軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

テンプラと美女の泪(後篇)

鈴の鳴るように細く、しかしそれでいて耳にした者を魅了する声。

店を覗き込んだのは、長い黒髪の女性であった。

前髪を長く垂らしているから、瞳の色は窺えない。

しかしそれでも、人々の眼を奪わずにはいられないほどの美貌であることが分かる。

「いらっしゃいませ! はい、ここが居酒屋のぶで間違いないですよ」

ああよかったと、胸を撫でおろす女性。

誰かに紹介されてこの店を訪れたのだろうか。

だとすれば、紹介者は随分と店を見る目のある人物だということになる。

シノブに案内され、黒髪の美女は、おずおずとカウンター席へと腰掛けた。

何気なくイーサクがアルヌの方へ視線をやると、どういうわけか、黒髪の女性をじっと見つめている。その目は、真剣そのものだ。

「ご註文は……」とシノブが尋ねようとすると、女性は、はっきりとした口調で、

「テンプラ、をお願いします」と註文した。

珍しいこともあるものだ。

ノブを訪れた客は、はじめて聞く料理の名前に困惑することも多いというのに。

「はい、天ぷらですね」

シノブが註文を復唱し、タイショーが調理に入る。

カラカラカラカラという油の音色が、耳に心地よい。

黒髪の美女は、その様子をうっとりした様子で見つめている。

しかしそれでいて、背中には何故か、深い憂いの色を背負っていた。

何か事情があるのだろうか。

侯爵に即位する前、吟遊詩人を志していた頃のアルヌであれば、間違いなく声を掛けただろう。

けれども今のアルヌは、押しも押されもせぬ諸侯の一角。

迂闊に問題に首を突っ込める立場ではない。

かと言って、主人が義侠心まで捨てたわけではないことをイーサクは知っている。

だからこそアルヌの内心を想って、辛いのだ。

アルヌはきっと、声を掛けたいだろう。

相手が女性だからではない。

困ってさえいれば、それが老人であろうと子供であろうと、アルヌの前では変わらないのだ。

吟遊詩人の修業をすると称して無頼のような暮らしをするアルヌと一緒に過ごして、分かった。

サクヌッセンブルク侯爵たるアルヌは、貴族として民と領地を統治するために生まれてきたような人だ。

本人が向いていると思っているかどうかは、問題ではない。

アルヌの、その人格が、能力が、他の全てが、統治者としての貴族であることに向いている。

それはつまり、世の中の大半を占める「向いていない貴族」との軋轢を避けられないということでもあった。

河賊の問題もそうだ。

最近では、大河賊などと名乗り、自ら舟を率いる男爵まで現れる時代。

河賊を取り締まり、通商を盛んにしようというアルヌの考えが受け入れられるはずがない。

アルヌこそ、最も誇り高き海賊の血を引いているというのに、皮肉なものだ。

敵の多いアルヌにとって、今は重要な時期だった。

有象無象の運河両岸の雑魚諸侯どもに付け入る隙を与えてはならない。

だからこそ、ここで不用意にご婦人に声を掛けることも許されなかった。

それがどんな罠であるかもしれない。

罠でないとしても、どんな厄介ごとに繋がっているかが分からないのだから。

しかし。

イーサクは、思わず生唾を飲んだ。

アルヌに統治の才能があるように、世の中には無数の才能がある。

中には、料理を美味しそうに食べる、という才能もまた、存在していた。

黒髪の美女は、その才を天から与えられていたようである。

サク、サクサク……

彼女が小さな口でテンプラを齧る音が、どうしてこうも美味しそうに聞こえるのか。

んん、と美味しさを堪え切れずに小さく身悶えするのだが、それを隠しきれていないのもまた、何とも言えない妙味がある。

エビ。

イカ。

レンコンに、アキアジ。

どれもこれも、黒髪の美女がかぷりと齧ると、神々の世界の食べ物に見えてしまう。

「どのテンプラも、本当に美味しい……」

恍惚とした吐息を漏らす美女に、タイショーがありがとうございます、と応じた。

料理人として、料理を美味しく食べてもらうことは、何よりも嬉しい。

その相手がこれだけ美味しそうに食べる美女とあれば、なおさらだろう。

ゴクリ、とイーサクはもう一度生唾を飲んだ。

どうしてこうも、余人の食べているものは美味しそうに見えるのだろう。

「タイショー、テンプラの盛り合わせを……」

「あ、こっちにも追加で」

アルヌも同じ思いだったようで、追加の註文をする。

あいよ、と威勢のいい返事が心地よい。

カラカラカラカラと、油の音。

これが、自分の食べる分を揚げている音なのだから、嬉しさも 一入(ひとしお) だ。

早速揚がってきたイカのテンプラに、豪快に嚙り付く。

ザク。

「あふっ」

揚げたての熱さで口の中を少し火傷するが、これもまた醍醐味だ。

揚げられることで引き立てられたイカの甘みが口の中に広がり、思わず頬が緩む。

お次は、レンコンだ。

塩をちょんと付けて、がぶり。

少し厚めに切ってあるから、ほっこりとした食感が活きている。

淡白な味わいだが敢えて塩で食べるのは、ほのかな甘みを堪能するためだ。

幸せな、ひととき。

見ればアルヌも、黒髪の美女も、テンプラに舌鼓を打っている。

このとき、この瞬間、ここにいる三人は、テンプラを通じて繋がっているのだ。

そう考えると、なんだか不思議な一体感がある。

「ああ、本当に美味しい」

黒髪の美女が漏らす愉悦の声に一欠けら交じる、悲嘆の声音。

見れば、人差し指で涙を拭っている。

「テンプラの作り方を、教えて下さる?」

いいですよ、とタイショーが説明をはじめると、美女は、待って待って、少し待って下さる、と手持ちの袋から矢立と羊皮紙を取り出し、そこへ聞いたことを書き付けはじめた。

微笑ましい光景だ。

と、アルヌの表情が途端に険しくなった。

何故だろうか。イーサクには理解できない、何かがあったのだろうか。

一通りの説明が終わり、美女はさっと席を立つ。

「すみません、細かい持ち合わせがないから」と取り出したのは、金貨だ。

テンプラを食べられた記念に、お釣りは要らない、という。

その金貨を見て、イーサクは目を見開く。

〈凍てつく島〉のスヴェン〈統一王〉金貨だ。

古都でお目にかかることなど、滅多にない。

どうしてこの美女は、この金貨を。

「ありがとう。本当に、美味しかった。ありがとう」

問おうか問うまいかと一瞬の逡巡をしている内に、黒髪の美女は通りへと出てしまう。

「……イーサク、あの女性について調べろ」

いつになく強い口調で、アルヌが命じた。

はい、と答えて飛び出そうとするイーサクの耳に、アルヌが囁く。

「……あれは、オーサ姫の筆跡だ」

アルヌが続ける。

子供の頃から見続けてきたオレが、見間違うはずがない。髪の色が違おうが、ここにいるはずがなかろうが、絶対に、だ。

アルヌの強い言葉に、驚くよりも前にイーサクの足が動く。

射られた矢の如くに店を飛び出した。

この謎を、必ず突き止める。

それこそが、サクヌッセンブルク侯爵家に仕える者として、アルヌに仕える者としてのイーサクに課せられた責務なのだ。