軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ジョウヤナベの夜(前篇)

とろ火でくつくつと煮込む鍋から、湯気が立ち上る。

一人用の小さな土鍋には豚肉とホウレンソウ。

煮えはじめた豚肉に、ホウレンソウの鮮やかな緑が目に嬉しい。

ジョウヤナベという名前は、 常夜(イェードナハト) の鍋という意味だと教えてもらった。

豚肉の煮える香りの中に微かに薫るアツカンの匂いが食欲をそそる。

リオンティーヌはにんまりと微笑むのを堪え切れない。

ノブの閉店後、ハンスが料理修業をしている時間はリオンティーヌの晩酌時間だ。

ニホンシュの勉強にかこつけて、色々な肴を堪能する。

最近のお気に入りは、一人用のコナベダテだ。

一口にコナベダテと言っても、色々な種類がある。

ダイコンをおろしたユキミナベや、白身魚がプリプリと美味しいタラチリ。

鉄砲貝の入ったカキナベのようにミソで味を調えるものもいい味わいだ。

トーフとちょっとした具材を煮込むユドーフも捨てがたいし、逆に色々な具材を愉しむナベヤキウドンも、腹に溜まるのが嬉しい。

肉、海鮮、野菜に麺……

ナベの料理にはとにかく種類が豊富で、シノブやタイショーでさえ全てを口にしたことがないというから驚きだ。

シノブは一度ツウフウ鍋というのを食べたいらしいが、タイショーは渋い顔をしていた。

女の子が好きな料理ということは、甘いデザートなのだろうか。

鍋一杯の デザート(デセール) は確かに男にはつらいかもしれない。

自分の裁量で料理を進めるというのは、リオンティーヌの性に合っている。

酒と肴の具合を自分で調整しながら舌鼓を打つのは、誰かに何かを強制されることのない、自分だけの幸せな時間だ。

今日食べているジョウヤナベも、お気に入りの一つだ。

肉と野菜をどういう順番で食べるのかをぼんやりと考えながら酒を飲むのは、単純に楽しい。

こういう何気ない時間は、堪らなくよいものだ。

傭兵として戦野を駆けていた頃には火の通った料理にありつけない夜も少なくはなかった。

温もりのある糧食が出てくる戦場は、それだけで大当たりだ。

コナベダテのように温かさに主眼を置いた料理は、それだけで言い知れない嬉しさがある。

もちろん戦場の粗雑な糧食など、この店で出てくる料理とは比べ物にならないのだが。

焼いただけ、茹でただけ、切っただけ。

日持ちがするようにしっかりと焼しめたパン(ブロート)はガチガチに固くなっていて、噛み切るのに顎が疲れる代物だったし、新鮮な野菜なんてもちろん手に入すはずもなかった。

スープは薄く、シチューにはクズ野菜しか入っていない。具に肉の切れっ端が入るのは戦勝祝いくらいのもので、脂身が申し訳程度に浮いているだけだ。

リオンティーヌのようにそこそこ金のある人間はともかく、傭兵稼業だけで食っていこうという農民の次男三男出身の人々は、金がないから他所で糧食を買うこともできない。酒保商人の用意する食糧に文句しか言えないのだから余計に辛かっただろう。

荷馬車ごと雨に濡れて傷んだパンを酒保商人に売りつけられたことも一再ではない。

契約で軍の司令官が支払う金額は定まっているから、糧食の質を落とせば落とすほど酒保商人の懐は潤うという仕組みを知った時にはさすがのリオンティーヌも閉口した。

勝とうが負けようが、酒保商人だけはしっかり儲ける仕組みがあるのだから大したものだ。

〈軍隊とは畢竟、足の生えた胃袋〉

昔の偉い武人の言葉だそうだが、傭兵にとっては敵も怖いが飢えも怖い。

特に飢饉の年の戦争は酷かった。

敵も味方も食糧がないから、勝っても腹いっぱい食べられない。

腹が減って眠れない晩を幾夜過ごしたかなんて、思い出したくもなかった。

「そう考えると、ここは天国さね」

口を衝いて出た言葉に、ハンスが顔を上げる。

「ほんと、天国みたいだよね」

自由に料理の試作をさせてもらえることを、ハンスは言っているのだろう。

失敗も修業の内と、タイショーはハンスに好き勝手にさせている。

自己流に食材を使うから、とんでもない味のものが出来上がることもあった。

その分、営業時間中の仕込みではタイショーの技を惜しみなく教え込まれているから、ハンスにとっては恵まれた環境だ。

教えられることと、自分で学ぶこと。

両者の均衡が崩れると、なかなか上手くいかないものだ。

教えられるだけだとすいすい道を勧める気がするが、殻を破ることができない。

自分で学ぶだけだと、道に迷った時に途端に足踏みすることになる。

剣術を修めるときのリオンティーヌにも、タイショーのような師がいれば。

考えても詮無いことだと思いながら、時々考えずにはおられない。

貴族として誰かに嫁ぐでもなく、女傭兵として名を上げるでもなく、想い人も追い切れず。

考えるまでもなく、中途半端な人生を送ってきた。

きっと自分は何者にもなれず、名を残すことなく終わるのだろう。

〈槍〉のウルスラとまみえた後だからこそ、なおさらその思いが募る。

生きた伝説であるウルスラ・スネッフェルス。

彼女は貴族として領地と民とを立派に治め、数え切れぬ武勲を上げ、女としても生きた。

そういう輝かしい太陽のような人生を歩む先達の姿を見てしまうと、自身の人生はくすんだ石のようにも思えてしまう。

しかしそれでも、日々を生きている。

美味い酒を飲み、美味い肴を食べ、気の置けない人々と生きる生活。

戦場にいたからこそ、分かる。

平穏無事な生活なんて、望んでも得られるものではない。失わなければ気付かないものだ。

ああ、だからこそ。

リオンティーヌはしみじみと呟いた。

「ほんと、天国みたいだよ」

あるいは、天国に見える地獄なのか。

ここにいる限り、この先には一歩も踏み出そうと思えない、地獄。