも美味い。

病み上がりでも人一倍働いたシモンも空きっ腹を抱えているようだ。

配膳をするパトリツィアと目が合うと、シモンは気まずそうに視線を逸らす。

結納金を支払う相手は、いったい誰なのか。

この場で問い質したい気持ちを、ぐっと堪える。

パトリツィアの脳裏に、大伯母の言葉がよみがえった。

「そういう時にはね、“考える前に連れ帰る”んだよ」

そう、大切なのは「まず連れ帰ること」なのだ。

着席した従業員の前に、配膳の係が スープ(ズッペ) を注いでいく。

「え?」

従業員の誰かが声を上げた。

「 スープ(ズッペ) が、赤い?」

注がれたのは、真っ赤なスープだ。

ビーツという赤カブを使ったスープは驚くほどに透き通る深紅になる。

パトリツィアとシモンの故郷の味、ボルシチだ。

リュービクに無理を言って作らせて貰ったボルシチは、パトリツィアが味見を繰り返したので、限りなく故郷の味に近い。

元はもっと東の料理だというが、二人にとって忘れられないふるさとの味。

「え、あ……」

シモンがスープ皿とパトリツィアの顔を困惑の表情で見較べる。

無理もない。

村で男が婚姻を申し込む時、結納金を持って行き、「毎日、君の作ったボルシチが食べたい」というのが定番のプロポーズなのだ。

そして、それに対しての返事は、実際にボルシチを作るかどうかで行われる。

逆に女性から結婚を申し込むことはほとんどないから、先にボルシチを作った場合はどうなるのだろうか?

パトリツィアは、今になって不安になった。

侯爵のお嫁さんも自分から結婚を申し込みに来たというし、問題はないはずだ。

それでも心配になると鼓動が早くなる。

「あ、えーっと、その」

周りの従業員たちは事態を正確に理解しているわけではないが、何か面白そうなことが起こっていることだけは察して、にやにやとシモンとパトリツィアの顔を交互に見つめていた。

唯一少しだけ分かっているリュービクも、口元に笑みを浮かべて事の成り行きを見守っている。

「ちょっと、待ってて!」

椅子から立ち上がると、シモンはまるで脱兎の如くに食堂を出て行ってしまった。

まさか、逃げたのか?

パトリツィアは胸の前で拳を握りしめた。

逃げられたら、追うだけのこと。

大丈夫、故郷から古都まで追いかけてきたのだ。今更それが少し伸びたところで、恐れることは何もない。

どたどたと戻ってきたシモンの手には、汚い布袋が握られていた。

屋根裏の従業員部屋に隠してあったのだろう。蜘蛛の巣まで絡まっている。

「えっと、あの……」

自分の席に戻らず、シモンはパトリツィアの前に立ち、それから跪いた。

手に持った布袋を、恭しくパトリツィアに差し出す。

「あ、あの、パトリツィア……」

「はい」

「順番が逆になっちゃったんだけど」

「はい」

「ボルシチを、作って、くれませんか?」

三度目の「はい」は〈四翼の獅子〉亭の従業員の歓声に掻き消された。

羊ははじめから、群れからはぐれていなかった、ということである。